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綾沙かへる
綾沙かへる
novelistID. 27304
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OP 10

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 ダイニングキッチンから寝室に戻ると、寝返りを打ったのか額に乗せてあったタオルが枕の上に落ちていた。赤く火照った頬と相俟って、随分可愛らしい光景だ、と一人で笑いを噛み殺した。幾分、荒かった呼吸の音が緩くなっている。
 ほとんど溶けてしまった氷の変わりに新しいものをあけ、温いタオルを浸してよく冷やしてから再びキラの額に乗せた。
「…つめ…」
 微かに眉を寄せて零れた言葉は恐らく冷たい、と言ったのだろうけれど、擦れた声は音にならなかった。変わりに、薄く瞼を持ち上げる。
「…れ…?」
 熱の所為で潤んだ瞳がぼんやりと天井に視線を彷徨わせ、自分を見つけた所でぴたりと止まった。ついで、赤い唇を微かに吊り上げて笑みを浮かべる。
 ぞくり、と背中を何かが突き抜けていく感覚。
 たぶん、本人にそんな意識はまったくないのだろう、と思う。汗と額を冷やすためのタオルで濡れた髪と、熱で緩んだ涙腺から滲む涙に縁取られた瞳。中性的な整った顔立ちが、それを一層惹き立てる。
 いっそ、妖艶、とでも形容した方がよさそうな。
 勘弁してくれ、と内心白旗を振った。相手は病人で怪我人だ。まったく今までこれっぽっちもそんな気は欠片も見えなかったくせに、本当に些細なことで姿を現すのは人間と言う獣の本性だ。「ただの動物」だった頃から全ての生き物が等しく持つ本能の欲求。
 再びずれて落ちてきたタオルの位置を直して、もう少し寝てろと告げると軽く頷いて目を閉じる。薄い瞼に濃紫の瞳が覆われるだけで強い呪縛から解き放たれたような溜息を吐いて、理性と言うものに感謝する。
「…ケチってないで冷却シートにしとくんだった…」
 そうすれば、少なくともタオルを替えるたびにびくびくしなくて済んだかもしれない。


 寝起きがぼんやりしているなんて、いつものことだ。普段より多少身体がだるくても、そういう日もあるから特に気にしない。それにしてもいつもと天井の色が違うのはどうしてだろう、と思いながらゆっくりと体を起こすと、鈍い痛みが左肩を突き抜けた。
「…痛…」
 何の皮肉か、そのおかげでぼんやりしていた意識がはっきりと覚醒する。痛覚に反応してじわりと浮かんだ涙を乱暴に拭って、今度は慎重に体を起こす。半分起き上がってぐるりと室内を見回すと、どう見ても標準の病室。見慣れたテーブルセットも、使い慣れたマシンの乗ったデスクも見当たらず、柔らかな色合いのカーテンが揺れる窓と、クリーム色の床にパイプの椅子とサイドボードが視界に入る。
 どうしたんだっけ、と記憶を掘り起こしていると、ぞんざいかつ控えめなノックが響いてスライドタイプのドアが開いた。その向こうから姿を見せた人に軽く目を見開く。
 起きてたのか、と言って柔らかな笑みを浮かべたディアッカは何の疑問も抱かず持っていた白い花が活けられた花瓶をサイドボードに置き、パイプ椅子に腰を下ろした。
「…なんで…」
 ただその光景を呆然と見ていて零れた言葉に、今度は苦笑を返す。
「まあ、三日も寝てれば仕方ないか」
 お前、家まで来て倒れたんだよと言ってから、ずいぶん回復したよなと続けた。
「覚えてなくても仕方ないけど、お前のいたコロニーで色々あって今ここに避難してる訳。熱出して状態が思わしくなかったから病院にいる、ってこと」
 そこな、と視線で示された先には固定された左肩。指先で触れると、触れたという感覚が伝わらないほど厚く巻かれた布の感触ばかりを返す。
「…撃たれた…?」
 ゆっくりと甦る記憶。
 崩れた建物、消えた命、向けられた憎悪。消えてしまいたいと思ったこと、逃げてしまおうと思ったこと、思い出したこと。堰を切ったように溢れ出したそれらは一瞬で空白だった時間の流れを埋めていく。
「…そっか…」
 ポツリと呟いて、それきり沈黙が流れる。
 不意に、柔らかな香りが鼻腔をくすぐった。開いた窓から流れる風が、花瓶に活けられた白い花を微かに揺らし、そこから甘い香りが漂っている。つられるように動かした視線に気付いたのか、ディアッカは山茶花だよ、と教えてくれた。
「なんか、気に入ったからさ。気が付いたら持って来てた」

 白い花は清廉潔白、凛とした強さを見せるようでいて儚く淡いイメージを抱かせる。
 この花を見付けたとき、どうしてかとてもキラのようだと思ったのだ。


「漸く、片付きましたわ」
 そう言ったラクスが顔を覗かせたのは、目を覚ましてから何日かが過ぎた頃。茶色かった紙は柔らかな桃色に戻っていた。けれど、長さはずいぶんと短い。そのイメージ通りの清楚なワンピース姿の少女は、持っていた箱をサイドテーブルに置いて不意に微笑う。
「…珍しいお花がありますのね」
 視線で追った先に、笑みが浮かぶ。
「…うん、ディアッカが持ってきてくれるから」
 そうですか、と微笑で返したラクスはゆっくりとした動作で椅子に落ち着き、お加減はいかがですかと続ける。
「あの時は…こうするしかありませんでした。皆さん、随分心配していましたのよ」
 だいぶ良いよ、と返すと、彼女はふわりと笑みを浮かべた。
 結局、犯人である二人を捕らえることは出来ず、行方も知れぬまま。多数の犠牲者を出した爆発は、事故として終焉を迎える。けして小さいとは言えない禍根を残したまま、真実はいずれ闇の中へと埋もれてゆくのだろう。
 けれど、そうすることでしか護れないものもある。ただ真実だけを伝え、暴いて行けば良いという事ではなく、いたずらに混乱を招くばかりの情報は消し去ったほうが世界のためでもあることを知っているから。
 例えば、キラ自身のこと、たくさん生み出されたはずの実験体たちの事も。
「…いいんだよ、きっとそれで。知らないことがあったって、世界は変わらない」
 それを知る自分たちが、繰り返さなければいい。どんな手段を持ってでも、止めればいい。
 そのために出来ることを、見付けた。
「だから僕も、もう逃げないから」
 まっすぐに上げた視線は、灰紫の柔らかな瞳にぶつかる。そうですか、とラクスは微笑った。
「キラの決めたことならば、私は何も申しませんわ」
 想うこと、それを成すための力を。
「望むことも、決めたことも…結局は、人の力ですから」
 だからこそ、人を信じたいと自分たちは願ったのだ。
「…有り難う」
 精一杯の笑みを浮かべると、応えるようにラクスは小さく頷いた。

 そろそろお暇致しますわ、と彼女は言って席を立つ。
「キラが大丈夫だと伝えなくてはならない人がいますもの」
 毎日うるさいんですのよ、と彼女はくすくすと笑った。それが誰のことか簡単に想像がついてしまって、つられるように笑う。
「うん、もう大丈夫だって、伝えて」
 アスランによろしく、と続けると、彼女は頷いた。そうして、白い花に視線を向けて楽しそうに知っていますか、と呟いた。
「山茶花の、花言葉」
 白い花はディアッカが毎日持ってくる。キラにはどんな種類で何が違うのか区別がつかないけれど、話を聞く限り毎回違う種類のようだ。それでも、決まって白い花を彼は届けてくれる。
「…知らない…っていうか、僕が知ってると思う?」
 微かに眉を寄せて苦笑を零すと、ラクスは少しだけ意外そうにあら、と言って振り返った。
作品名:OP 10 作家名:綾沙かへる