OP 11
そうだよ、決めたことがある。
だからここから。
今度こそ。
「言いたいこと、なんとなく分かるよ」
とても強引に退院してきてから、この部屋に転がり込んでだいぶ時間が流れた。言い出したら聞かない性格を彼はよく理解しているようで、渋い顔をしながらもとりあえず何も言わない。今のところ、は。
現代の素晴らしい医療技術の恩恵に与って、銃弾の抉った傷は完全に塞がっている。ただし、綺麗に跡形もなく、と言う訳ではない。分かり易く言うならば、再生した少し色の薄い皮膚が微かに盛り上がった「傷痕」が残っている。戦争中に受けた傷も、そのまま残っている。消してしまうのは簡単だ。けれど、それを忘れないために残しておいた。自分自身に対する戒めと、それに関わるものを、人たちを、忘れないために。弱かった自分を忘れないために。
それを見るたび、微かに眉をひそめることを知っている。そうして決まって消さねぇの、と呟くのだ。
「僕が、そうしたいからいいの」
答えも決まっている。そう返すと、面白くないような、残念そうな、なんとも微妙な顔をするのがおかしい。多分、彼は純粋に「それ」があることで追い詰められることを恐れているのだと思う。
「キラ」にとって、それは悲しみと憎しみの象徴でしかないことも、また事実なのだと理解しているから。
何をもってして「完治」と称するのかが分からない。傷が塞がったことでなのか、その傷痕すら跡形もなく消してしまったところでなのか。
少なくとも、キラは前者なのだろうと認識している。医療技術が進歩して、皮膚のクローニングによる再生が一般的な時代だ。その中で、あえて自然の状態を保つ、という選択をすることでキラは「造られた」命であることを覆したいのかもしれない。
「…おいおい」
盛大に溜息を吐いたのは、この部屋にひとつしか存在しないベッドの上に転がって端末を弄っていた筈のキラが、いつの間にか風呂上りのままろくに水滴を拭いもせず、パジャマをきちんと着ることもせずに転がっていたからだ。柔らかな薄い毛布は、おそらくそこに主然と転がっているキラのつけた足跡の形にくっきりと凹んでいる。床の上には湿ったバスタオルが放り出されて丸まっていた。
「…風邪引くぞ」
そもそも病みあがりだ。もともとそうではなかったにしろ、体力が極端に落ちた状態ではいかにコーディネイターといえども簡単にウィルスに負けてしまうだろう。
「…うん…そうなんだけど、ちょっと」
のぼせたかも、とぼんやりと呟く。
「考え事してて。ちょっと浸かり過ぎたかなー、なんて」
ほとんど本来の使われ方をしていなかったバスタブがこうも頻繁に使われるようになったのは、キラが湯船に浸かりたいと言い出したからだ。そういう習慣がなかった自分にとってある意味新鮮だった。ところが、よくキラはこうして湯あたりでぐったりしている。
「…禁止するぞそのうち…」
呆れているのか疲れているのか区別のつかない呟きとともに足元に丸まっていたタオルを拾い上げる。乱暴に払ってから、それを視線だけで追っていたキラの頭に落とした。
「…うわっ」
何するの、と布越しにあがった抗議を綺麗に無視して、少し強引に髪を拭く。くぐもった声を上げながらもおとなしくされるがままになっていたキラは、実際のところ抵抗する体力がないのだと気付く。栄養剤でかろうじて命を繋ぐ身体は、近くで見れば見るほど恐ろしく細く、白い。
「痩せてんなあ、お前」
相変わらずきちんとした食事を摂っていないのだから当然だ。分かってはいても痛々しいほど痩せ細ってしまった身体は見ているほうが辛い。
「…ごめん、ね」
タオルの下から聞こえた小さな謝罪に、何で謝るんだよと苦笑を返す。
「お前の所為じゃないだろ」
どちらかと言えばキラも被害者だ。
本当は、戦争に被害者も加害者もない。何を得ることもなく、何かを失うばかりのそれは誰もが加害者で、被害者だ。
何度も繰り返された遣り取りに、それまでおとなしくしていた細い身体が急に倒れこんできた。両手で掴んでいたタオルから手を外して抱き留めると、キラは小さく笑みを浮かべたようだった。
「…有難う」
それに応える言葉が分からないから、薄い身体をただ柔らかく抱き締める。
山茶花の花言葉、と唐突にキラは呟く。
「…山茶花?」
そうだよ、と言って上げられた顔は、ひどく楽しそうだ。
「知ってて、持ってきてたの?」
バレた、と思った。くすくすと笑うキラにまあな、と溜息交じりに答えるのが精一杯だ。
「…ふぅん?」
生乾きの髪がさらさらと揺れる。まるで挑発するように。
「可愛い、ね」
そう言うとこばっかり、とキラは続ける。別に可愛かねーだろ、と言いながら両手で柔らかな頬を包んで。
「…いいじゃん、理想で」
吸い寄せられるように、口付けた。
確かに、理想なのかもしれない。
こうして柔らかで優しい時間が流れていくこと。それでも、それだけでは望むことは叶わない。
「…あのさ」
ゆっくりと離れていくその人を見つめながら。
「それだけ、で、いいの…?」
声が震える。
あの時も同じことを告げた、けれど。
「…お前、なぁ…」
苦笑交じりにディアッカはかなわねぇよ、と続ける。
「ホント、オレの半年分の努力を綺麗に吹っ飛ばしてくれたんだけど」
たった今、と言ったかと思うと、視界がぐるりと回った。天井が見える。背中に緩やかなスプリングの感触。
「…遠慮、してた?」
鼓動が煩い。そう望んだのは自分なのに、少し、怖い。
「んー…むしろ、我慢してた」
どこか諦めたようにディアッカは笑う。
「逢いたくないわけないし…触れたくないわけもないし」
何度も願ったこと。望んだこと。多分何もかも同じことを。
「…僕も、逢いたかったし、触れたかった」
そっと伸ばした指先が、ディアッカの頬に触れる。重なった指先が絡み合う。
「壊しちまいそうで怖かったんだ」
いろんなことをさ、とディアッカは言う。
「優先順位、間違えそうで。今、大事なことって考えたら我慢するしかなかったし…」
自分が迷っている間にも、この人は決めたことの為に歩いていた。それが分かっていたから。
「やっぱり、ごめん」
邪魔しちゃったね、と言って笑うと、心底心外そうに違うだろ、とディアッカは言う。
「オレが根性ないだけだからさ」
柔らかな口付けが降ってくる。額に、頬に、唇に。
「…色々、決めたから、僕も」
だからいいよ、と呟いた言葉が掠れていた。
恐ろしく、だるい。
遮光カーテンの隙間から零れる光に、点けっぱなしだったナイトライトを消した。すぐ隣で丸くなっているキラを起こさないようにゆっくりとベッドを降りて、ずるずるとカーペットの上に座り込んだ。
「…あーあ」
零れた溜息はこれまでの努力が水泡に帰したことにか、自信の理性が思ったより簡単に飛んでしまったことにか。
どちらにしろ微かな自己嫌悪を覚えながら、落ちてきた前髪を掻きあげて重い腰を上げた。とりあえずぼんやりした頭を働かせるためにシャワーでも浴びるかと思い直して、無駄になると分かっていても二人分の食事を用意するために。