OP 11
立ち上がって振り返ると、いつの間に目を覚ましたのか半目でキラがぼんやりと空を見つめている。
「…キラ?」
屈み込んで目の前でひらひらと手を振ると、だいぶ気の抜けた返事が返ってくる。明らかにまだ夢の中だ。それでもさっぱり正気で起きられるよりましかもしれない。
「も少し寝てていいから」
苦笑交じりに零すと、また気の抜けた動作で微かに頷く。その仕種がいちいち可愛い、と思ってしまうあたり結構重症だ。
ぼんやりした濃紫の瞳が再び閉じられるのを確認して踵を返すと、ぞんざいに羽織っていたシャツの裾を不意打ちのように勢いよく引っ張られて転びかける。
「っ…なんだ?」
再び振り返ると眠ったはずのキラががっちりと布を掴んでいる。
「…ディアッカ…」
ぼそり、と呟かれた言葉。
「…おなか、すいた…」
とても久し振りに聞いた言葉に、思わず笑みが零れた。
動物のようだ、と思う。
空腹を覚えた、だからそれがするりと言葉になって零れ落ちた。けれど、その感覚自体が久し振り過ぎて奇妙な感覚に襲われる。
覚醒しきらない意識の中で、今の何だろう、とゆっくり反芻する。身体中がひどく重たいのに、そこだけ軽くなったような。
「…おなか空いた?」
ここ数日口にしたものを思い返してみる。いくつかの栄養剤と、コンソメのスープ、水。普通の人間が生命活動を維持するにはとても足りない。けれど今まではそれで十分だったのだ。
「…アレ?」
いうなれば、「元に戻った」と言うところだろうか。
脳の奥深くで生まれた欲求に従って、求め合って。
「…うわ…あ…」
余計なことまで思い出してしまって頭を抱える。旧い本能に従って求めたことが、結果として「生きる」ことへのすべての欲求を呼び起こしたのだろうか。どちらにしろ身体も心も「何か」を乗り越えたのかもしれない。
「…凄い、なあ」
人間って本当にしぶとい。
ポツリと呟いて、うまく力の入らない身体を半分起こした。太腿の内側が引き攣ったように痛む。どれだけ余計なところに力が入っていたのか、関節という関節がみしみしと音を立てているようだ。そこらじゅう油の切れた機械のようにゆっくりとした動作でベッドから降りて、カーペットの上に放り出されていた誰のものだか分からないシャツを羽織る。
「…痛…い…」
本当に身体中が痛い。どこかを少し動かしただけで痺れたような鈍痛が走る。なぜか情けないなあ、と思いながらふらつく両足を叱咤してベッドルームから出ると、ふわりと甘い香りがした。
キッチンスペースに立つ後姿になぜかほっとして、ディアッカ、と声をかけた。それが思うように音にならないことに少し驚く。それでも届いたのか、振り返ったディアッカはいつものように笑っておはよう、と言った。
蚊の鳴くような声がした。掠れたそれが先ほどまで蓑虫のようになっていたキラだと認識するのにそう時間はかからない。
振り返ると思った通り、壁に寄りかかるようにして立っている。多分、かろうじて、と言うほうが正しい。体力のないキラにあれだけのことをしておいて、今こうして自力で起きて来た事に感心すらしてしまう。
「おはよ」
苦笑交じりに答えると、キラはふわりと笑みを浮かべておはよう、と言った。
今までかき回していたミルクパンをクッキングヒーターからおろしてスイッチを切ると、冷蔵庫からミネラルウォーターのボトルを取り出す。ベッドルームの壁から動かないキラにそれを渡して、自分の所業に少しだけ目を逸らしたくなった。
白い肌に、いくつも残るもの。
「…大丈夫か?」
のろのろとした動作で水を飲むキラに思わず訊ねると、そう見えるの、とキラは困ったように微笑った。
「…多分、ね」
水を飲んでゆるゆると溜息を吐くと、シャワー浴びてくる、と言いながらよろよろと歩き出す。 一人で大丈夫かと訊ねたら、なぜか顔を真っ赤にして平気、と小さく言い残して行った。
頼りない背中がバスルームの向こうに消えるまで見送ってキッチンに戻ると、作業を再開する。部屋中に漂う甘い香りの正体はミルクパンで煮立てられていたチャイだ。シナモンパウダーを振り掛けて再びクッキングヒーターに戻し、ふたをして保温する。
スクランブルエッグを作るために卵を持ったとたん、それは手のひらから転がり落ちた。
「…思ったより動揺してるのか…」
幸い床に敷いたキッチンマットの上でつぶれた卵の欠片を拾いながら零れた呟きに苦笑する。
動揺しない訳がないのに。
「あーあ、まだまだ、だよなあ」
これから先、ずっとそばにいると決めたのに。
「しっかりしろよ、オレ」
先が思いやられる。
なんだかくすぐったい、気がする。
ごく少量ずつ並べられた朝食。柔らかく甘い香りが立ち上る少し大きめのマグカップを両手で持ったまま、顔を上げることも出来ない。湿った前髪の向こうに見え隠れする相手も、コーヒーの入ったカップを持ったまま動かない。
「…食わねぇの?」
少し諦めたような声が聞こえた。こっそり目線だけ上げると、微かに眉を寄せて自分を見ている菫色の瞳が映る。
「…う…」
空腹を主張したのは自分だ。それでも、固形物を摂取していない時間が長すぎた。せっかく用意してもらったのに、暖かなカップから手が離れない。
無理にとはいわねぇよ、とディアッカは笑った。
「一応、こっち用意してあるし」
テーブルの端に並んだビンは、食事の替わりに飲んでいる錠剤。それらがあまり好きではないから、無意識に眉を寄せる。
「…っ、食べる、よ…」
漸く手を伸ばしてスプーンを持った。食べる、と言ってしまったからには少しでも、と意を決して掬い上げたのは、ミルクのリゾット。突けば崩れてしまうほど柔らかく煮込まれたそれを恐る恐る口に運ぶ。
「…熱…」
広がるのは微かなチーズの香り。ミルクと生クリームの柔らかな甘みを残して、たいした抵抗もなく咽喉の奥を滑り落ちていく。
「おいしい…」
意識するまもなく零れた感想に、そっか、と満足そうにディアッカは笑った。
「少しずつでいいから…元に戻ってくといいな」
子供より少ない量の食事を終えると、栄養剤以外の薬を並べてディアッカは言う。
どこまで戻れば「元に」戻るのかはよく分からない。どんなに足掻いても戦争に巻き込まれる前の状態に戻ることは出来ないのだから。
「そう、だね」
だからせめて、望むことを掴むために。それを、自分の手で掴めるように。離さないように、壊さないように、護っていけるように。
「…決めたこと、あるんだ」
悔やむこともあるし、きっといつまでも自分を責めることもある。けれど、出来ることも、ある。
「もう迷わない、よ」
あなたの隣で生きていたいと、願ったこと。
だからここから。
もう一度。
END.