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一片の氷心

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 丞相府の一室。
 謁見から戻って来た諸葛亮を待っていたのは、竹簡を抱えていた青年だった。
「姜維、来ていたのですか」
「おかえりなさい、丞相。この書簡ができたのでお届けに参りました。……いよいよ街亭を攻めるのですね」
 分かっていたように言う姜維に満足気に微笑んで、彼から竹簡を受け取った諸葛亮は一つ頷いた。
「ええ。それでその戦いで貴方には一軍を率いてもらいます」
「はい!」
 姜維にとっては、蜀に来て初めての大きな戦いである。
 自然と身が引き締まる思いと同時に、自分を買ってくれた諸葛亮の為にも戦功を立てようという高揚感が一気に出て来た。
「馬謖と共に街亭を落として下さい。私も後から行きます」
「……え、あ……はい」
 馬謖。
 その名前に、姜維の心は急激に冷めていった。
 馬謖のことは嫌いではない。
 しかし、苦手な部類の人間だ。
 同じ丞相府に在籍する関係上、顔を合わせたことは何度もある。
 が、ほとんど言葉は交わさない。
 そして、この馬謖は姜維が来る前まで、諸葛亮唯一の弟子だと言われていた。
 最も、これは諸葛亮自身が言い出した訳ではない。
 周りがそう言っていたのだ。
 元々『白眉』たる馬良の弟という前評判を持っていたことと、馬謖が丞相府で諸葛亮に付き従い雑務をこなしていることから、周りからの注目を得たのだ。
 馬謖もその『噂』通り、彼に対して盲目なほど忠実だった。
 しかし、噂が何度表面化しても諸葛亮は沈黙していた。
 決して冷たく接する訳でもなく、諸将と変わりなく接している。
 ただ、はっきりとした事実が一つだけあった。
 馬謖が傘下に入って以来、彼に任せる戦いは一つもなかった。
 それがどういう意味を持つものなのか、丞相府内で話題になったこともある。
 その一方で、『馬謖は口先だけだ』とはっきりと口にする者もいる。
 丞相府内で馬謖について話題が出ると、人々は様々な反応を見せているのが今の状況だ。
 姜維はそれを見たり聞いたりしていたせいで馬謖が苦手になったという訳ではないが、馬謖を見ていると目を逸らしてしまう自分がいることをはっきり自覚していた。
 姜維は天水での戦いで、魏からは『裏切り者』という烙印、そして蜀からは『魏からの降将』という二つの名を持つことになった。
 諸葛亮自ら策を弄して姜維を降したこと、そして自分の才を引き継ぐべき者だと諸葛亮が公言したことが丞相府内ばかりでなく軍全体を大きく揺るがし、馬謖の立場を微妙にさせたのだ。
 そんな姜維に対して周りからの風当たりは厳しく、姜維は懸命に心を砕くもあまり芳しい改善は見られなかった。
 そこへ来て、今回の街亭への出陣となり、周囲は再び騒々しくなった。
 『この戦いで、どちらが諸葛亮の弟子に相応しいかを決める』
 本人が口にした訳でもないのだが、そんな雑音が否でも耳に入る。
 出陣を翌日に控えた朝。
 姜維は青い空を見上げ、重い溜息を洩らした。


「大変だな、伯約も」
「いえ……」
 毎朝の鍛錬。
 蜀に降りしばらくして趙雲から朝の鍛錬に誘われた。
 降って以降は丞相府に籠もってばかりの生活となり、身体を動かせることはとても嬉しかった。
「何も気にすることはない。天水で戦った時のように、しっかりと自分の意思を貫けば、お前の才は輝くと私は信じている。自信を持て、伯約」
「子龍殿……。ありがとうございます」
 天水での戦いでは敵だった趙雲。
 しかし、こうして一旦仲間として認めてもらえると、絶大な信頼を置いてくれることが何より嬉しいと姜維は思う。
 心開ける数少ない人間の一人だ。
 趙雲は姜維の肩に手を置く。
「それに孟起が一緒だ。頼れる男だから、何も心配することはない」
「はい……」
 姜維の中で別の不安が僅かに広がった。
 今回、街亭攻略に参加する馬超。
 趙雲と同じ五虎大将の一人で、輝かしいまでの出で立ちから錦馬超と呼ばれている。
 そして五人の将軍の中で、姜維と話す機会がほとんどなかった人物だ。
 降った後、成都で行われた宴で顔を合わせた程度しかない。
 その前も後も、馬超は任で成都を離れているからだ。
 姜維はそんな馬超のことについては、噂でしか耳にしていない。
 曹操軍によって一族を殺されてしまった。
 だからあまり人を寄せ付けず、孤高の人物だと。
 しかし、同じ五虎大将の趙雲が『頼れる男』と言うのだ。
 間違いなく頼りとなるだろう。
 ただ、上手く接することが出来るかどうかが問題だった。
 姜維は魏の降将で、彼にとって扱い辛い人間だろう。
 魏の頂点に立つ曹操によって彼は家族を殺されたのだから。
 どうしても、姜維の背後に魏を見ることだろう。
 その事情を知っているだけに、姜維はますます街亭へ向かうことに関して気後れてしまうのだった。
作品名:一片の氷心 作家名:川原悠貴