一片の氷心
山を挟んで、蜀と魏が睨み合う。
姜維と馬謖の軍が蜀の本陣に到着した時には、既に他の軍は到着していた。
総大将を馬謖、馬謖の副官として王平がついている。
将として、姜維の他に、馬超、魏延、高翔、星彩の5人。
後続として、諸葛亮が来ることになっている。
到着した翌日の夜。
姜維は幕舎の外に出て、馬謖の軍の動きがおかしいことに気がついた。
慌しい雰囲気だ。
それほど時間が経たず、一軍が幕営から出てきた。
慌てて追いかけ、馬に乗り一軍を率いる馬謖に追いつく。
「今からどこへ出陣なさるおつもりか!」
姜維ははっと気がついたように、闇の中に微かに浮かぶ山頂を見た。
「まさか、山頂にっ? 馬謖殿! 山上に陣を構えるなとの丞相の言葉をお忘れか!」
しかし、馬謖は全く無視している。
聞こえたのはたった一言。
「機に臨みて変に応ず。勝てば丞相もわかって下さるのだ」
姜維は思わず歩みを止めた。
それに構うことなく、馬謖は真っ直ぐ山頂へと向かう。
「……馬謖殿、貴方は……」
勝てば?
丞相の言葉に反してまで、『それ』は欲しいものなのか?
言っていることは分かる。
だが、納得はできなかった。
姜維はまだ諸葛亮と過ごした日は浅い。
しかし、近くで過ごすうちに、それなりに諸葛亮の人となりを見て来た。
己を律し、規律には厳しい人物である。
何より、諸葛亮の言葉に反した事実だけで、兵士達は簡単に動揺する。
それだけ諸葛亮は国において劉備と並んで絶対的な存在なのだ。
小さくなっていく馬謖の軍を見ながら、姜維は酷く嫌な予感を胸に抱く。
「……この戦、勝てるだろうか……」
微かに洩らした弱音は、闇の中に消えていった。
姜維の幕舎。
中は重々しい空気に包まれていた。
大きな机を囲むようにして立っているのは、馬超と星彩、そして魏延と王平の四人だ。
姜維は馬謖が山頂に向かっていることとそれに伴う弊害を述べる。
麓は既に魏軍によって押さえられている。
蜀の本陣へと続く街道は、今高翔の一軍がかろうじて押さえていた。
しかし、何時魏軍が雪崩れ込んでくるか分からない危うさを含んでいる。
あまり芳しくない状況説明だった。
馬謖が山頂へ向かった後、急いで自分の幕舎に戻った姜維は地図を睨み、対策を頭の中で練った。
時間がない。
馬謖が山頂に布陣することは、程なく魏軍にも伝わるだろう。
戦いが始まってからでは、打つ手がなくなってしまうのだ。
その前に何としてでも被害を最小限にし、劣勢を攻勢に転じる策を施さなければならない。
諸葛亮が到着する前に優劣を逆転しておかなければ、今後の蜀軍全体の士気にも大きく影響する。
必死になって地図を見つめ駒を動かす、孤独な作業だった。
何とか形になり、諸将を自分の幕に招き入れた。
姜維は魏軍の動きを頭に浮かべ、地図の上にある駒を動かす。
それを諸将は口を挟まず地図を覗き込み、姜維の手の動きを目で追っていた。
「魏軍が麓を多数の兵士達で押さえている以上、戦線は山頂からその正面の麓と街道に絞るでしょう。また、馬謖殿が山頂に陣を張るという情報は、そう幾らもせず耳に入るはず」
姜維はここまで言うと、魏軍の駒を山頂へは数個、街道に大量の駒を一気に動かす。
「それらを踏まえた上で、今後の魏軍の動きとしては、山頂へは遊撃隊が、街道を主軍が攻める形となるかと。また、魏軍は我らの動きも、こう予測するでしょう」
今度は違う色の駒を動かす。
「主軍が救援の為に馬謖殿のいる山頂へ、街道筋はそれほど多くはない兵士数で前線を守る、と」
姜維が顔を上げると、隣にいた王平が頷いた。
「確かにそれが妥当ですね」
「恐らく魏軍は馬謖殿を孤立させる為に、この軍の中に工作部隊を紛れ込ませてくるはずです。軍が動けば、真っ先に山頂へ向かう橋を落とすでしょう」
本来ならばそこで未然に食い止めるべきなのだろうが、そこまでの余裕が蜀陣営にはない。
それは誰も反論はできなかった。
むしろ兵を分けずにすむので、あえて何もしない選択を姜維は取るつもりだった。
緊張と漠然とした不安が入り混じる幕舎の中で、姜維は魏軍の動きを説明した。
そして一度話を切り諸将の表情を見ると、何とも言えない表情ではあったが不満はないものだった。
何も言わないということは納得してもらえた、ということにして、姜維は自軍の対応について説明に入った。
魏軍は司馬懿の戦略の下、士気が高いことは間違いない。
そこで姜維は軍を二つに分けた。
魏延と王平、そして姜維の主力三軍で魏軍が制圧している麓の奪取。
馬超と星彩の軍で街道の完全な制圧。
そして麓の奪取に時間をかけないよう、魏延と王平に告げる。
長引けば山頂にいる馬謖がますます窮地に陥る。
何としてでも戦いの流れを自軍に引き込まなければ、勝ち目のない戦いだった。
姜維は全てを告げると、大きく息を吐いた。
胸が苦しい。
戦いの全体を作る『戦略』など、今まで一度も立てたことがない。
あるのは、戦いが起きてからの『戦術』しかなかった。
こんな重圧感を師である諸葛亮は常に持っているのだろうか。
姜維は後で来るだろう諸葛亮を思い、再び溜息を洩らした。
とりあえず、言うだけのことは言った。
後は諸将が信じてくれるのを信じるしかない。
全く情けない話ではあったが、今の姜維の立場からしてみれば至極当然の思いだった。
諸将達が俯き静まり返った中で、一人馬超が顔を上げて姜維を見た。
「……俺はあまり仲間を悪くは言いたくないが、馬謖よりお前を信じる」
今回遠征した諸将の中で一番発言力を持つ五虎大将の一人、馬超が真っ先に発した言葉は、姜維に驚きと安堵をもたらした。
と同時に、馬超の発言は他の三人に大きな影響を与えた。
『五虎大将』の発言力の大きさは、軍内においてかなりのものである。
姜維は真っ直ぐ見つめる馬超を前に、戸惑いを隠せずにいる。
「馬将軍……」
「何しろ諸葛丞相が自ら策を用いてまで引き入れたお前だ。その才を信じよう」
まさかあれだけ憂慮していた本人から言葉をもらえるとは思ってなかったのだ。
身体の中から嬉しさが込み上げ、震えそうになった。
「ありがとうございます!」
姜維は深々と拱手をする。
自身を信じると言われた訳ではない。
しかし、全く信じてもらえないことより、何か一つでも信じてもらえる方がいい。
知略であれ、武勇であれ、何か一つでも認めてもらえたことが嬉しいのだ。
そしてそれを彼の前で、皆の前で、実証して見せればいい。
自分の存在を強調させるのだ。
そういう意味では、諸葛亮に認めてもらいたいと思う馬謖と同じ考え方だ。
認めてもらう為に戦う。
綺麗事など何もない。
まずは、この戦いを勝利させなければならないのだ。
心の中で何かが吹っ切れたように、いくらか心が軽くなる。
諸将達が出た後、姜維は愛用の槍、昂龍顎閃を持ち、幕舎を出たのだった。