【サンプル】飲み干したブルー・ムーン
正直、嫌な予感が拭えなかった。
新羅から「帝人君が事故に合った」という連絡を受けてからではない。それよりももっと前――帝人が臨也の家を飛び出した時から、少しずつそのべっとりとした予感が臨也に張り付いて、剥がれなかった。
連絡を寄こしてきたのは自分のくせに、新羅はマンションまで訪ねてきた臨也を追い返そうとした。「会わない方がいいと思うよ。これは珍しく、友人としての忠告なんだけど」といつも通りの軽快な口調で言ってみたりするので、臨也は彼が友人というカテゴリーに入れられているという自覚があるのかと少々驚いた。というのも、臨也は自分と新羅は友人関係とは少し違う形を築いていると思っていたからで。
ともかくも、帝人の怪我の具合が気になる臨也は、懸命に臨也を止めようとする新羅(あくまで通常と比べて、である。彼が本当に一生懸命になるのは黒バイクに関することだけなので)を振り切り、帝人がいるであろう部屋へとノックをすることもなく飛び込んだ。
全体的に白を基調としたその部屋は、日の光を沢山取り込んで眩しいくらいだった。窓から迷い込んだ風がカーテンを揺らし、そこから何かを見出そうとしているのか、頭に包帯をぐるぐると巻いた帝人は外に視線を固定していた。まさしく病人というスタイル、雰囲気を漂わせていて、臨也は一瞬だけ揺さぶられるが、すぐに何事もなかったかのように立て直した。
「帝人くん」
いつものように彼の名前を呼ぶ。別れ際のことを思い出して、他愛もない単語が多少甘ったるい空気を出してしまったのは否めない。その声に後ろで新羅が嫌な感じで顔を歪めているであろうことはたやすく想像できたので、後で存分にいたぶってやろうと心に決めた。
帝人は振り向かなかった。まだ怒っているのだろうかと臨也は首を傾げ、彼に近づいた。もう一度彼の名前を呼ぶ。
「帝人くん」
それでも、彼は振り返ろうとしなかった。
頑なな態度に少しばかり苛立った臨也だったが、彼がこうした感情の見せ方をするのは初めてではない。臨也と帝人が知り合ってから大分経つし、関係は一応恋人という名前がついている。帝人自身が気が付いていないことだって、臨也は知っていた。
さてどう彼の怒りを溶かそうか、そう臨也が悩んでいた時である。
「呼ばれているよ、君の名前」
臨也と帝人の世界の中では部外者のはずの新羅が、突然そう投げかけたのだ。臨也は何を言っているんだと新羅に視線を投げたが、新羅は あくまでまっすぐ帝人を見ている。その態度は友人に対してのものではなく、そう、彼の仕事である医者としてのもので。
状況把握の力は人より優れていると、臨也は自負している。だからこそ、新羅の言葉に違和感が生じると共に答えを用意してしまう。けれどそれをすぐに否定した。どうして、とわけもわからず口の中で呟いた。誰もその呟きを理解することは出来ない。
臨也は瞬きを数回したのち、ゆっくりと帝人は振り返った。ブルーブラックの瞳の中に、臨也は囚われる。その瞳は臨也が気に入っている帝人の一部だった。だけれど、今目の前にあるものはあまりにも空虚で、臨也の知っているものとはあまりにもかけ離れていた。
「あの、」
短い言葉には、戸惑いが滲んでいた。まるで涙のようだと臨也は思った。唐突に、最後に彼と会った時のことを思い出す。そうだ、あの時も彼は泣いていた。その目に目一杯の涙を浮かべて、臨也を詰った。詰って、帝人は臨也の家を飛び出したのだ。
「どちらさまですか?」
その疑問に、臨也は現実に引き戻される。彼は臨也を見つめ、首を傾げ、そして新羅を見た。目が「説明をしてください」と訴えている。
ドラマや物語で見られる言葉に、臨也はなんてチープな言葉なのだと一蹴したものだ。哀しみの引き金でもあるその言葉に対し、もっと他にボキャブラリーがないものなのかねえ、なんて笑ったりもした。ところがいざ当事者としてはめ込まれてしまうと、言葉が出なかった。臨也も新羅を見やる。
二人の視線を一身に受け止めた新羅は、場の空気に耐えかねてか、少しおちゃらけるように肩をすくめ、溜息をついた。
「彼は折原臨也。君の知り合いさ」
「…そう、ですか」
「彼のことは、覚えてない?」
帝人は臨也の方をじっと見つめ、しばらくした後に首を振った。わかりません、と細く呟かれたそれは、臨也の深いところへ沈んでいく。拭えなかった嫌な予感と一緒に。
「帝人くん」
再度、臨也は彼の名前を呼んだ。本当は何度だって呼んでやりたかった。帝人の顔に、怯えにも似た不安を見つけなければ。
そっと伸ばした指先は、帝人の頬に触れた。温かく柔らかい彼の頬は、当たり前のように臨也を受け入れるのに、帝人本人は相変わらず疑問ばかりを胸に抱き、臨也に痛いほどの視線をぶつける。
まるで初めて会った時のようだと臨也は思った。「エアコンみたいな名前だね」と揶揄した、あの時のことは忘れない。忘れられない。
「あの、」
「ちょっと黙ってて」
ぴしゃりと拒絶すれば、帝人はすぐに口を閉じた。そしてされるがままになる。面白いくらいに動揺している彼の瞳は今にも泣きだしそうだ。
臨也は帝人を引き寄せ、己の腕の中に閉じ込めた。臨也の顔は誰にも晒されなかったので、彼がどんな思いを抱いていたかなど知る由もなかった。それでいい、と臨也は誰に言うでもなく、そっと胸の内で思う。
臨也はこのまま連れ去ってしまおうかと少しだけ考えた。困惑したままの彼を連れ去ってどうするかなんてその先を考えることなく、今自分の中で芽生え始めている衝動に身を任せ、彼を連れ去って、こんな風に優しく抱きしめていられたら――どうしようもない、独りよがりで馬鹿なことを考えた。
「臨也」
そんな考えを見透かしたわけではないのだろうが、新羅が絶妙なタイミングで臨也の名前を呼ぶ。それに迷ったものの、臨也は帝人を解放した。帝人の顔には、未だ不安定な色が滲んでいる。
「わかってる」
何をわかっているというのだろう、と臨也は自分自身を揶揄しながら、帝人の頭を撫でた。
「いきなりごめんね」
「い、いえ。大丈夫です…」
言葉とは裏腹な態度を見せながらも、帝人は臨也を見つめる。刻みつけようとしているのか、それとも追いやられたものから見つけ出そうとしているのか、臨也にはわからなかった。
「あの、僕は、」
ぎこちないながらも、離れた臨也を引き止めるかのように、帝人は臨也の袖を掴んだ。まるで迷子になってしまいそうな子供が、置いて行かれまいと必死になっているような、そんな仕草だった。
「僕は、貴方のことを、傷つけてしまったん、ですか」
疑問に答えることを、放棄してしまいそうになった。
パーツが欠けていても、それはそれとして成り立つのだろうか。大事なものがなくても、それはそのままの形を宿しているものなのだろうか。
そんなわけがない。なくなってしまえば、それは価値を失う。もうかつてのそれではないのだ。壊れてしまったものは、二度と元には戻らない。
「…大丈夫、そんなことはないよ」
新羅から「帝人君が事故に合った」という連絡を受けてからではない。それよりももっと前――帝人が臨也の家を飛び出した時から、少しずつそのべっとりとした予感が臨也に張り付いて、剥がれなかった。
連絡を寄こしてきたのは自分のくせに、新羅はマンションまで訪ねてきた臨也を追い返そうとした。「会わない方がいいと思うよ。これは珍しく、友人としての忠告なんだけど」といつも通りの軽快な口調で言ってみたりするので、臨也は彼が友人というカテゴリーに入れられているという自覚があるのかと少々驚いた。というのも、臨也は自分と新羅は友人関係とは少し違う形を築いていると思っていたからで。
ともかくも、帝人の怪我の具合が気になる臨也は、懸命に臨也を止めようとする新羅(あくまで通常と比べて、である。彼が本当に一生懸命になるのは黒バイクに関することだけなので)を振り切り、帝人がいるであろう部屋へとノックをすることもなく飛び込んだ。
全体的に白を基調としたその部屋は、日の光を沢山取り込んで眩しいくらいだった。窓から迷い込んだ風がカーテンを揺らし、そこから何かを見出そうとしているのか、頭に包帯をぐるぐると巻いた帝人は外に視線を固定していた。まさしく病人というスタイル、雰囲気を漂わせていて、臨也は一瞬だけ揺さぶられるが、すぐに何事もなかったかのように立て直した。
「帝人くん」
いつものように彼の名前を呼ぶ。別れ際のことを思い出して、他愛もない単語が多少甘ったるい空気を出してしまったのは否めない。その声に後ろで新羅が嫌な感じで顔を歪めているであろうことはたやすく想像できたので、後で存分にいたぶってやろうと心に決めた。
帝人は振り向かなかった。まだ怒っているのだろうかと臨也は首を傾げ、彼に近づいた。もう一度彼の名前を呼ぶ。
「帝人くん」
それでも、彼は振り返ろうとしなかった。
頑なな態度に少しばかり苛立った臨也だったが、彼がこうした感情の見せ方をするのは初めてではない。臨也と帝人が知り合ってから大分経つし、関係は一応恋人という名前がついている。帝人自身が気が付いていないことだって、臨也は知っていた。
さてどう彼の怒りを溶かそうか、そう臨也が悩んでいた時である。
「呼ばれているよ、君の名前」
臨也と帝人の世界の中では部外者のはずの新羅が、突然そう投げかけたのだ。臨也は何を言っているんだと新羅に視線を投げたが、新羅は あくまでまっすぐ帝人を見ている。その態度は友人に対してのものではなく、そう、彼の仕事である医者としてのもので。
状況把握の力は人より優れていると、臨也は自負している。だからこそ、新羅の言葉に違和感が生じると共に答えを用意してしまう。けれどそれをすぐに否定した。どうして、とわけもわからず口の中で呟いた。誰もその呟きを理解することは出来ない。
臨也は瞬きを数回したのち、ゆっくりと帝人は振り返った。ブルーブラックの瞳の中に、臨也は囚われる。その瞳は臨也が気に入っている帝人の一部だった。だけれど、今目の前にあるものはあまりにも空虚で、臨也の知っているものとはあまりにもかけ離れていた。
「あの、」
短い言葉には、戸惑いが滲んでいた。まるで涙のようだと臨也は思った。唐突に、最後に彼と会った時のことを思い出す。そうだ、あの時も彼は泣いていた。その目に目一杯の涙を浮かべて、臨也を詰った。詰って、帝人は臨也の家を飛び出したのだ。
「どちらさまですか?」
その疑問に、臨也は現実に引き戻される。彼は臨也を見つめ、首を傾げ、そして新羅を見た。目が「説明をしてください」と訴えている。
ドラマや物語で見られる言葉に、臨也はなんてチープな言葉なのだと一蹴したものだ。哀しみの引き金でもあるその言葉に対し、もっと他にボキャブラリーがないものなのかねえ、なんて笑ったりもした。ところがいざ当事者としてはめ込まれてしまうと、言葉が出なかった。臨也も新羅を見やる。
二人の視線を一身に受け止めた新羅は、場の空気に耐えかねてか、少しおちゃらけるように肩をすくめ、溜息をついた。
「彼は折原臨也。君の知り合いさ」
「…そう、ですか」
「彼のことは、覚えてない?」
帝人は臨也の方をじっと見つめ、しばらくした後に首を振った。わかりません、と細く呟かれたそれは、臨也の深いところへ沈んでいく。拭えなかった嫌な予感と一緒に。
「帝人くん」
再度、臨也は彼の名前を呼んだ。本当は何度だって呼んでやりたかった。帝人の顔に、怯えにも似た不安を見つけなければ。
そっと伸ばした指先は、帝人の頬に触れた。温かく柔らかい彼の頬は、当たり前のように臨也を受け入れるのに、帝人本人は相変わらず疑問ばかりを胸に抱き、臨也に痛いほどの視線をぶつける。
まるで初めて会った時のようだと臨也は思った。「エアコンみたいな名前だね」と揶揄した、あの時のことは忘れない。忘れられない。
「あの、」
「ちょっと黙ってて」
ぴしゃりと拒絶すれば、帝人はすぐに口を閉じた。そしてされるがままになる。面白いくらいに動揺している彼の瞳は今にも泣きだしそうだ。
臨也は帝人を引き寄せ、己の腕の中に閉じ込めた。臨也の顔は誰にも晒されなかったので、彼がどんな思いを抱いていたかなど知る由もなかった。それでいい、と臨也は誰に言うでもなく、そっと胸の内で思う。
臨也はこのまま連れ去ってしまおうかと少しだけ考えた。困惑したままの彼を連れ去ってどうするかなんてその先を考えることなく、今自分の中で芽生え始めている衝動に身を任せ、彼を連れ去って、こんな風に優しく抱きしめていられたら――どうしようもない、独りよがりで馬鹿なことを考えた。
「臨也」
そんな考えを見透かしたわけではないのだろうが、新羅が絶妙なタイミングで臨也の名前を呼ぶ。それに迷ったものの、臨也は帝人を解放した。帝人の顔には、未だ不安定な色が滲んでいる。
「わかってる」
何をわかっているというのだろう、と臨也は自分自身を揶揄しながら、帝人の頭を撫でた。
「いきなりごめんね」
「い、いえ。大丈夫です…」
言葉とは裏腹な態度を見せながらも、帝人は臨也を見つめる。刻みつけようとしているのか、それとも追いやられたものから見つけ出そうとしているのか、臨也にはわからなかった。
「あの、僕は、」
ぎこちないながらも、離れた臨也を引き止めるかのように、帝人は臨也の袖を掴んだ。まるで迷子になってしまいそうな子供が、置いて行かれまいと必死になっているような、そんな仕草だった。
「僕は、貴方のことを、傷つけてしまったん、ですか」
疑問に答えることを、放棄してしまいそうになった。
パーツが欠けていても、それはそれとして成り立つのだろうか。大事なものがなくても、それはそのままの形を宿しているものなのだろうか。
そんなわけがない。なくなってしまえば、それは価値を失う。もうかつてのそれではないのだ。壊れてしまったものは、二度と元には戻らない。
「…大丈夫、そんなことはないよ」
作品名:【サンプル】飲み干したブルー・ムーン 作家名:椎名