【サンプル】飲み干したブルー・ムーン
けれども、臨也は帝人の疑問に優しく答えた。まるでいつも帝人にそうするように。帝人に言ってもおそらくすぐに否定するだろうが、臨也にしてみれば、帝人への扱いは他の人間に対してよりも、ずっと穏やかなものだった。
「でも」
「どうして、そう思うの」
尚も食いつくように疑問を重ねようとする帝人に、臨也は平坦な声で尋ねた。帝人は迷うようなそぶりを見せた後、小さく零す。
「だって、そんな顔を、してるじゃないですか」
どんな顔だよ、と臨也は思わず笑ってしまいそうになった。帝人本人も、自分の思いや疑問をどう扱っていいのかわからない様子だった。だから臨也は首を振る。それは君の勘違いだと。
「君と俺はそんな大した仲じゃないし、君は細かいことを気にするような性格ではなかったよ。まだ事故に合ったばかりで混乱しているんだよね。大丈夫、すぐ出ていくから」
未だ臨也を掴んでいたその手を、臨也はそっと剥がした。元々そんなに力がこもっていなかったせいか、それはいとも簡単に離れてしまう。
まだ何か言い足りなそうな帝人の視線を避け、臨也は新羅に目で外に出ろと合図する。重い溜息をついた新羅だけれども、溜息をつきたいのはこっちだと臨也は一人思う。
部屋のドアを閉めるその際、ほんの少しの間だけれど帝人と目が合った。何故か臨也の中で罪悪感が巻き起こる。彼を傷つけていた時には起きなかった感情だっただけに、戸惑いを隠せない(臨也は進んで帝人を傷つけていたようなところがあったので)。しかしそれの名前を見つける前に、二人の視線はドアが閉じられて遮断されてしまった。
(中略)
「やあ」
名前を呼ぼうとしたけれど、もしかしたら反応してもらえないかもしれない。そう思って簡単に声をかけたのだけれど、今回はすぐに臨也の方へと振り返った。
「こんにちは」
「うん、こんにちは」
挨拶の後の続きを、二人そろって探している。微妙な空気を払拭しようと、臨也は持ってきたものを帝人の前に出した。
「今日はお土産を持ってきたんだ」
包装紙を破いて中から出てきたのはどら焼きだった。以前もらいもので家にあったものを帝人に出した時、彼はこれをとても気に入っていた。「やっぱり高いものは違いますねえ」なんて笑って、それを臨也はからかった。
そんな感傷に浸っているとも知らずに、帝人はその箱の中身をしげしげと見つめている。
「好きなのを取りなよ」
そう言うと、帝人は少し迷った後で、一番端に並べられたどら焼きを取った。丁寧にまとっているビニールを取っていく。
「ここのは美味しいんだよ。多分君も気に入ってくれると思うんだけど」
「…僕は、好きでしたか?」
きっと素朴な疑問でしかなかったのだろうが――臨也はなんと答えようか迷った。しかしそれを深く考えようとする前に、勝手に口が動いた。
「前にも言ったけど、俺と君はそんなに仲が良かったわけじゃないんだ。知り合いの知り合いっていう感じで、たまに街で会った時は少し話をしたりはしたけれど、それだけの仲だよ」
だからこれは君が初めて食べるものだと思う、と臨也がついた嘘を、帝人は「そうですか」とどら焼きと一緒に咀嚼する。少し手に掻いた汗を、臨也は笑った。
「美味しい?」
「はい、美味しいです。…もう一個もらっても?」
「君のために買ってきたんだから、好きなだけ食べればいいよ」
記憶がなくても竜ヶ峰帝人らしさはあるようだ。
けれど臨也はそれに安心するべきなのか怯えるべきなのかわからなかった。黙々とどら焼きを口にする帝人に臨也は常に彼の横にセットしてあるティーバックの緑茶を出してやった。
「貴方って、優しいんですね」
満足そうに食べている帝人が、唐突に言葉を落とす。
臨也の知っている、優しく甘い彼の笑顔がそこにあった。けれどその言葉はとても残酷だ。あの日の記憶が臨也の中で一気に蘇り、体から溢れそうになるものをせき止めるため、臨也は右手で視界を覆った。彼は決して悪くない。そう、これっぽっちも悪くないのだ。確かに、そうなのだけれど。
彼が言う「優しい折原臨也」はニセモノだ。針で突けばすぐ割れてしまいそうな、そんなものだ。君だって知っているはずじゃないか、臨也は思わずそう責めたくなってしまう。あの雨の日、臨也を酷い人間だと、最低ですと罵ったのは、臨也に背を向けて出て行った帝人で。でもそれはここにいる帝人と同じようで、違う。それでは、今まで臨也の隣りにいた帝人はどこに行ってしまったのだろう。
どこに消えて、どうしたら出てきてくれるんだろう。臨也はいまだに帝人を探しているのに。
「ごめんなさい、あの、僕、変なこと言いましたか?気に障ったのなら、」
「違う。俺の問題だから、気にしないで」
臨也の空気が変わったのを察したのか、帝人が首を傾げて尋ねる。臨也は否定したけれど、怪訝な顔は彼から消えなかった。
「でも、」
「気にしないでいいから」
「…無理ですよ」
帝人が自分に近づこうとする気配を察し、臨也は静かに拒否した。ごめん、と一言だけ口にする。そんな小さな謝罪の言葉すら、きっといつもの帝人ならば随分素直なんですね、と驚くだろうに、今の彼は「普通」なのだと享受している。それがいちいち臨也を残酷なまでに切り裂いた。
「俺は、俺は酷いヤツなのに、君が優しいって言うからさ。ちょっとね、ビックリしちゃっただけなんだよ」
「…酷いなんて、誰に言われたんですか?そんなことを言う方が、よっぽど酷いじゃないですか」
言ったのは君だよ、と滑りそうになった唇を慌てて噛み締めて、代わりに「君の知らない奴さ」と言った。嘘は言っていない。彼は臨也の続きを待っている。
「その子の言うとおりなんだ。俺ね、その子のこと、すごく傷つけちゃったんだよ。思い切り傷つけて、その子は俺を責めた。酷い、最低だ、死ねばいいのに、そう言われたよ。当然だよね。最後には泣き出して、傷ついたあの子は、雨が降っていたのに出て行って、結局帰ってこなかった。俺、帰ってくると思ってたんだ。ふてくされながら、それでも俺のところに帰ってくるんだって、思ってたんだよ。始めから傷つけなければこんなことにはならなかったのにね。馬鹿だろう?俺にとってあの子はとても大事な子で…大事だったのに、全然見つからなくて、どうしたらいいのかわからないんだ」
「後悔、してるんですか?」
「してるよ、もちろん」
「会って謝ればいいじゃないですか。その子だってきっと、貴方のこと待ってますよ」
「それはない」
「どうして言い切れるんですか」
臨也は外に目をやった。
初夏の匂いが風によって運ばれて、臨也に何かを語りかけているかのようだった。足元には温かい日差しが零れて照らしてくれているのに、臨也の耳には酷い雨の音が聞こえている。もうずっとこんな調子だった。天気予報では当分雨は降らず、快晴が続くだろうと告げていたのにも関わらず、臨也は何度も何度も、繰り返し同じ夢を見ている。
作品名:【サンプル】飲み干したブルー・ムーン 作家名:椎名