かわいいひと。
もう6月だというのに、ここのところ蒸し暑い日が続いている。
帝人の部屋は古くて、古くて古くて古くて、通気が悪く窓を開けてもほとんど風が通らない。クーラーなんて高価なものはなく、かといってこの時期に扇風機をつけるのもはばかられる。
とはいえまだそこまで暑いわけじゃなし、十分耐えられる暑さだ。そう、…すぐそばで騒ぐ男がいなければ。
「あーつーい。ホンっと暑いよねぇ、この部屋」
「……」
「こんなんじゃ、勉強なんてはかどらないでしょ? 諦めて、うちおいでよ」
「……」
「みかどくーん?」
「……」
「試験があるって言うから、俺、10日も我慢したんだよ! 無視するなんて酷くない、ねぇ?」
10日でも2週間でも1ヶ月でも、明日から試験だというのにその前日に押しかけて騒いだんじゃ我慢なんて無意味でしょう?
そう言ってやりたい。が、言えば喜々として話に飛びついてくるのは目に見えている。ひとつ返せば後はなし崩し。だから返さない。無視だ、無視。
「おーい? みーかーどーくーん?」
それでも、教科書やノートを取り上げたりして強制的に止めさせようとはしないのだから、まあこれでも本当に一応我慢はしているのだろう。我ながら甘いなぁと思わないでもないけれど、そこは、うん、おたがいさまというやつだ。
こっそり溜め息を吐きつつ、帝人は立ち上がると窓を開け玄関の扉を開け放った。窓と扉が向き合っていないからあまり期待は出来ないが、それでも2方向開いていれば少しは空気が流れて涼しくなる。…はずだ。
網戸なんてものはこのアパートにはない。当然蚊も一緒に入ってくるわけだが、まだ6月のこの時期なら、人を刺すような蚊もそういないだろう。というか、今は蚊より臨也の方が正直鬱陶しい。
「ちょっと、やめてよ窓開けんの! 虫が入ってきたらどうすんのさ」
なのにそんなふうに言って、臨也はせっかく開けた窓をまた閉めてしまった。自分で閉めた以上諦めて大人しくするかと思いきや、5分もすると再び暑い暑いと騒ぎ出す。そのくせテーブルの前に陣取って動かない帝人の背中に、べたりと張り付いてくるのだ。
鬱陶しい。本当に鬱陶しい。
「蚊よりイザいって、ある意味すごいですよね…」
「ちょ、帝人くん、やっと出たひと言がそれなの?」
「ああ、すみません。蚊よりウザいって、ある意味、」
「違うから! 訂正するの、そこじゃないから!」
いちいちオーバーリアクションをとる必要が、いったいどこにあるんだろう。けれど、わざとらしく手を握りこむ両手は冷たくて気持ちいい。
「そっか…」
「え? なになに?」
「もういっそ『ウザ蚊』さんにしましょうか。うるさいし面倒くさいし鬱陶しいし、いつの間にかそこにいるって、蚊も臨也さんも似たようなもんですよね」
「いやいやいやいや、似てないよ! 酷いよ、帝人くん!」
「ウザ蚊さん、これなんだかわかりますか?」
酷いお願いそれやめて!!と絶叫するのを無視して、帝人はテーブルの上に広げたものを指差した。英語の教科書と授業のノート。試験対策用のプリントのコピーと、辞書。
「明日から中間テストなんですよ。だから試験終わるまで会えませんって、10日前に言いましたよね? あと4日が、どうして我慢できないんですか? 今度邪魔したら本気で殺虫剤ぶっかけますからね」
にこやかな笑顔と冷ややかな声で宣言すると、黒づくめの男がしゅん、と身体を小さくしてうなだれた。
これが演技なら蹴り出して鍵を閉めるところだが、困ったことに素なのだ。どうしてこういう時だけ素直なんだろう。なんだかこっちがいじめてるみたいに思えて、かえって落ち着かないじゃないか。
ついさっきまでどうしようもない中二病の蚊だった男が、今は叱られたチワワのように見える。100%気のせいだ。わかってる。わかってるけど、そんな露骨に落ち込まれたらかまいたくなって仕方がない。
ちょっとだけ、息抜きしよう。
そう思い、ふと見た先に帝人は嫌なものを見つけて固まった。うなだれて座る臨也のすぐ後ろの壁にいるそれは、暑くなると出てくるアレだ。
「…ちょっと動かないでくださいね」
実家にいた頃は、自分でどうにかしようなんて思ったこともなかった。始末するのも嫌だけど、放っておいて見知らぬところで這いまわられるのも気持ちが悪くて、結局自分で撃退するしかないというのがひとり暮らしのつらいところだ。
武器になりそうなもの―――使ったあとに捨てられそうなものが飲みかけのお茶が入ったペットボトルしかなくて、帝人はキャップの側ギリギリ端を慎重に握りしめた。それが動きを止めているのを確認して、ひと息に壁へと叩き付ける。
「…え? なに???」
珍しく、臨也が少し焦ったような顔を見せた。帝人が叩いた壁を見、そのまま下に視線をずらして、畳の上に落ちたそれを見つめること数秒。けったいな悲鳴と共に、臨也が数メートル後ずさる。
すごい。座ったまま数メートル飛んでる。立ち上がらなかったよね、どうやったんだろう。
「な、ななな、なっにしてんのみ、っかどくん!!!」
「なにって、…ゴキブリが」
「殺虫剤使えばいいじゃんか素手なんてありえない! ありえない!!」
「素手じゃなくてペットボトル、」
「手を使うなんて、そんなことして飛んできたらどうすんの! 直撃してたらどうしてくれんの!!」
と言われてもここには殺虫剤なんてないし、あってもこんな狭い部屋では使いたくない。
別に、帝人だって害虫の類が得意なわけではないのだ。が、まあそこは仕方がないと割り切ることにしている。というか、他に退治してくれる人がいないのだから仕方がない。