酔いどれ
靴を履いた途端、ぐらり、と揺れた海江田の身体を支え、慌てて
山中も自分の靴を探した。入店し座敷に上がった時にはきちんと
海江田の隣に揃えて置いておいたはずの山中の靴は、トイレだ
何だと行き交う他の隊員たちに蹴られでもしたのか一メートル近くも
ずれて他の靴の間に埋まっていた。
「私はもう、帰る」
言葉がやや不自然なものの、注意して聞かなければ海江田の
声は普段と変わりはない。たとえ多少、身体が揺れていたとしても
そんなもの、もう深夜の12時を過ぎていれば誰も彼も出来上がって
いて気付く人間などいない。
海江田は自分の飲み代にしては多すぎる紙幣をテーブルの上に
置いたあと、腕の時計をチラリと確認した。
その姿からは酔いは微塵も感じられないように見える。
頬は多少、赤いものの、他の隊員のように“羽目を外して”いるよう
にはけして見えない。
次は四次会だと騒ぐ若い隊員達が体育会系のノリで海江田と
山中が先に帰るのを引き止めたが、
「もう君たちみたいに若くないからな。それに家で妻が待ってる」
妻が、と海江田が冗談めかして口にした途端に、あちらこちらから
お決まりの“独身者”の雄叫びめいたものが聞こえたが、それ以上は
引き止められずに山中は自分の靴を漸く履いて、タクシーを呼んで
おけば良かったと思いながらも遅く、海江田に続いて店を後にした。
季節は春の中ごろ、もうすぐ初夏。あいにくの薄曇で月は見えない。
どうやら小雨も降ったようである。
生暖かく、でもどこか冷めた空気の中、ゆらゆらと海江田の身体が
揺れる。支えるための腕を差し出すのは躊躇われ、山中は距離を
保ちつつ、海江田の傍らを歩く。タクシーが捕まる場所まで歩こう、と
海江田が提案する。酔い覚ましにもなるし、こんなに酔って帰っては
妻に叱られる・・・・・
海江田の下につき、もう何年になるだろうか。あまり酒席を共に、
という事もなく、偶にあったとしても海江田は酒量を弁えており
酔態をみせた事はない。山中は別にセーブしている訳ではない。
雰囲気に流されて飲まないだけだ。若い時には記憶をなくすほど
飲んだ事もあるが、もうそんな年齢じゃない。
若い隊員も多い中、“やまなみ”の中では海江田も山中も年齢は
上の方だ。防大出ではなく少しだけ遅い昇進の山中は、出世の先頭を
切ってきたような海江田よりも、さらにいくつか年齢が上だった。
海江田は昔から海自の中では有名人で、血統も良く本人も優秀で、
なのに嫌味がなく大勢からも慕われている。近年“カリスマ”という
言葉が安っぽく流布しているが、海江田にこそ相応しいのでは
ないのだろうか。
それとも、これはただ自艦の艦長への欲目だろうか。
海江田がスッと手を挙げた。タクシーがハザードランプを点滅させながら
滑るように停車した。さっきまでいた飲み屋は郊外にあり、隊員の一人の
親戚が営んでいると言うので大勢でタクシーに分乗して二次会の席から
移動して来たのだ。だから、この辺で容易には流しのタクシーなど
つかまらない。海江田は運転手と二言三言、会話をしたが、タクシーは
そのまま、海江田と山中を残し、走り去ってしまった。
「酔っ払いは、お断りだそうだ」
「我々は、そんなに酔っては──」
「タクシーに、気付かなかったろう、山中」
ふふ、と海江田が笑う。
「申し訳ありません」
「いいさ。艦を降りてまで君に“私の副長”を努めさせるのは酷だ」
海江田は軽い口調だったが、その言葉は山中にズシリと響いた。
「奥様が、お待ちでは」
「ん、さっきはああ言ったけどね。家族サービスは昨日のうちに
済ませたんだ。家内も夫がこんな仕事をしていると、もう“いなくて
当たり前”になってしまってるのかな。今頃きっと、息子に添い寝したまま
本人も寝てしまってるよ。飲む席で若い連中にとことん、付き合うなんて
もう無理だ。・・・まぁ、君は私より年上だし、勝手に私を基準にして
しまったが。まだ残っていても良かったんだぞ、山中」
海江田がこちらを振り向いて微笑んだ。
ぐらりと揺れた海江田の身体を支えた手の感触がリアルによみがえり
山中は内心、焦った。
海江田は多少、酒気を帯びてるとはいえ然程、酔っているようには
見えないものの、身体が時折、揺れる。
さっきのように大勢の中で転倒を防止するために抱えるのじゃなく、
深夜、人気のない所で彼の身体を支えるのは、とても不埒な事の様に
山中には思えた。
タクシーに、無理にでも乗るのだった。
乗車して、海江田の家の住所を告げて車内では運転手を交えて
二人きりではなく、彼を自宅へ送り届けた後、自分も家へ帰る。
シャワーでも浴びて酔いを完全に醒まし、明日からのまた数日間、
次に仕事のあるまで海江田とは顔を合わせずに普段通りの生活。
久し振りに実家へ顔を出すのもいい。
もうすぐ、繁華な場所へ出ればすぐにまたタクシーがつかまる。
そして海江田を先に自宅へ送る。
・・・久しぶりに、夫人と顔を合わせるかも知れない。
きっと起きて、夫の帰りを待っている。そういう女性だ。
別れたあと海江田は、夫の顔で彼女に今日の出来事を話すだろうか。
海江田の夫人の顔が、今はとても見たくない、と思った。
ここからなら山中の家の方が近い。それでも、山中は海江田を先に
家に送り届ける。海江田の妻が起きて夫の帰りを待っていて、わざわざ
遠回りして送ってきた山中に挨拶をする。
“いつも主人が、お世話になっています”
とでも言うのだろうか。
それとも、もう遅い時間だから夫人はさっきの海江田の言葉通り、
子供ともう就寝しているかもしれない。送り届けたところで、挨拶には
わざわざ外へ出て来ないかもしれない。
「よろしければ───」
私の家で酔いを醒ましていらっしゃいませんか。
自然と口をついて出てしまっていた。その後は、一人暮らしで独身で、
気兼ねはいらない等、こんな深夜に海江田を家に呼ぶ口実としては
かなり苦しい言い訳に終始した。海江田はクスリ、と笑い「君の家へ
行くのは初めてだな」
酔いで僅かに染まった頬が綺麗だと思った。
酔いを醒ましてゆくつもりが、山中の住むマンション近くのコンビニで
数本のビールとつまみを購入した。長期の勤務が明けたばかりで
昨日は部屋の掃除を簡単に行い、近所の定食屋で夕食を摂ったので
冷蔵庫の中はほとんど空だった。
山中の自宅のソファーで上座に収まった海江田は、山中の一人暮らしの
家を「綺麗に片付いている」と言い「趣味の良い家具だ」と褒めた。
山中には特にこだわりはなかったのだが。
それに留守がちで、散らかす間もない。
互いにビールを開け、酔いを醒ますどころか話題は“やまなみ”のことや
新造艦のこと、今回の演習の結果に及んだ。
会話が途切れても気まずい沈黙は訪れなかった。
海江田は家でもこんな風に、話題は違えど妻子と語らうのだろうか。
自分のように、たったこんな一時、海江田との時間を手に入れただけで
愚かしく有頂天になっているのではなく、当たり前の日常として。
カタン、と音がした。
海江田の手からほとんど空の缶ビールがテーブルの上に転がった
音だった。その音で、海江田自身もうたた寝からハッと目覚めたようで
ある。
山中も自分の靴を探した。入店し座敷に上がった時にはきちんと
海江田の隣に揃えて置いておいたはずの山中の靴は、トイレだ
何だと行き交う他の隊員たちに蹴られでもしたのか一メートル近くも
ずれて他の靴の間に埋まっていた。
「私はもう、帰る」
言葉がやや不自然なものの、注意して聞かなければ海江田の
声は普段と変わりはない。たとえ多少、身体が揺れていたとしても
そんなもの、もう深夜の12時を過ぎていれば誰も彼も出来上がって
いて気付く人間などいない。
海江田は自分の飲み代にしては多すぎる紙幣をテーブルの上に
置いたあと、腕の時計をチラリと確認した。
その姿からは酔いは微塵も感じられないように見える。
頬は多少、赤いものの、他の隊員のように“羽目を外して”いるよう
にはけして見えない。
次は四次会だと騒ぐ若い隊員達が体育会系のノリで海江田と
山中が先に帰るのを引き止めたが、
「もう君たちみたいに若くないからな。それに家で妻が待ってる」
妻が、と海江田が冗談めかして口にした途端に、あちらこちらから
お決まりの“独身者”の雄叫びめいたものが聞こえたが、それ以上は
引き止められずに山中は自分の靴を漸く履いて、タクシーを呼んで
おけば良かったと思いながらも遅く、海江田に続いて店を後にした。
季節は春の中ごろ、もうすぐ初夏。あいにくの薄曇で月は見えない。
どうやら小雨も降ったようである。
生暖かく、でもどこか冷めた空気の中、ゆらゆらと海江田の身体が
揺れる。支えるための腕を差し出すのは躊躇われ、山中は距離を
保ちつつ、海江田の傍らを歩く。タクシーが捕まる場所まで歩こう、と
海江田が提案する。酔い覚ましにもなるし、こんなに酔って帰っては
妻に叱られる・・・・・
海江田の下につき、もう何年になるだろうか。あまり酒席を共に、
という事もなく、偶にあったとしても海江田は酒量を弁えており
酔態をみせた事はない。山中は別にセーブしている訳ではない。
雰囲気に流されて飲まないだけだ。若い時には記憶をなくすほど
飲んだ事もあるが、もうそんな年齢じゃない。
若い隊員も多い中、“やまなみ”の中では海江田も山中も年齢は
上の方だ。防大出ではなく少しだけ遅い昇進の山中は、出世の先頭を
切ってきたような海江田よりも、さらにいくつか年齢が上だった。
海江田は昔から海自の中では有名人で、血統も良く本人も優秀で、
なのに嫌味がなく大勢からも慕われている。近年“カリスマ”という
言葉が安っぽく流布しているが、海江田にこそ相応しいのでは
ないのだろうか。
それとも、これはただ自艦の艦長への欲目だろうか。
海江田がスッと手を挙げた。タクシーがハザードランプを点滅させながら
滑るように停車した。さっきまでいた飲み屋は郊外にあり、隊員の一人の
親戚が営んでいると言うので大勢でタクシーに分乗して二次会の席から
移動して来たのだ。だから、この辺で容易には流しのタクシーなど
つかまらない。海江田は運転手と二言三言、会話をしたが、タクシーは
そのまま、海江田と山中を残し、走り去ってしまった。
「酔っ払いは、お断りだそうだ」
「我々は、そんなに酔っては──」
「タクシーに、気付かなかったろう、山中」
ふふ、と海江田が笑う。
「申し訳ありません」
「いいさ。艦を降りてまで君に“私の副長”を努めさせるのは酷だ」
海江田は軽い口調だったが、その言葉は山中にズシリと響いた。
「奥様が、お待ちでは」
「ん、さっきはああ言ったけどね。家族サービスは昨日のうちに
済ませたんだ。家内も夫がこんな仕事をしていると、もう“いなくて
当たり前”になってしまってるのかな。今頃きっと、息子に添い寝したまま
本人も寝てしまってるよ。飲む席で若い連中にとことん、付き合うなんて
もう無理だ。・・・まぁ、君は私より年上だし、勝手に私を基準にして
しまったが。まだ残っていても良かったんだぞ、山中」
海江田がこちらを振り向いて微笑んだ。
ぐらりと揺れた海江田の身体を支えた手の感触がリアルによみがえり
山中は内心、焦った。
海江田は多少、酒気を帯びてるとはいえ然程、酔っているようには
見えないものの、身体が時折、揺れる。
さっきのように大勢の中で転倒を防止するために抱えるのじゃなく、
深夜、人気のない所で彼の身体を支えるのは、とても不埒な事の様に
山中には思えた。
タクシーに、無理にでも乗るのだった。
乗車して、海江田の家の住所を告げて車内では運転手を交えて
二人きりではなく、彼を自宅へ送り届けた後、自分も家へ帰る。
シャワーでも浴びて酔いを完全に醒まし、明日からのまた数日間、
次に仕事のあるまで海江田とは顔を合わせずに普段通りの生活。
久し振りに実家へ顔を出すのもいい。
もうすぐ、繁華な場所へ出ればすぐにまたタクシーがつかまる。
そして海江田を先に自宅へ送る。
・・・久しぶりに、夫人と顔を合わせるかも知れない。
きっと起きて、夫の帰りを待っている。そういう女性だ。
別れたあと海江田は、夫の顔で彼女に今日の出来事を話すだろうか。
海江田の夫人の顔が、今はとても見たくない、と思った。
ここからなら山中の家の方が近い。それでも、山中は海江田を先に
家に送り届ける。海江田の妻が起きて夫の帰りを待っていて、わざわざ
遠回りして送ってきた山中に挨拶をする。
“いつも主人が、お世話になっています”
とでも言うのだろうか。
それとも、もう遅い時間だから夫人はさっきの海江田の言葉通り、
子供ともう就寝しているかもしれない。送り届けたところで、挨拶には
わざわざ外へ出て来ないかもしれない。
「よろしければ───」
私の家で酔いを醒ましていらっしゃいませんか。
自然と口をついて出てしまっていた。その後は、一人暮らしで独身で、
気兼ねはいらない等、こんな深夜に海江田を家に呼ぶ口実としては
かなり苦しい言い訳に終始した。海江田はクスリ、と笑い「君の家へ
行くのは初めてだな」
酔いで僅かに染まった頬が綺麗だと思った。
酔いを醒ましてゆくつもりが、山中の住むマンション近くのコンビニで
数本のビールとつまみを購入した。長期の勤務が明けたばかりで
昨日は部屋の掃除を簡単に行い、近所の定食屋で夕食を摂ったので
冷蔵庫の中はほとんど空だった。
山中の自宅のソファーで上座に収まった海江田は、山中の一人暮らしの
家を「綺麗に片付いている」と言い「趣味の良い家具だ」と褒めた。
山中には特にこだわりはなかったのだが。
それに留守がちで、散らかす間もない。
互いにビールを開け、酔いを醒ますどころか話題は“やまなみ”のことや
新造艦のこと、今回の演習の結果に及んだ。
会話が途切れても気まずい沈黙は訪れなかった。
海江田は家でもこんな風に、話題は違えど妻子と語らうのだろうか。
自分のように、たったこんな一時、海江田との時間を手に入れただけで
愚かしく有頂天になっているのではなく、当たり前の日常として。
カタン、と音がした。
海江田の手からほとんど空の缶ビールがテーブルの上に転がった
音だった。その音で、海江田自身もうたた寝からハッと目覚めたようで
ある。