海江田さんち
「四郎さん、どうしたの?それ・・・」
まだ将来の妻となる彼女とは、婚約したばかりだった。
早くに父を亡くし、兄弟もない海江田は早く結婚をし、母親を安心させたかった。
母に結婚を急かされたことはない。
そして、息子の結婚が必ずしも母を安心させる材料足りえるかは分からない。
母の嫌う海自に入隊した海江田は、それ以外では母に一片の気苦労も
させたくはなかった。
まだ互いに学生の身分ではあったが、ゆくゆくの結婚を誓い合った彼女は
よく海江田の休暇に合わせて実家を訪れた。
彼女とは三度目の見合いの席で出会った。
亡父の縁故で幾つか持ち込まれた縁談の一つだった。
燃えるような恋情を感じた訳ではなかったが、彼女は結婚したら
そのまま住む予定の、鎌倉にある海江田の旧い家にしっくりと合っていた。
海江田が不在でも、彼女は一人暮らしの母によく会いに来てくれた。
「それ」と彼女に示されたのは、制服のワイシャツの袖に隠れて本来は
見えない箇所にあった。
実家に帰省した海江田を、それを見越して遊びに来ていた彼女は
母と一緒に出迎えてくれた。ふざけて制服の上着を、まるでもう結婚を
して夫を迎えた妻のように受取りたがった。海江田もその“ままごと”に
付き合うように彼女に上着を渡し、着替えるために自室への廊下を
歩きながらシャツの袖口の釦を外した。目ざとく、彼女が見つけたものは
片方の手首だけでなく両方にあるものだった。
迂闊にも晒してしまった海江田は、だが何気ない風を装い「訓練中に
ついたものだ」と冷静にその場を誤魔化した。
両の手首に、しっかりと赤黒く痣が出来ている。
顔は殴られなかった。
身体にいくつか、痣が出来ていた。
殴られたわけじゃない。
無理に拘束されたのだ。
抵抗した際にあちこち、ぶつけたらしい。
複数に押さえつけられてレイプされた。対象が同性──男でも“レイプ”と
言うのなら。
これが現実に女性に対して行われているのに比べれば、自分は男なのだし。
妊娠だってしない。処女性が失われるのでもない。
手酷い、一番、悪質な暴力である事には変わりはないが、女性に被害が
及ぶことを考えれば、自分はまだ───・・・
一晩中、頭の中でそう念じた。他人に気付かれないように身体の始末を
つけるのに苦労した。注ぎ込まれた体液が漏れ出してくる不快感に
幾日か耐えなければならなかった。
訴え出る事など想像もつかなかった。
誰にも、知られてはならない。
自分は男だ・・・大丈夫。
そう、目の前にいる、この彼女──たとえば彼女が、こんな被害に遭ったなら。
相手の男たちを殺してやる。
自分は男だ。だから、大丈夫。
相手は複数いて抵抗し切れなかった。屈辱的だが仕方が無かった。
一対一、もしくは相手が二人程度であれば負けなかった。
圧倒的な暴力を受け、この自分の身体の上で相手が快楽を得ていた。
反吐が出る。現実にも何度も嘔吐した。
こちらなどお構いなしに、勝手に興奮し、勝手に達していた。
何気ない風を装い、袖の長い服を選んで着替えた。
彼女がまだ妻ではなく、この痣のことをこれ以上、追求されないのは幸いだった。
それ以降、少しだけ、神経質になったかもしれない。
馬鹿のように自意識過剰に、同性の視線にも時折、何か意図が含まれて
いないかと疑った。
自分にも非が。
誘うような仕草や態度があったのかもしれない。
どこかが女性的で、相手をその気にさせるような、何か。
後年、無事に彼女は海江田の妻となり鎌倉の家に収まった。
潜水艦隊の勤務でながく家を留守にしても、義母を労わり、共に主人の帰りを
待っている理想的な妻。まもなく、息子が産まれた。
これで一通り、母への義務が果たせたような気になった。
その頃には、もう何年も昔の、ただ一度の暴力のことは記憶の彼方に
押しやれるようになっていた。
関わった人間も退職し、あるいは懲戒免職され誰一人、残ってはいない。
そもそも、同性なんかを──複数で、まして力尽くで犯しましたと、吹聴して
回るほど愚かではないはずだ。
彼らはもう自分の人生とは交わらない。彼らの方でも望んでいない。
他の人間は知らない。
この身体からも、もう過去の暴力の記憶は消えうせた。
妻は・・・──彼女は、まだ覚えているだろうか。
結婚前の夫の、不自然な手首の強く握られて出来た痕。
その日は海江田の鎌倉の自宅に“やまなみ”の乗組員が
大勢、押しかけてきていた。
海江田は妻子をとても大事にしていたので、彼の母が海自勤務の
息子の姿に、亡き夫の姿を重ねる事はもう無かった。
広い家である。ほろ酔い気分の隊員たちは海江田の母や夫人の
すすめに従い、その日は宿泊していく事になった。
春の半ばで夜風が心地良く、縁側のある広い和室二間に溢れるように
ありったけの布団を敷いた。一人一組など贅沢なことは言えずに
一つの布団に二人、もしくは三人と、てんでに雑魚寝をすることになった。
海江田の幼い息子が、目一杯に敷き詰められた布団の上を喜んで
走り回った。
夜も更けて、最後まで酒盛りをしていた数人も酔いつぶれて
いくつかの寝息と鼾が聞こえ始めた。
海江田の母は離れの自室へ早い時間に引き取っており、妻も普段より
夜更かしさせてしまった息子を子供部屋に寝かせに行った。
海江田は妻と寝室を共にしていない。いつも仕事で不在がちなので、
彼女は幼い息子に添い寝してそのまま就寝するのが常だった。
海江田がまだ居間に起きていれば、彼女も起きてくる事がある。
たまに、一緒に酒を飲むこともある。
会話をしたり、何気ないテレビ番組を黙って見て同じ場面で笑ったり。
だが今日はもう起きてはこないだろう。大勢の酔客たちは酔い潰れて
寝てしまった。海江田は自宅であるし“押しかけられた”とは言え
招いた側であるので自室に引き上げるわけにはいかずに起きていた。
山中も傍らで、ほとんど素面のような顔をして海江田に付き合っていた。
はじめ、山中は海江田の家へ来る面子の中には含まれていなかった。
話を聞いたとき、山中は眉を顰めた。海江田や、その家族の迷惑に
なるのではと思ったからだ。
乗り気ではなかったが、若い隊員たちの言わば“お目付け役”として
山中も同行した。
ぬるくなってしまった酒を、ゆっくりと飲んでいた。
冷酒の瓶に僅かに浮かんだ水滴が、すべり落ちて盆に水溜りを
つくっていた。
度の高い辛口の酒で、お歳暮に貰ったものの海江田一人では、まだ
消化出来ずにいた。料理酒にしてしまうのも惜しい。
若い隊員たちが撃沈し始めた頃、妻が山中にと、こっそり盆に載せて
運んできた。一応、夫の分のお猪口も一緒に。
「先に休みます」と耳元へささやき、山中へ向けて軽く頭を下げる。
縁側に、山中と二人で取り残された。
山中からは、酔いも眠気も感じられない。
海江田は職務中であれば、何をするにせよ躊躇わない。
だがこの、どこかへ潜りこんで雑魚寝をするしかないような空間に
山中一人を残して自室へ戻るのも申し訳ない気がして、妻が運んで
きた冷酒を山中についでやる。ついでに自分の分も。
鼾の音が耳につく。先に寝た者勝ちなのだ。
「・・・艦長も、そろそろお休みになられた方が」
まだ将来の妻となる彼女とは、婚約したばかりだった。
早くに父を亡くし、兄弟もない海江田は早く結婚をし、母親を安心させたかった。
母に結婚を急かされたことはない。
そして、息子の結婚が必ずしも母を安心させる材料足りえるかは分からない。
母の嫌う海自に入隊した海江田は、それ以外では母に一片の気苦労も
させたくはなかった。
まだ互いに学生の身分ではあったが、ゆくゆくの結婚を誓い合った彼女は
よく海江田の休暇に合わせて実家を訪れた。
彼女とは三度目の見合いの席で出会った。
亡父の縁故で幾つか持ち込まれた縁談の一つだった。
燃えるような恋情を感じた訳ではなかったが、彼女は結婚したら
そのまま住む予定の、鎌倉にある海江田の旧い家にしっくりと合っていた。
海江田が不在でも、彼女は一人暮らしの母によく会いに来てくれた。
「それ」と彼女に示されたのは、制服のワイシャツの袖に隠れて本来は
見えない箇所にあった。
実家に帰省した海江田を、それを見越して遊びに来ていた彼女は
母と一緒に出迎えてくれた。ふざけて制服の上着を、まるでもう結婚を
して夫を迎えた妻のように受取りたがった。海江田もその“ままごと”に
付き合うように彼女に上着を渡し、着替えるために自室への廊下を
歩きながらシャツの袖口の釦を外した。目ざとく、彼女が見つけたものは
片方の手首だけでなく両方にあるものだった。
迂闊にも晒してしまった海江田は、だが何気ない風を装い「訓練中に
ついたものだ」と冷静にその場を誤魔化した。
両の手首に、しっかりと赤黒く痣が出来ている。
顔は殴られなかった。
身体にいくつか、痣が出来ていた。
殴られたわけじゃない。
無理に拘束されたのだ。
抵抗した際にあちこち、ぶつけたらしい。
複数に押さえつけられてレイプされた。対象が同性──男でも“レイプ”と
言うのなら。
これが現実に女性に対して行われているのに比べれば、自分は男なのだし。
妊娠だってしない。処女性が失われるのでもない。
手酷い、一番、悪質な暴力である事には変わりはないが、女性に被害が
及ぶことを考えれば、自分はまだ───・・・
一晩中、頭の中でそう念じた。他人に気付かれないように身体の始末を
つけるのに苦労した。注ぎ込まれた体液が漏れ出してくる不快感に
幾日か耐えなければならなかった。
訴え出る事など想像もつかなかった。
誰にも、知られてはならない。
自分は男だ・・・大丈夫。
そう、目の前にいる、この彼女──たとえば彼女が、こんな被害に遭ったなら。
相手の男たちを殺してやる。
自分は男だ。だから、大丈夫。
相手は複数いて抵抗し切れなかった。屈辱的だが仕方が無かった。
一対一、もしくは相手が二人程度であれば負けなかった。
圧倒的な暴力を受け、この自分の身体の上で相手が快楽を得ていた。
反吐が出る。現実にも何度も嘔吐した。
こちらなどお構いなしに、勝手に興奮し、勝手に達していた。
何気ない風を装い、袖の長い服を選んで着替えた。
彼女がまだ妻ではなく、この痣のことをこれ以上、追求されないのは幸いだった。
それ以降、少しだけ、神経質になったかもしれない。
馬鹿のように自意識過剰に、同性の視線にも時折、何か意図が含まれて
いないかと疑った。
自分にも非が。
誘うような仕草や態度があったのかもしれない。
どこかが女性的で、相手をその気にさせるような、何か。
後年、無事に彼女は海江田の妻となり鎌倉の家に収まった。
潜水艦隊の勤務でながく家を留守にしても、義母を労わり、共に主人の帰りを
待っている理想的な妻。まもなく、息子が産まれた。
これで一通り、母への義務が果たせたような気になった。
その頃には、もう何年も昔の、ただ一度の暴力のことは記憶の彼方に
押しやれるようになっていた。
関わった人間も退職し、あるいは懲戒免職され誰一人、残ってはいない。
そもそも、同性なんかを──複数で、まして力尽くで犯しましたと、吹聴して
回るほど愚かではないはずだ。
彼らはもう自分の人生とは交わらない。彼らの方でも望んでいない。
他の人間は知らない。
この身体からも、もう過去の暴力の記憶は消えうせた。
妻は・・・──彼女は、まだ覚えているだろうか。
結婚前の夫の、不自然な手首の強く握られて出来た痕。
その日は海江田の鎌倉の自宅に“やまなみ”の乗組員が
大勢、押しかけてきていた。
海江田は妻子をとても大事にしていたので、彼の母が海自勤務の
息子の姿に、亡き夫の姿を重ねる事はもう無かった。
広い家である。ほろ酔い気分の隊員たちは海江田の母や夫人の
すすめに従い、その日は宿泊していく事になった。
春の半ばで夜風が心地良く、縁側のある広い和室二間に溢れるように
ありったけの布団を敷いた。一人一組など贅沢なことは言えずに
一つの布団に二人、もしくは三人と、てんでに雑魚寝をすることになった。
海江田の幼い息子が、目一杯に敷き詰められた布団の上を喜んで
走り回った。
夜も更けて、最後まで酒盛りをしていた数人も酔いつぶれて
いくつかの寝息と鼾が聞こえ始めた。
海江田の母は離れの自室へ早い時間に引き取っており、妻も普段より
夜更かしさせてしまった息子を子供部屋に寝かせに行った。
海江田は妻と寝室を共にしていない。いつも仕事で不在がちなので、
彼女は幼い息子に添い寝してそのまま就寝するのが常だった。
海江田がまだ居間に起きていれば、彼女も起きてくる事がある。
たまに、一緒に酒を飲むこともある。
会話をしたり、何気ないテレビ番組を黙って見て同じ場面で笑ったり。
だが今日はもう起きてはこないだろう。大勢の酔客たちは酔い潰れて
寝てしまった。海江田は自宅であるし“押しかけられた”とは言え
招いた側であるので自室に引き上げるわけにはいかずに起きていた。
山中も傍らで、ほとんど素面のような顔をして海江田に付き合っていた。
はじめ、山中は海江田の家へ来る面子の中には含まれていなかった。
話を聞いたとき、山中は眉を顰めた。海江田や、その家族の迷惑に
なるのではと思ったからだ。
乗り気ではなかったが、若い隊員たちの言わば“お目付け役”として
山中も同行した。
ぬるくなってしまった酒を、ゆっくりと飲んでいた。
冷酒の瓶に僅かに浮かんだ水滴が、すべり落ちて盆に水溜りを
つくっていた。
度の高い辛口の酒で、お歳暮に貰ったものの海江田一人では、まだ
消化出来ずにいた。料理酒にしてしまうのも惜しい。
若い隊員たちが撃沈し始めた頃、妻が山中にと、こっそり盆に載せて
運んできた。一応、夫の分のお猪口も一緒に。
「先に休みます」と耳元へささやき、山中へ向けて軽く頭を下げる。
縁側に、山中と二人で取り残された。
山中からは、酔いも眠気も感じられない。
海江田は職務中であれば、何をするにせよ躊躇わない。
だがこの、どこかへ潜りこんで雑魚寝をするしかないような空間に
山中一人を残して自室へ戻るのも申し訳ない気がして、妻が運んで
きた冷酒を山中についでやる。ついでに自分の分も。
鼾の音が耳につく。先に寝た者勝ちなのだ。
「・・・艦長も、そろそろお休みになられた方が」