春夏秋冬
そうだ、おれは弱虫だ。走って逃げることしかできない。はっは、と息切れ。緑の世界。
しかし一瞬、瞬きひとつをした瞬間、世界が変わった。
黄色の絨毯、とかつて田島が言った。その世界だった。巨大な花や葉は消え、蒲公英が一面に咲いていた。あたたかい、黄色の絨毯。辺りを見回しても、すべてその花で満たされている。
花井が見たら、泣き出すような景色だった。
田島は、そう言った。その言葉通り、何故だか胸につまる。それでもなみだは出ない。
夢は夢だ。
瞼を、そっと閉じてそう思った。黄色の絨毯、瞼の裏。
はない!
時折、田島の声がする。走っているとき、バッターボックスに入った瞬間、様々な国の風景が切り取られた葉書を手にしたとき。声が、する。
はない、あずさ!
不意に、眼前の空気が揺れた。そっと瞼を上げたそこには、人間以上に大きな鳥がいた。真っ黒の羽、ビー玉のような目。ザベトだ、と思った。想像の中のそれと酷似していた。そして田島悠一郎に持つイメージとも似ていた。
田島は、カラスだ。
頭が良く、どこへでもゆける。
「ザベトは、」
思わず言葉が漏れた。カラスがこちらに視線を寄せた。
「しあわせ、だったのか」
黒いカラスの目に、自分の姿が映っている。情けない顔だ。冴えない顔をしている。それでもおれは続けた。「勝手に名前をつけられ、人間のことばを知って、ついには永遠世界にゆけなくなった」
楽園から追放されたようなものだ。けれど田島なら、何も引き換えにはしなかっただろう。きっと、こちらの言葉を覚えもせず、わらうはずだ。わらってまた、飛んでゆくはずだ。
おれは、田島を、憎んでいた。
カラスはぱちぱちと、瞬きをした。こちらの言葉を理解していないのだろう。だからおれはそれにそっと触れ、たじま、と呟いた。
羽は思ったよりもやわらかく、あたたかい。しかし触れた瞬間、それは姿を変えていった。羽は抜け落ち、みるみる小さくなってゆく。そして触れていた部分が人の頬だと知り、おれは思わず息を飲んだ。
「じゃあザベトは、不幸だった、のか」
目の前に立つ彼は、言う。
「何かを得るために、持っているものを失うのは当然のこと、だろう。記憶する思い出が、どんどん変わってゆくように、変わるんだ、ぬりかえてゆくんだ、はない」
花井は、弱虫だ、と続ける。
息も、できない。
「すぐに、逃げようとするんだ」
ざあああ、と黄色の絨毯を撫でるように風が吹く。
目の前には、カラスの目。小柄な背に、薄くなったそばかす、笑うと覗く八重歯。田島悠一郎が、そこに立っていた。頬に添わせた手が、微かに震える。
「おれを、憎んでるんだ」
「田島、」
「別の世界に、行ってほしいんだろう」
「それは、」
「目の前から、消えてほしいんだろう」
「ちがう、」
なにが、ちがうの。問い詰めるように、尖った口調で田島は言った。
身長差は、初めて会った頃よりは確かに縮んだ。それでもおれの方が数センチ高い。
見下ろす形で、田島の目を見ていた。
田島はおれの手から離れ、腰を屈めて蒲公英に手を伸ばす。
黄色の絨毯。その中からひとつ花をとり、田島はおれの髪にそっと挿した。
「髪、伸びたなあ」
「たじま、」
一年会っていない。
夢は夢だ。
けれど幼さが少し抜け、田島は精悍な顔していた。風が吹く。さああああ、と黄色の絨毯が揺れた。
「逃げ出したのは、田島だ、おまえだ」
一年前、逃げ出したのは、田島の方だ。
だからおれは彼を憎んでいる。ぐっと奥歯を噛み締め、目の前の男を睨みつけるようにして、おれは言った。
「逃げ出したのは、おまえの方だ」
さよならだ、と田島は言った。タンポポを降らせ、勝手に世界へと飛び出して行った。田島はザベトにはなれない。けれどおれが野球を続けている限り、きっと田島悠一郎を、忘れることもできない。
黄色の絨毯。
そうだおれは知っていたのだ。それでも口に出せなかった。田島が、おだやかにわらう。そしてその手が伸びてきて、頬に触れた。
おれは奥歯をただ、噛み締める。
「おれは、」
「花井、」
田島が野球を手放した瞬間、おれは置いてゆかれるのだと思った。球団にも、大学にも入らないと言い切ったとき、不意にそう思った。田島はヒーローだ。けれど本当は、ザベトになってほしかった。
とどまっていてほしかった。