桜山
ざり、ざり、と少しだけ急な坂を下れば、どっしりと構える鳥居が見えてくる。人気もないそこは、傍から見れば薄気味悪いのかもしれない。けれど、空気も澄み、周りの喧騒もないこの地は、それだけで好まれる場所だった。少ない石段を上って勝手知ったる道を進み、普段は訪れる者のいない社の裏側へと回る。人影も気配もなく、木霊するように囀りが響き渡る。気にすることなく進んでいくと、一人の僧侶が立っていた。仰々しく頭を下げ、慈しむかのように優しく笑うその表情に、少しだけ胸が軋んだ。
「お待ちしておりました」
「…何度も言うが、わざわざ待ってる必要はねェぜ」
「私が好きでしていることです。お気になさらないでください」
用意は整っておりますので、ともう一度頭を下げると、振り返ることもなく僧侶はゆっくりと去って行った。その背に向かって、僅かばかり頭を下げる。
踵を返せば、そこには同じ型をした石が規則正しく並んでいた。間の感覚も狭く、ぎっしりと並べられたそれ。曇天色をしたそれを見渡して、一つ瞬きをした。
一番奥へと足を進め、端に置いてある大きな酒瓶の栓を抜いて、一つ一つに掛けていく。そこに彫られた名を胸中で静かに紡ぎながら、在りし日の顔を思い浮かべる。
僧侶の言った用意とは、ここに酒を運んでおいたということ。注文して届けてもらったのは俺だが、この場所に運んでくれたのは僧侶の好意だ。元々、ここまでしてもらう謂われはない。此奴らの墓を建ててもらっただけでも、随分と甘えているというのに。
けれど、建てる時も建てた後も、これぐらいさせてください、とあの顔で笑うのだ。掃除もしてくれているだろうそれは外にあるのにどれも綺麗で、どうしようもなく胸が詰まる。花も添えましょうか、と初めの頃に僧侶が言っていた。けれど、断った。
理由は簡単だ。そんなの、花を贈られるなんて、あいつらのガラじゃない。あいつらには、こうして旨い酒を呑ませてやることだけでいい。あの時は貧しくて、真っ当な酒なんて数えるくらいしか口にできなかった。だからせめて、こんな時くらい、手も出せなかった上質の旨い酒を呑ませてやりたかった。
「(…よかったな、今日のは大吟醸だぜ?)」
馴染みの店に注文した時、ちょうどいいのが入ってるのだと聞いてそれにした。当然の如く値も張ったが、そんなことはどうでもよかった。お前らに呑ませてやれるなら、いくらかかったとて安いものだろう。酒瓶も二桁にかかろうとした頃、ふと目に入った名に苦笑が漏れた。
「(お前はすぐ酔うんだよなァ、市ィ)」
宴会の折、決まって最初に潰れるものお前だったな、と目を細める。瞼を下ろせば、その時の情景がありありと浮かんで焼きついた。せっかく水で薄めて呑まなくていいってェのに、わざわざ薄めて呑んでたもんなァ。
何やってんだよ、そのまま呑むから旨いんだろ、と弄ったのは誰だっただろう。無理です無理です!と嫌がるのを面白がって、毎回のように呑ませていた。
今もこうして酒を呑ませているのを、お前はどう思っているだろうか。顔を赤くして、呂律の回らなくなった口で文句を言ってるだろうか。
さあ、っと冷たい風が一陣吹いて、タイミングのいいそれに乾いた笑いが零れた。
市ィ、お前が告げてるのか、と眩しいくらいに青く澄んだ空を見上げる。
* * * * * * * * * * * *
「…もう、宜しいのですか?」
「あァ…、」
暫くして墓地を後にし、社に向かうと外で僧侶が待っていた。空になった酒瓶は、墓地の入口に纏めて置いておいた。一人で持ってくるのはかなりの量で、片付けもこちらでしておきますから、と僧侶の言葉に甘えて。
ここまで世話を焼いてくれるのは、この僧侶が攘夷に理解を持っているからだ。静かで落ち着く場所を探して、辿り着いたのがここだった。
墓を造りたい、と告げると、どのような、と問われた。僧侶の人柄は調べていたので、偽ることなく述べた。あいつらの墓を造りたいのだと。嫌な顔をすることなく、二つ返事で了承してくれた。
鬼兵隊を興した頃から最期の散り際まで存在していた者達の名を、顔を、忘れたことなどなかった。渡された紙に、一つ一つ丁寧に名を記していく。想いを込めながら、じっくりと惜しむ間もなく時間をかけて。
「皆さんも喜んでいることでしょう」
「…だといいがな、」
季節の変わり目には、ここに来ると決めていた。日付の感覚など薄れていたあの頃は、いつが誰の命日かわからなかった。朧気に憶えているのは、季節くらいだ。
桜舞う春か、陽射しの強い夏か、木枯らしの吹く秋か、雪の降り積もる冬か、それくらいだった。骨も遺品も何もない、形だけのものだが、それでもあの場所に置き去りににすることはできなかった。
あんな、血と煙と異臭に塗れた戦場でなど、誰が睡りたいと思う。せめてもの、せめてもの弔いであり、償いだった。
お前達こそ今の世に生きていれば、もっと生きる道があったのではないかと思って止まない。何度思っただろう、お前達が生きている世を。今でも脳裏を焦がす、あの頃出逢ったお前達の仕草、声、顔を、どうして忘れることができる。
「(忘れねェよ…。遺して、いけるわけがねェ…)」
強くはなかった。けれど、お前達がいたから強く在れた。それは変わらない事実であり、揺るぎようがない真実だ。誰にも言ったことはない。自分の内に秘めていればいいことだった。悟られることもあってはならなかった。あいつらに要らぬ負担はかけられなかった。背負うのは、頭である俺の役目であり責務だから。
重荷でもあっただろう、けれど、愛しい重みであったことに変わりはない。
だから、どうしても、どう足掻いても、忘れて生きることなどできないのだ。
「もうすぐ、ここの桜が咲く頃です」
墓の方を振り向いた僧侶が零したのは、この社に植えられている桜の樹木のこと。綺麗な山桜は隠れた名所なのだと、嬉しそうに話していたのはいつだったか。それを聞いた時、ああ、ここにしてよかったと、ほっとしたのを憶えている。
「春が一番、ここが彩る季節なんですよ」
「……そうかィ、」
「今度は、満開の時にいらしてくださいね」
「………」
満開の時期に、来れるだろうか。辺りに山桜が咲き乱れる様は、さぞかし綺麗だろうが。舞う花弁とあいつらの墓を見て、泣きたくなる気がした。もう流す涙も出ないはずなのに、胸が締めつけられて苦しい。
振り切るように背を向けると、どうぞご無事で、と僧侶の声が小さく届く。
『総督、どうか…ご無事で』
在りし日に、言われた言葉と重なった気がした。忘れることのない旋律は、確かに俺の奥深くに根づいている。総督、と呼ばれたあの時を、呼んでくれていた愛しい声を、俺はまだ、忘れていない。