犀と歩く
1
みずうみ、という呟きが夜の闇に溶けた。
雑草の生い茂った線路はぷつりと途切れ、隕石がぶつかったようにくり抜かれたそこには、壮大な水の塊が広がっていた。
地図になど載っていない、記憶にもない湖畔に膝をつき、ただ地平線のその先を見つめた。
「信じられないわね」
大人びた面をして(年齢からして十分に成人しているのだけれど、彼女に「大人」という言葉を使うには十四年前からどうにも憚られた)彼女はそう言った。
「信じられないような、光景よね」
「確かに」
様々に変容する大地を目の当たりにしてきても尚、未だ慣れることはない。流氷の下に沈む都市、半壊したビル街、切り崩された山林。不用意に捩じ曲げられた景色は、別次元のもののように予想を遥かに越えていく。
「でも、一度ここに来たとき、線路は繋がっていたんですよ。その線路を伝いゆけば、どこにでも行ける気が、確かにしたんです。不思議ですよね。振り返らなければ、全く違う場所に降り立ったみたいだ」
ハイヒールの先についた泥を払いながら、彼女は「あの大脱走劇からもう十四年も経つのね。お互い歳を取る筈だわあ。シンジくんなんてこんなに小さかったのに」と小人程の背丈を手で示しながら感慨深げにわらった。
目尻に刻み込まれた皺に、年月を感じる。
十四年間音沙汰のなかった彼女から連絡が入ったのは丁度一週間前だった。
「元気してる?」と名乗りもせぬまま「シンジくんの願いを叶えてあげる」と矢継ぎ早に彼女が告げた。
「いつから魔法使いになったんですか」
「たった今からよ」
「学校にも通わずに?」
「そうよ、どうやら才能があったみたい。今朝起きたらそりゃあもう見事に開花してたの」
「相変わらずですね、全く変わってないや」
「どういう意味?でもリツコに始終嫌味言われるくらいでなきゃ、あたしじゃないってことは確かね」
「リツコさんも大変ですね」
「まあ、失礼しちゃう。子守もあの子の仕事の内よ。それより、シンジくん、改めて訊くわ。あなたの望みはなにかしら」
ふと、瞼の裏にぼんやりと映るひかりがあった。街灯の明かりのように淡く橙色にかがやいている。
「たび」
「え?」
「旅の終わりを、見せてください」
不可解な望みだったに違いない。しかし彼女は「わかったわ」という一言を残して通信を切った。
そして確かに望みを叶えてくれた。
青いスポーツカーに洒落たサングラス、イタリア製のハイヒール。こちらが身震いしてしまうほど薄着の上、太股も露な短い丈のスカートはブルジョアやバブル世代も真っ青な格好に違いなかった。
黒が際立ち、角度によっては濃紺にも見えるウエーブがかった髪は、誂えたように当時と変わらない長さで靡いている。
「ミサトさん」
ぱしゃんという音が弾けた。
車のライトで照らされた水面が揺れている。
「今、大きな魚が跳ねたわ」と振り返った途端、「ミサトさん」と再び口が開いていた。
「やっぱり、旅のおわりなんて見なきゃよかったな」
夜の湖はこどもなどぺろりと飲み込んでしまいそうなほど深く、それでもやはりうつくしく見えた。
それを静かに眺めていると、「終わりのないかくれんぼなんかないんだよ」と老成した犬のような目をして零した少年が、瞼の裏に浮かんで消えた。