犀と歩く
手紙の途中から、膝を折っていた。
湿地に膝をつき、背中を丸める。
大人と呼ばれる歳になっても、こんなにも心を揺さぶるものがある。わあわあと泣き出したかったが、ぐっと堪えて息を吐いた。
「シンジくん」
瞼をきつく閉じているからか、ミサトの柔らかな声が彼のものに聞こえた。
「あの子がそれを望んでいたか、いなかったのか、本当のことは分からない。だけどね、しあわせになって。生きてるんなら、しあわせになって」
こわいと言ったら、着ぐるみをつけて立っていた。顔を隠していたけれど、ずっと泣きそうな顔をしていたんだろうな。こわがらないでと懸命な声で呟いていた。
不思議な人だった。
彼は確実に人間だった。人でしかなかったのだ。
笑って、泣いて、怒って、しょげたりして、万華鏡のように表情をくるくると変えていた。蚕の糸のような髪をしていた。石榴のような目をしていた。
意地っ張りで、でも素直で、不思議な人だった。
思い出した途端、光の波が押し寄せるように笑みが零れた。
「ありがとう」
あのときも、今も、しあわせだった。
「ミサトさん。何だか、カヲルくんに言われたみたいだったよ」
汚れてしまったや、と手の平についた泥を見せてシンジは目が隠れてしまいそうに微笑んだ。
手紙だけは汚れず、左手にある。
いつか来る旅の日のためにずっと取っておくのだ。
声に出して読み上げてやろう。
そうしたらきっと顔を真っ赤にして奪い取ろうとするだろう。
ひとしきり笑い転げたら、手を繋いで、みずうみのほとりを、ふたりで歩くのもいい。
覗き込んだ湖の水面には、鬱蒼と生い茂る木々が逆立ちに映っていた。