「さようなら」
わたしはきっとあのときから、わるいこ になってしまったのです。
あのひとがわたしをかばったときから、わたしはわたしであることに疑問を持つようになってしまいました。
あのひとを守るべきわたしが、あのひとに守られた意味はなんなのか。あのひとがわたしを守ろうとした意味はなんなのか。守られる立場になったとき、わたしはいったいなにになるのか。
──ああ、また私は守られてしまうのか。
「Q」
あのひとの呼び掛けはいつも短く、それはわたしの名前が短いからこそ当然のことであるのに、どこか残念でもあるのです。しかしカード越しにでもこちらと目が合えば、ちいさく笑みが浮かべられる。その瞬間に残念だと思う気持ちもなくなるのです。
むしろ、アセットのわたしには感情がさほどそなわっているはずはないのです。たとえ人間の形をとっていても感情を持ってしまっては、主を守れないのです。
──死にたくない、だなんて気持ちは特に。
「Qは、アセットに感情は必要じゃないと思うのか」
「必要不必要を問う前に、その存在を探るべきなのです」
「おれとこうやって話しているおまえには感情がないと?」
「少なくともあの少年のアセットに比べれば、ずっと表現は乏しいのです」
あのひとは、わたしの答えを吟味するようにグラスの中身をゆっくりとすすります。その間、わたしはいつもと変わらずチョコレートを口にするのです。さまざまな味がすることをわたしは知っていますが、味を感じることもまた感情の一部となるのでしょうか。
否、とわたしは心の中で自らの問いかけに答えを出すのです。その味に好きか嫌いかという主観的な定義づけをしたとき、それは感情になるとわたしは考えるのです。
「だが、おれはおまえと話していると、たのしいけどな」
それまでの流れから少々はずれているようにすら感じられる言葉に、わたしはゆっくりとそちらを振り返ります。並んで立っていると、わたしは見上げなければその表情を見ることもできないのです。その顔には、笑みが浮かべられていました。いつもと変わらぬ、どこかからかってきているようにすら見えるその笑みを見上げながら、意味がわからないのです、とちいさく返すのです。
「どうして、それでわたしの感情の存在の証明とできるのですか」
「説明しないと、わからないか」
ゆっくりとその視線がわたしを見下ろしてきて、いっそう笑みを深くするのです。いつもはわたしのことを成長の足らぬ「子ども」のような扱いをするにもかかわらず、このようなときには突き放すようにも似た言葉をかけてくるのです。おそらくこのような駆け引きを、ずるいというのです。
問われてしまえば、答えなければならないのです。結局わたしは、ゆっくりと首を左右に振りました。わからないといった口でわかると答えれば、またからかってくるとわかっていたのです。アセットにそんなことをしてくるのは、金融街のなかでもあのひとくらいなのです。
そうしてわたしがまた視線を前へともどせば、あのひとの手がわたしの頭へと伸ばされるのです。つい先ほどまで突き放したような態度であったにもかかわらず、またこうして子ども扱いしてくるのです。それでもあのひとは、わたしがわたしのなかの真実を語るのを好むのです。
おまえはきびしいな、と笑うのです。この金融街のだれよりも現実的だと、いうのです。
「たのしいよ、Q。おれのアセットが、おまえでよかった」
しかし、わたしは知っているのです。あのとき、あのひとがわたしのことをかばい、傷ついたときから、わたしは自らのコントロールを失くしてしまったのです。ただひとことに支配され、なにも考えられなくなってしまうようになったのです。それは時を経るごとにひどくなり、自分で制御ができなくなったばかりか、ディール以外にもそんな状態に陥ってしまうようになったのです。
それでもあのひとはわたしを捨ててしまうことなく、わたしのコントロールの術としてアセットを増やし、ディール以外にも会話をし、慈しんでくれるのです。わたしでよかったと、いうのです。
「Q。だから、おれはおまえが欲しがることをしてやりたいんだ」
ねむいままにまばたきをして、わたしはチョコレートを噛みしめるのです。ざり、と舌触りが少し苦いのです。
──私はもう守られたくないのです。
だから、あのひとを死なせたくないのです。それが唯一の感情なのかもしれません。
だからわたしは、あのひとのアセットなのです。
あのひとがわたしをかばったときから、わたしはわたしであることに疑問を持つようになってしまいました。
あのひとを守るべきわたしが、あのひとに守られた意味はなんなのか。あのひとがわたしを守ろうとした意味はなんなのか。守られる立場になったとき、わたしはいったいなにになるのか。
──ああ、また私は守られてしまうのか。
「Q」
あのひとの呼び掛けはいつも短く、それはわたしの名前が短いからこそ当然のことであるのに、どこか残念でもあるのです。しかしカード越しにでもこちらと目が合えば、ちいさく笑みが浮かべられる。その瞬間に残念だと思う気持ちもなくなるのです。
むしろ、アセットのわたしには感情がさほどそなわっているはずはないのです。たとえ人間の形をとっていても感情を持ってしまっては、主を守れないのです。
──死にたくない、だなんて気持ちは特に。
「Qは、アセットに感情は必要じゃないと思うのか」
「必要不必要を問う前に、その存在を探るべきなのです」
「おれとこうやって話しているおまえには感情がないと?」
「少なくともあの少年のアセットに比べれば、ずっと表現は乏しいのです」
あのひとは、わたしの答えを吟味するようにグラスの中身をゆっくりとすすります。その間、わたしはいつもと変わらずチョコレートを口にするのです。さまざまな味がすることをわたしは知っていますが、味を感じることもまた感情の一部となるのでしょうか。
否、とわたしは心の中で自らの問いかけに答えを出すのです。その味に好きか嫌いかという主観的な定義づけをしたとき、それは感情になるとわたしは考えるのです。
「だが、おれはおまえと話していると、たのしいけどな」
それまでの流れから少々はずれているようにすら感じられる言葉に、わたしはゆっくりとそちらを振り返ります。並んで立っていると、わたしは見上げなければその表情を見ることもできないのです。その顔には、笑みが浮かべられていました。いつもと変わらぬ、どこかからかってきているようにすら見えるその笑みを見上げながら、意味がわからないのです、とちいさく返すのです。
「どうして、それでわたしの感情の存在の証明とできるのですか」
「説明しないと、わからないか」
ゆっくりとその視線がわたしを見下ろしてきて、いっそう笑みを深くするのです。いつもはわたしのことを成長の足らぬ「子ども」のような扱いをするにもかかわらず、このようなときには突き放すようにも似た言葉をかけてくるのです。おそらくこのような駆け引きを、ずるいというのです。
問われてしまえば、答えなければならないのです。結局わたしは、ゆっくりと首を左右に振りました。わからないといった口でわかると答えれば、またからかってくるとわかっていたのです。アセットにそんなことをしてくるのは、金融街のなかでもあのひとくらいなのです。
そうしてわたしがまた視線を前へともどせば、あのひとの手がわたしの頭へと伸ばされるのです。つい先ほどまで突き放したような態度であったにもかかわらず、またこうして子ども扱いしてくるのです。それでもあのひとは、わたしがわたしのなかの真実を語るのを好むのです。
おまえはきびしいな、と笑うのです。この金融街のだれよりも現実的だと、いうのです。
「たのしいよ、Q。おれのアセットが、おまえでよかった」
しかし、わたしは知っているのです。あのとき、あのひとがわたしのことをかばい、傷ついたときから、わたしは自らのコントロールを失くしてしまったのです。ただひとことに支配され、なにも考えられなくなってしまうようになったのです。それは時を経るごとにひどくなり、自分で制御ができなくなったばかりか、ディール以外にもそんな状態に陥ってしまうようになったのです。
それでもあのひとはわたしを捨ててしまうことなく、わたしのコントロールの術としてアセットを増やし、ディール以外にも会話をし、慈しんでくれるのです。わたしでよかったと、いうのです。
「Q。だから、おれはおまえが欲しがることをしてやりたいんだ」
ねむいままにまばたきをして、わたしはチョコレートを噛みしめるのです。ざり、と舌触りが少し苦いのです。
──私はもう守られたくないのです。
だから、あのひとを死なせたくないのです。それが唯一の感情なのかもしれません。
だからわたしは、あのひとのアセットなのです。