君がくれたもの
自分じゃない、別の自分。緑川に指摘されて、思い当たる節は多大にあった。自分ではない、他の基山ヒロトの陰を、確かに自分は追いかけていた。
「……俺は、俺だよ。他の誰でもない。基山ヒロトだ」
これは強がりではなかった。もう、違う誰かを追い求めなくてもいい。そう自覚していたはずなのに、まだ自分のなかのどこかにその残滓が残っていた事実を思い知らされて、ヒロトは本当にすこしだけ失望した。
『そうだよ。ヒロトは、ヒロトなんだ。だから、もっと自分をさらけ出してもいいんだよ。悔しかったり悲しかったら泣けばいいし、嬉しかったり楽しかったら笑えばいい。俺も、ヒロトの隣で一緒にそうしたい』
いまは遠くて無理だけどね。そう言った緑川の声はようやく落ち着いていて、ヒロトはそれに安堵して笑った。
「うん。俺も、緑川の隣でそうしたいよ」
緑川からすぐに返事はなかった。もしかしたら、電話の向こうで恥ずかしさに打ち震えているのかもしれない。
『……ヒロトって、本当にさらりと平気でそういうこと言うよね』
「そうかい? 今日の君も、なかなか情熱的だったけど」
『ばっ……』
そしてまた緑川の声にならない言葉が響いた。本当に、緑川は単純で、真っ直ぐで、面白くて、優しい。
『……とりあえず、俺の言いたいことはもう全部言ったから。なんか、無茶苦茶でごめんな』
「全然構わないよ。また電話してくれたら嬉しいな」
『だから、そういうことを……ああ、もういいや。じゃあ、おやすみ』
「おやすみ」
ぷつりと、電話は愛想なく二人を遮断した。文明の利器は遠い距離を急速に繋げ、同じく突き放す。
ヒロトはしばらく手の中の携帯電話を眺め、ベッドヘッドに置いた。窓を開けて夜空を見上げたが、雲が多くて星はよく見えなかった。月は雲の合間をぬって白く穏やかに浮かんでいた。
「自分に素直に、か……」
意図せずもれた言葉を、ヒロトは何度も心の中で反芻した。
勝てない試合ではなかった。負けた敗因を考察して次に活かすべきである。次こそは勝つ。負けたくなかった。
(負けるはずが、なかったんだ)
ドンと、強く右の拳で窓の桟を殴った。じんわりと鈍い痛みが響いて、体を震わす。奥歯を強く噛みしめる。
(そうか)(本当は俺は、)
悔しかったんだ。
すとんと、体のどこかでなにかが落ちた。その拍子に、涙が一粒こぼれて床に弾けた。
涙を拭うことはしなかった。枯れるまで、好きにさせた。
雲が風に流れ、星が現れた頃になってようやく落ち着いた。ひどい倦怠感が体を襲って、またベッドに沈むと、頭の芯がぼやけてきて心地よい眠気があふれてきた。
(そういえば、緑川にお礼を言い損ねたな……)
(心配かけさせて、悪かったな)
明日、今度はこちらから電話しよう。緑川はなんて言うだろう。彼の言葉をあれこれ想像していると、心がほっこりとあたたかくなり、ヒロトは意識を手放した。