唇に幸福
一日人のいない時間を過ごした家には、埃っぽいような、湿っぽいような、ある種の空気がこもる。今、虎徹に伴われて足を踏み入れた部屋もそれは同様で、ドアを開け、少し動いただけで、その独特なにおいが室内に満ちていることは容易に知れた。空気悪いな、と呟く虎徹の傍らで、バーナビーはそっと目を伏せると、静かに深く息を吸う。部屋自体のにおい、埃と湿気の混ざったにおい、そうして何より、この部屋に暮らす人のにおい。ああこの人のにおいだ、とバーナビーは何の気なしに思って、けれど瞬間、そんなことを考えた自身を酷く恥じた。軽く頭を振り、受かんだ考えを追い払う。
そんなことをしている内に、目の前にいた男はさっさと歩いて行ってしまう。え、と思わず声を上げたが彼は振り向かない。ぽつねんとその場に立ち尽くし、さてどうしたものかと思っていると、キッチンの方へ行っていた虎徹が振り向いて、軽く手を振った。その辺適当に座れ、と声が飛んでくる。はあと間の抜けた返事をして、ぐるりと部屋を見渡した。その辺、と言われても、と少なからず考え込んでしまう。そう何度も来たことがない他人の家は、どこかふわふわとして落ち着かない感覚をもたらす。
虎徹の暮らすこの部屋には、いかにも男やもめの一人暮らし、といった雰囲気があった。ゴミが溜まっていたり、飲みかけのグラスが出しっぱなしだったりと、どことなく雑然として、生活感に溢れている。バーナビーが暮らす部屋とは全く違う。それでも不思議と嫌な気持ちはしなかった。一歩二歩と足を踏み出し、ソファの方へ寄って行く。
ひとりで使うには充分すぎる程広いソファには、どうやら虎徹が脱いでそのままにしていたらしい部屋着が放ってあった。物ぐさだなと思ったが彼らしくも感じる。そのままでは座りにくいので適当に畳んで隅に置き直す。それからようやっと腰を下ろした。
「ああ、悪いな、それ」キッチンで何かいじっていた物音が止むとすぐ、虎徹がこちらへ戻って来た。僅かに左へ向き直すと、片手に缶ビール、もう一方に何か白い箱を持った彼が口早に言う。それ、と顎をしゃくられて、部屋着のことかと気付いた。いいえ、と軽く首を振る。バーナビーと、丁度90度の角度で隣り合うように座った虎徹はテーブルに缶ビールと箱を置くと、その辺りに散らばっていた雑誌や本を適当にまとめた。それから、ああと何かに気付いて席を立つ。
またひとり残されたバーナビーは、目の前にある箱をまじまじと見つめた。真白い、何の飾り気もない箱だ。丁度、バーナビーが両手を広げた上にぴったり乗りそうなくらいの大きさで、あまり大きくはない。何だろうと首を傾げたところで、お待たせと明るい声が掛かった。
戻って来た虎徹の手には、2本のフォーク、そしてナイフがあった。ナイフをテーブル、コップをバーナビーの目の前に置いてから、フォークを差し出す。首を傾げながら受け取ると、ソファに深く身を投げ出すように座った虎徹が、それ、と箱をフォークで指し示した。「何だと思う?」分かりませんと答える間もなく開けてみろと言われて数度瞬いた。見つめた先の男は楽しげに笑うばかりで何も答えてはくれない。フォークを置いて箱に手をかける。
開かれた箱の中には、その箱と同じように白い、小さなショートケーキが入っていた。表面のクリームには僅かも凹凸がなく、つやつやとしている。そうして、円の中心に飾り付けられた苺もまばゆいくらいに赤く艶やかだった。
「……どうしたんです?」
「買ったんだよ」
「それは分かりますけど、……どうして?」
何にでも理由を求めるべきではないのかも知れないが、それにしても虎徹の行動が不可解に思えて、バーナビーは僅かに語調を強めた。何がどうという訳ではなく、けれど無視出来ない程度には、はっきりと焦りが胸にあった。物事を把握出来ないのは苦手だった。それが、普段なら何のことはなく意思が掴めると思っている相手のことなら尚更だ。そんな困惑に気付いているのかいないのか、虎徹はテーブルからナイフを取り上げると、さっさとケーキを何片かに切り分けてしまう。そうして、ほら、とバーナビーに向けて箱を押し出す。
「おじさん、」
「いいから食えよ」
言いながら缶のプルトップに指を掛ける。バーナビーの視線に気付いていない訳もないだろうに、虎徹は何でもないような顔をしてごくごくとビールを飲み下した。バーナビーの視線の先で少しずつ喉仏が上下する。
しばらくして缶を置いた虎徹は、はあ、と小さく息を吐くと、ソファにゆったりともたれ掛かった。それから、じっと自身を見つめるバーナビーに、少し困ったように笑ってみせる。バーナビーはそれでも、何も言わないままだ。生真面目で不器用な後輩に何を思ったか、虎徹はふと笑みを引っ込め、視線をケーキの飾りへと落とした。そうして、あのな、と、まるで子供に言い聞かせるような声を出す。
「ここのは特別上手いって、俺は知ってる。今までも時々買って食ってたからな」
「……」
「それで、昨日ふとここの前を通った。そんとき、ああ最近買ってねえなあ、と思ってさ、……あと」
ぽつぽつと話していた虎徹は、そこで一度声を切ると、視線を上げてバーナビーを見つめた。すう、と、目が細まる。バーナビーは無意識に、膝の上に置いていた手を握る。虎徹が少しだけ、喉の奥で笑った気がした。
「上手いものでも食えば、可愛くねえ兎ちゃんも少しは笑ってくれるかなあと思って」
ぱく、と、開いた口は、けれど何も音を発せなかった。そんなの、と、バーナビーは思う。そんな、そんなことを、どうしてこの男は何の気なしに言えるのか。ぷいと顔を逸らして口元を押さえる。不意打ちの出来事に逃げ出すなんてみっともない、と思ったが、どうしようもなかった。今度ははっきりと虎徹が笑うのが分かって、頬に熱が集中した。赤くなんてなりたくないのに、……動揺を表に出したくなど、ないのに。
大きな手が伸びてくる。ぐしゃぐしゃと髪を掻き乱されて、バーナビーは軽く頭を振ることで抵抗した。けれど上機嫌な男は手を止めない。それどころか、背に手を回すとそのまま引き寄せてくる。バランスを崩して反射的に手を伸ばした。背もたれを掴んだ指に力が入りすぎて痛いくらいだ。そんなことにはきっと気付いていないのだろう、男はバーナビーの抵抗など少しも構わず、ぎゅうと抱きしめる力を強める。
離して下さい、と言ったはずの声は、自分でも分かる程小さくて聞き取りにくかった。これじゃ誰も離す訳がない、と他人事のように思う。考えた通り、虎徹が手の力を緩める気配はなかった。片手でバーナビーの背を緩やかに撫で、もう一方の手では肩から下に落ち掛かる髪をゆっくりとすいた。耳元で笑う声に何故だか胸が騒いで、バーナビーは相手に気付かれないように気を付けながらそっと息を吐く。その内に、虎徹の低い声が鼓膜を揺らしてきた。バニーちゃん、と、ふざけた呼称を持ち出す彼が何を考えているかなんて分からない。
「なあ、照れてんの」
「違います」
「じゃあ何でこっち見ねえの」
「見たくないからです、おじさんの顔なんて」
「あ、そ」
そんなことをしている内に、目の前にいた男はさっさと歩いて行ってしまう。え、と思わず声を上げたが彼は振り向かない。ぽつねんとその場に立ち尽くし、さてどうしたものかと思っていると、キッチンの方へ行っていた虎徹が振り向いて、軽く手を振った。その辺適当に座れ、と声が飛んでくる。はあと間の抜けた返事をして、ぐるりと部屋を見渡した。その辺、と言われても、と少なからず考え込んでしまう。そう何度も来たことがない他人の家は、どこかふわふわとして落ち着かない感覚をもたらす。
虎徹の暮らすこの部屋には、いかにも男やもめの一人暮らし、といった雰囲気があった。ゴミが溜まっていたり、飲みかけのグラスが出しっぱなしだったりと、どことなく雑然として、生活感に溢れている。バーナビーが暮らす部屋とは全く違う。それでも不思議と嫌な気持ちはしなかった。一歩二歩と足を踏み出し、ソファの方へ寄って行く。
ひとりで使うには充分すぎる程広いソファには、どうやら虎徹が脱いでそのままにしていたらしい部屋着が放ってあった。物ぐさだなと思ったが彼らしくも感じる。そのままでは座りにくいので適当に畳んで隅に置き直す。それからようやっと腰を下ろした。
「ああ、悪いな、それ」キッチンで何かいじっていた物音が止むとすぐ、虎徹がこちらへ戻って来た。僅かに左へ向き直すと、片手に缶ビール、もう一方に何か白い箱を持った彼が口早に言う。それ、と顎をしゃくられて、部屋着のことかと気付いた。いいえ、と軽く首を振る。バーナビーと、丁度90度の角度で隣り合うように座った虎徹はテーブルに缶ビールと箱を置くと、その辺りに散らばっていた雑誌や本を適当にまとめた。それから、ああと何かに気付いて席を立つ。
またひとり残されたバーナビーは、目の前にある箱をまじまじと見つめた。真白い、何の飾り気もない箱だ。丁度、バーナビーが両手を広げた上にぴったり乗りそうなくらいの大きさで、あまり大きくはない。何だろうと首を傾げたところで、お待たせと明るい声が掛かった。
戻って来た虎徹の手には、2本のフォーク、そしてナイフがあった。ナイフをテーブル、コップをバーナビーの目の前に置いてから、フォークを差し出す。首を傾げながら受け取ると、ソファに深く身を投げ出すように座った虎徹が、それ、と箱をフォークで指し示した。「何だと思う?」分かりませんと答える間もなく開けてみろと言われて数度瞬いた。見つめた先の男は楽しげに笑うばかりで何も答えてはくれない。フォークを置いて箱に手をかける。
開かれた箱の中には、その箱と同じように白い、小さなショートケーキが入っていた。表面のクリームには僅かも凹凸がなく、つやつやとしている。そうして、円の中心に飾り付けられた苺もまばゆいくらいに赤く艶やかだった。
「……どうしたんです?」
「買ったんだよ」
「それは分かりますけど、……どうして?」
何にでも理由を求めるべきではないのかも知れないが、それにしても虎徹の行動が不可解に思えて、バーナビーは僅かに語調を強めた。何がどうという訳ではなく、けれど無視出来ない程度には、はっきりと焦りが胸にあった。物事を把握出来ないのは苦手だった。それが、普段なら何のことはなく意思が掴めると思っている相手のことなら尚更だ。そんな困惑に気付いているのかいないのか、虎徹はテーブルからナイフを取り上げると、さっさとケーキを何片かに切り分けてしまう。そうして、ほら、とバーナビーに向けて箱を押し出す。
「おじさん、」
「いいから食えよ」
言いながら缶のプルトップに指を掛ける。バーナビーの視線に気付いていない訳もないだろうに、虎徹は何でもないような顔をしてごくごくとビールを飲み下した。バーナビーの視線の先で少しずつ喉仏が上下する。
しばらくして缶を置いた虎徹は、はあ、と小さく息を吐くと、ソファにゆったりともたれ掛かった。それから、じっと自身を見つめるバーナビーに、少し困ったように笑ってみせる。バーナビーはそれでも、何も言わないままだ。生真面目で不器用な後輩に何を思ったか、虎徹はふと笑みを引っ込め、視線をケーキの飾りへと落とした。そうして、あのな、と、まるで子供に言い聞かせるような声を出す。
「ここのは特別上手いって、俺は知ってる。今までも時々買って食ってたからな」
「……」
「それで、昨日ふとここの前を通った。そんとき、ああ最近買ってねえなあ、と思ってさ、……あと」
ぽつぽつと話していた虎徹は、そこで一度声を切ると、視線を上げてバーナビーを見つめた。すう、と、目が細まる。バーナビーは無意識に、膝の上に置いていた手を握る。虎徹が少しだけ、喉の奥で笑った気がした。
「上手いものでも食えば、可愛くねえ兎ちゃんも少しは笑ってくれるかなあと思って」
ぱく、と、開いた口は、けれど何も音を発せなかった。そんなの、と、バーナビーは思う。そんな、そんなことを、どうしてこの男は何の気なしに言えるのか。ぷいと顔を逸らして口元を押さえる。不意打ちの出来事に逃げ出すなんてみっともない、と思ったが、どうしようもなかった。今度ははっきりと虎徹が笑うのが分かって、頬に熱が集中した。赤くなんてなりたくないのに、……動揺を表に出したくなど、ないのに。
大きな手が伸びてくる。ぐしゃぐしゃと髪を掻き乱されて、バーナビーは軽く頭を振ることで抵抗した。けれど上機嫌な男は手を止めない。それどころか、背に手を回すとそのまま引き寄せてくる。バランスを崩して反射的に手を伸ばした。背もたれを掴んだ指に力が入りすぎて痛いくらいだ。そんなことにはきっと気付いていないのだろう、男はバーナビーの抵抗など少しも構わず、ぎゅうと抱きしめる力を強める。
離して下さい、と言ったはずの声は、自分でも分かる程小さくて聞き取りにくかった。これじゃ誰も離す訳がない、と他人事のように思う。考えた通り、虎徹が手の力を緩める気配はなかった。片手でバーナビーの背を緩やかに撫で、もう一方の手では肩から下に落ち掛かる髪をゆっくりとすいた。耳元で笑う声に何故だか胸が騒いで、バーナビーは相手に気付かれないように気を付けながらそっと息を吐く。その内に、虎徹の低い声が鼓膜を揺らしてきた。バニーちゃん、と、ふざけた呼称を持ち出す彼が何を考えているかなんて分からない。
「なあ、照れてんの」
「違います」
「じゃあ何でこっち見ねえの」
「見たくないからです、おじさんの顔なんて」
「あ、そ」