∽チカちゃんの学校生活
●刺繍をしたよ
(中学2年生)
「だからのう、そっちからも部活に出るよう言ってやってくれ。」
そう言われてもチクチクと針を動かす手は止めないでいたら、嘆息が聞こえた。
そのままの姿勢で動きを止めて、目線だけを上向ける。
陸上部のエースが、眉を下げきっていた。
島津くん、という爽やかな笑顔が似合う彼に、こんな顔をさせたと知れたらファンの女子が煩そうだなと思う。
視線をまた手元に戻して、針を動かしながら言った。
「本人の意志で此処に来てるんだから、口出すことじゃないだろ。」
「とはいえ、もう3日も出てないからのう。顧問がイライラしとる。あれじゃあ内申に響く。」
「ここんところ気持ちイイ天気だったもんなあ。」
「うん?」
正面に座る彼が、不思議そうな声を出した。
そのとき、ガラリと被服室の扉が開いた。
「おっ邪魔しまーす。チカちゃん、これから伊達ちゃん来るって言ってるけど、いい?」
夕暮れの陽を背中に浴びて、オレンジ色の髪を普段より朱に染めた佐助が立っていた。
「お、伊達、時間出来たんだ?どれくらいで来る?」
「あと15分ってところかな?」
「ふうん、じゃあちょっと急がないとな。」
ピン、と張られた刺繍枠の布に針を立てて途中まで刺し、机に置いた。
ちょっと行ってくるわ、と後輩に声をかけてから準備室に向かう。
後ろで佐助が島津に、何々なんで教室じゃ接点ないのにチカちゃんの所に来たの?と訊いて足止めしていた。
薄暗い準備室の、使われないミシンや布地の山を横目に見ながら奥の大窓からベランダに出る。
ベランダの端には梯子があり、手をかけて上を見上げた。
雲ひとつ無い、秋晴れの空。いい風が吹いていそう。
ああ、海が見たい。
しようの無いことを思ってから梯子を上った。
ヒョイ、と給水塔のための屋上に顔を覗かせたら、梯子を上る音が聞こえてたのだろう、その場の全員がこっちを見ていた。8人。
「生徒会長が来るってさ。一時間くらいは居るだろうから、帰りたい奴はとっとと帰りなー。」
いつものお約束の台詞。この台詞を言うためだけに、佐助は予め伊達の来訪を教えてくれている。
屋上は出入り禁止だ。
事故防止だとかで、どこの階段からだって上がれないようにキッチリ鍵が閉められている。
けど被服準備室のベランダには、屋上の給水塔まで上がる梯子があった。
年に2回、作業員がチェックに上るためのものだ。
いわば裏ルート。
一度だけのつもりでチカが上ったとき、教師どもに不良のレッテルを貼られている連中が、それを見つけてしまった。
一般生徒には見つからなかったのに、いつか屋上を溜まり場に、と夢見て上ばかり見ていたらしい。
チカ特有の風貌はすぐに身元がバレて、自分たちも上らせろ、と押しかけられた。
チカは幾つかの条件と交換で、共犯な、と笑った。
被服部の部員たちを怖がらせないこと。
存在した痕跡を絶対に残さないこと。
たまに遊びに来る生徒会長にバレないようにすること。
教師にチクられたら、作業員が不審に思ったら、生徒会長が排除に乗り出したら。
どれもこれも理由を説明すれば、溜まり場の維持には必要なことだったから、理解を得られた。
別に彼らは、大きな声を出したりはしなかった。
携帯灰皿持参で煙草を吸ったり、雑誌を読んだり、ぽつりぽつりと会話をする程度。
ただ、逃げ場が欲しかっただけなんだろうな、とチカは思っている。
勿論たまに喧嘩もあったりするが、そういうときはチカが屋上から引き摺り下ろす。
今後の出入り禁止を言い渡せば。
あるいは他の連中にだって溜まり場が見つかることは面倒だから、喧嘩を仲裁したりしている。
チカの入学前、騒いで近隣住民に通報されたことがこの学校はあるのだと佐助が言っていた。
それ故に騒ぎにはならない。
準備室の鍵はチカと顧問しか持っていないので、権限は絶対だ。
大体、チカだって好んで屋上へ上るのだ。
連中に、他の教室や階下から見つかるスポットを教えてもらったのはラッキーだった。
次代の部長には、絶対に屋上に上らないよう言い聞かせなければと今から算段している。
鍵を持つ共犯者が存在するときだけの溜まり場なのだ。
ゆるゆると全員が降りるために立ち上がったのを確認して、チカも梯子を降りた。
人数の確認は絶対にするようにしている。
誰かを残して鍵を閉めてしまったら大変だ。
それでも万一のために全員に携帯番号は教えている。
伊達の滞在時間を教えるのは、その間が静かなら居てもいい、という意思表示のつもりだが、律儀なのか面倒なのか、皆が降りてくる。
こういうところは好ましい、と部員が以前に話していた。
部員も、彼らを行き場が無いようにするのは気が咎めるらしい。
見て見ぬ振りをしていてくれている。
準備室からぞろぞろと出てくると、島津が眼を瞬いて驚きを露わにしていた。
「準備室にこんなにいたのか?」
驚きは尤もだ。被服室の半分しかない準備室に8人もいたとは考えにくい。
今日の人数は多い方だ。
「狭くっても隠れ家だからさ。居心地いいみたいよ?」
佐助が笑ってフォローを入れた。
嘘とは言い切れない言い回しをするから、ズルイよなあとチカは秘かに苦笑した。
佐助も共犯者だ。だからこういう小さな助けを入れてくれる。
一度、雑誌を屋上に忘れたと電話があったときに、佐助は居合わせた。
伊達の家で、片倉さんが取りすぎた山菜の処理のため天麩羅パーティをした帰りだった。
具材ごとに天麩羅の種を変える凝り性っぷりで、帰りは20時を回っていた。
まあ確かに、酢を加えた種で揚げた葉物の天麩羅は絶品だったが。
後片付けが大変だろうからと言って、車で送られるのを辞退して良かったと電話を終えて思った。
が、佐助には根掘り葉掘り聞かれて、答えざるを得なくなった。
そうして佐助は何の気なしに、今から学校に取りに行こう、と言ったのだ。
あっさりと佐助は、宿直警備員の巡回時間と校内の機械警備の解除パスワードをチカに披露した。
「忘れ物した子のためにさー、警備員さんが解除することがあるんだよね。でもそのときって警備員さんもついて来なきゃいけないの。今回は駄目だよね。朝もさ、運動部が朝錬で外周走るから見つかる確率高いし。ま、たまにやる分には記録ミスって扱いで済むでしょ。」
ケラケラと笑って、佐助は職員玄関の警備システムにパスワードを打ち込んだ。
後で知ったが、パスワードは定期的に変更されているらしい。
にも拘らず解除した佐助の徒名、情報屋、という意味の恐ろしさをチカは初めて知った。
ハンカチ越しに指紋が付かないよう扱う様子にも、鞄からペンライトが出てくる周到さにも、正直呆れた。
真っ暗な校舎を静かに歩いて、屋上へ辿り着いて雑誌を見つけたとき。
チカはこんなに簡単でいいのだろうかと、気持ちが疲れ果てた。
それでも、綺麗だねー、と呟いた佐助の視線を辿って見上げた夜空は、きっと一生忘れないだろうと思った。
静かで綺麗な、星空だった。
あ、と島津は声を上げて、一人の腕を取った。
部活に出てこない、と訴えた後輩なのだろう。
あからさまに厭わしい顔をした男子にチカは苦笑する。
島津は彼の後をつけて、被服室にやってきた。
作品名:∽チカちゃんの学校生活 作家名:八十草子