ノヴァーリス・ウイルスを昨日殺した
永遠が永遠になる前の話をしようと思う。どこかで生まれてどこかで生きて、それからどこかで死んでゆく、一対とも呼ぶこともできない不完全なふたりが紡ぐ、ごく普遍的でドラマにもならない滑稽なストーリーを。舞台装置のうえで踊る姿が可笑しければ、遠慮なく笑ってくれても構わない。
ノルウェイの森の、モンマルトル広場の、どこか知らない国や世界の栗鼠が冬に差しかかるたびに支度をはじめるように、我々は準備をする時期に差し掛かっていた。一つの世界におわかれをすること、それから、我々以外の人たちに暴かれて愛され、愛すること。幼いころから淡い色彩で続いていたひとつの恋を開始して、きっぱりと終わらせてしまうこと。
「“ねえ、そんな抽象的な修辞を並べたてることによって言葉は本質を失くしてゆくって、知っていた?”」
不可解な微笑みを浮かべる人型の存在はただただ煩わしい。色の透明すぎて、掴めばほろりと溶けていってしまいそうな華奢な手頸は死にかけの蝶々のようにふらりと彷徨い、光に透けないこの腕をまたたく間につかむのでとても困る。とてもとても困るのだ。だって、
――色彩がむやみに溢れてまぶたを焼くような晩夏と、くすんだグラデーションが感傷を刺激する秋が枯れてしまったそのころに、ココが熱を出した。季節の変わり目のものだからすぐに治るかと甘く見ていた発熱は、気が付けばもう一週間も続いている。
ベッドの上の彼はそんなふうに何ともないように賢しげな、彼独自の世界と価値観をごった煮にしたような妙な台詞を吐くけれども、その頬は以前と比べて確かに幸福げな丸みを失くしていたし食欲だって減退していた。最初のうちはまだ気軽に、かしましく甲斐甲斐しく見舞いに来ていた少女らは、彼の病が進行するにつれてミルクから出入り禁止の命を食らい今では時折その声を聞かせるのみだ。少女らが来るとココが無理をして何ごともないように振舞うのだから、まあそれも仕方あるまい。
元が人間ではないのだから医者にも行けず、ただ害がなさそうな市販の漢方薬を飲ませてみたり濡らしたタオルを幾度も変えたり、甘そうなりんごを選って摩りおして食わせてみたりするものの、しかしまったく彼が快方に向かう気配はない。――だけれども目の前の、消耗しているはずである彼は、どうしてか発症した直後からてんで元型(あの愛らしいぬいぐるみのような矮小な体躯!)に戻らないのだ。
人型を保ち続けるココにそれは何かの暗喩か反抗かと問うてみても、分からない、と困ったような笑顔を返されるのみで、日が過ぎるごとに苛立ちは募った。否、ちがう。苛立っているのは彼にではない。苦しんで痩せてゆくココに対して、何もしてやれない自分自身へ抱くべき、それはあの王国の鍵のエピソードを彷彿とさせる暗くてどろどろとした感情だった。
「悪いね」
食事を運ぶたび、額同士を触れ合わせて熱をはかる度、呉れられる謝罪が居心地わるかった。
意見をつらぬくことが出来るアウトローっぽいナッツの所作が好きだよと彼は言うけれど、けれどそんなかたくなな頑固さよりも自然に他人に気を遣えたり、素直によろこびや感謝を表せるココの天性の性格のほうが余程憧れる対象だ、とおもう。自意識を個性を大切にしろと風潮に社会にブラウン管の向こうに刷り込まれ、声高に我儘をとなえオン・ラインで"人とは違う自分"を主張してこれが個性だと笑ってみせる輩の何と何と多いことよ!
ベッドの傍に腰掛けて、薄いまぶたをやわらかに開く彼の青眼を直線距離でとらえる。深い深い哀しみを煮詰めて液状化して、深く掘った10フィートの穴に閉じ込めた、みずうみのような眼だと思う。表面はきれいだけれど深淵を探ってみれば汚いところだってたくさん見つかる、彼のひみつを知っていた。
「いや。具合は?」
「まあまあ」
「朝は頭痛がひどいと言っていただろう。平気なのか」
「……少し痛む。でも今は外の空気が吸いたいかな。窓、開けてくれないか」
「冷える」
「それでもこんな菌だらけの部屋だと、治るものも治らない」
「……少しだけだぞ」
微笑んでありがとう、と言う唇は、朝からほんの少しの水分しか摂ることをしていない。食欲がないから、の一言で片づけて、白湯だか野菜ジュースだかココアだか、そんなものだけ口にして。
ぎんいろの不吉めいた光を時折ぎらりと投げつける、アルミサッシに手をかけてわずかだけ窓を開ける。吹き込む風はつめたく、秋のようにどこか悲しくなるようなにおいすら含んでおらず、ただ鼻孔の奥を通って脳髄を凍らせることしか遂行できぬ冬のものだ。ベッドに一筋だけ差し込むのは昼に差し掛かる前のひかりだった。ココが目を細めて、表情だけで気持ちよさそうにする。清潔なシーツの上ではやわらかな髪が好き勝手に跳ねていて、時折吹きこむやわい風にさらわれる。
「しかしベッドの上って暇だね。長時間本を読むのも疲れるし、ナッツは喋りすぎると体に悪いとか言って相手してくれないし」
「仕方ないだろう。体に障る」
「妊婦さんをいたわるみたいなことを言うね。あるいは少女小説?」
「……どういう例えだ」
病人のくせに、顔色はわるくて多分頭は今でも随分痛んでいるだろうに、ココの弁は春雨のようにしずかに降っては止むことを知らない。こっちへ来い、とジェスチャで表して、素直に寄ってやったこちらの腕にそっと触れて、何をするでもなくナッツって腕とか細いよななどと呑気に喋ってみたりするのだ。まったく、彼といういきものは。
「そういう時は、何を考えてるんだ」
「君やミルクやのぞみがいなくて暇なとき?」
「ああ」
「……そうだな、」
彼の喋りかたは独特で、いつだって直線的にしか喋れない自分に対して、ココはひどく曲線的に、ゆっくりと言葉を紡ぐ。まるで人が安心する速度や目線をすべて知っているかのようだと思う。獣のかたちをしていた時も、彼とは、はたしてこのような存在だったろうか?
「日常生活のパーツを一つずつ挙げて、取捨選択してた。これは生きることに必要かどうか、ってね」
「ココにしては無意味なことをするな」
「そうでもないよ。わりあい楽しいし、暇潰しくらいにはなる。何なら今ここでやってみせようか」
逸らされる視線がどこを見ているか、分かったことなど一度もない。ココはナッツの返答を聞かず、好き勝手に唱えはじめる。彼はやっぱりとても丁寧にことばを紡いだ。節が目立つ指を一つひとつ折り曲げながら、生きることをいとおしむように。
「まず細胞が死滅すること。――再生するのに必要。ステップを踏むこと。残念だけど不必要だね。とびこむこと。不必要。肉を挽く。ベジタリアンだから要らない。鼻歌でメロディをなぞる。要らないけど、とても好きだ。本を読む。まあ、必要。フィルムを撮る。芸術家でないから要らないな。哲学をする。不必要。仕事をする。必要。食べること。くるしむこと。セックスをすること。いらいらすること。ああ、それらは全部必要だけれど、そうだな、誰かを好きになること、は……不必要かな」
「……ココ」
「なあ、何か楽しい話をしてよナッツ。元気になって、それで少し笑ってしまうようなお話」
「………、」
ノルウェイの森の、モンマルトル広場の、どこか知らない国や世界の栗鼠が冬に差しかかるたびに支度をはじめるように、我々は準備をする時期に差し掛かっていた。一つの世界におわかれをすること、それから、我々以外の人たちに暴かれて愛され、愛すること。幼いころから淡い色彩で続いていたひとつの恋を開始して、きっぱりと終わらせてしまうこと。
「“ねえ、そんな抽象的な修辞を並べたてることによって言葉は本質を失くしてゆくって、知っていた?”」
不可解な微笑みを浮かべる人型の存在はただただ煩わしい。色の透明すぎて、掴めばほろりと溶けていってしまいそうな華奢な手頸は死にかけの蝶々のようにふらりと彷徨い、光に透けないこの腕をまたたく間につかむのでとても困る。とてもとても困るのだ。だって、
――色彩がむやみに溢れてまぶたを焼くような晩夏と、くすんだグラデーションが感傷を刺激する秋が枯れてしまったそのころに、ココが熱を出した。季節の変わり目のものだからすぐに治るかと甘く見ていた発熱は、気が付けばもう一週間も続いている。
ベッドの上の彼はそんなふうに何ともないように賢しげな、彼独自の世界と価値観をごった煮にしたような妙な台詞を吐くけれども、その頬は以前と比べて確かに幸福げな丸みを失くしていたし食欲だって減退していた。最初のうちはまだ気軽に、かしましく甲斐甲斐しく見舞いに来ていた少女らは、彼の病が進行するにつれてミルクから出入り禁止の命を食らい今では時折その声を聞かせるのみだ。少女らが来るとココが無理をして何ごともないように振舞うのだから、まあそれも仕方あるまい。
元が人間ではないのだから医者にも行けず、ただ害がなさそうな市販の漢方薬を飲ませてみたり濡らしたタオルを幾度も変えたり、甘そうなりんごを選って摩りおして食わせてみたりするものの、しかしまったく彼が快方に向かう気配はない。――だけれども目の前の、消耗しているはずである彼は、どうしてか発症した直後からてんで元型(あの愛らしいぬいぐるみのような矮小な体躯!)に戻らないのだ。
人型を保ち続けるココにそれは何かの暗喩か反抗かと問うてみても、分からない、と困ったような笑顔を返されるのみで、日が過ぎるごとに苛立ちは募った。否、ちがう。苛立っているのは彼にではない。苦しんで痩せてゆくココに対して、何もしてやれない自分自身へ抱くべき、それはあの王国の鍵のエピソードを彷彿とさせる暗くてどろどろとした感情だった。
「悪いね」
食事を運ぶたび、額同士を触れ合わせて熱をはかる度、呉れられる謝罪が居心地わるかった。
意見をつらぬくことが出来るアウトローっぽいナッツの所作が好きだよと彼は言うけれど、けれどそんなかたくなな頑固さよりも自然に他人に気を遣えたり、素直によろこびや感謝を表せるココの天性の性格のほうが余程憧れる対象だ、とおもう。自意識を個性を大切にしろと風潮に社会にブラウン管の向こうに刷り込まれ、声高に我儘をとなえオン・ラインで"人とは違う自分"を主張してこれが個性だと笑ってみせる輩の何と何と多いことよ!
ベッドの傍に腰掛けて、薄いまぶたをやわらかに開く彼の青眼を直線距離でとらえる。深い深い哀しみを煮詰めて液状化して、深く掘った10フィートの穴に閉じ込めた、みずうみのような眼だと思う。表面はきれいだけれど深淵を探ってみれば汚いところだってたくさん見つかる、彼のひみつを知っていた。
「いや。具合は?」
「まあまあ」
「朝は頭痛がひどいと言っていただろう。平気なのか」
「……少し痛む。でも今は外の空気が吸いたいかな。窓、開けてくれないか」
「冷える」
「それでもこんな菌だらけの部屋だと、治るものも治らない」
「……少しだけだぞ」
微笑んでありがとう、と言う唇は、朝からほんの少しの水分しか摂ることをしていない。食欲がないから、の一言で片づけて、白湯だか野菜ジュースだかココアだか、そんなものだけ口にして。
ぎんいろの不吉めいた光を時折ぎらりと投げつける、アルミサッシに手をかけてわずかだけ窓を開ける。吹き込む風はつめたく、秋のようにどこか悲しくなるようなにおいすら含んでおらず、ただ鼻孔の奥を通って脳髄を凍らせることしか遂行できぬ冬のものだ。ベッドに一筋だけ差し込むのは昼に差し掛かる前のひかりだった。ココが目を細めて、表情だけで気持ちよさそうにする。清潔なシーツの上ではやわらかな髪が好き勝手に跳ねていて、時折吹きこむやわい風にさらわれる。
「しかしベッドの上って暇だね。長時間本を読むのも疲れるし、ナッツは喋りすぎると体に悪いとか言って相手してくれないし」
「仕方ないだろう。体に障る」
「妊婦さんをいたわるみたいなことを言うね。あるいは少女小説?」
「……どういう例えだ」
病人のくせに、顔色はわるくて多分頭は今でも随分痛んでいるだろうに、ココの弁は春雨のようにしずかに降っては止むことを知らない。こっちへ来い、とジェスチャで表して、素直に寄ってやったこちらの腕にそっと触れて、何をするでもなくナッツって腕とか細いよななどと呑気に喋ってみたりするのだ。まったく、彼といういきものは。
「そういう時は、何を考えてるんだ」
「君やミルクやのぞみがいなくて暇なとき?」
「ああ」
「……そうだな、」
彼の喋りかたは独特で、いつだって直線的にしか喋れない自分に対して、ココはひどく曲線的に、ゆっくりと言葉を紡ぐ。まるで人が安心する速度や目線をすべて知っているかのようだと思う。獣のかたちをしていた時も、彼とは、はたしてこのような存在だったろうか?
「日常生活のパーツを一つずつ挙げて、取捨選択してた。これは生きることに必要かどうか、ってね」
「ココにしては無意味なことをするな」
「そうでもないよ。わりあい楽しいし、暇潰しくらいにはなる。何なら今ここでやってみせようか」
逸らされる視線がどこを見ているか、分かったことなど一度もない。ココはナッツの返答を聞かず、好き勝手に唱えはじめる。彼はやっぱりとても丁寧にことばを紡いだ。節が目立つ指を一つひとつ折り曲げながら、生きることをいとおしむように。
「まず細胞が死滅すること。――再生するのに必要。ステップを踏むこと。残念だけど不必要だね。とびこむこと。不必要。肉を挽く。ベジタリアンだから要らない。鼻歌でメロディをなぞる。要らないけど、とても好きだ。本を読む。まあ、必要。フィルムを撮る。芸術家でないから要らないな。哲学をする。不必要。仕事をする。必要。食べること。くるしむこと。セックスをすること。いらいらすること。ああ、それらは全部必要だけれど、そうだな、誰かを好きになること、は……不必要かな」
「……ココ」
「なあ、何か楽しい話をしてよナッツ。元気になって、それで少し笑ってしまうようなお話」
「………、」
作品名:ノヴァーリス・ウイルスを昨日殺した 作家名:csk