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ノヴァーリス・ウイルスを昨日殺した

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ココが倒れたのは一週間前のことだった。その原因も過程も、揺らいでぐちゃぐちゃになったきれいな青眼の底の感情も自分はくまなく知っていたのだけれど、「最後のライン」を踏み越えることには彼と同じく抵抗があった。だってもしそれを越えてしまったのなら、栗鼠たちのように「準備」をはじめてしまったのなら、自分たちはやがて終わってしまう。幸福と不幸と罪と罰とうつくしさと汚らしさがどろどろに煮詰まった世界で、他人によって精神が暴かれる世界で、愛情を隠してまで暮らしてゆく覚悟なんてなかった。その先にお別れをする覚悟だって。……彼の体調が芳しくなくなる、そのことさえなかったのなら。
「ココ」
「うん?」
「言って欲しい言葉があるんだろう?」
「ああ。あるよ」
冬の風がしずかにそよいでいた。銃をつきつけるように言葉を零すと、観念したようにココはわらった。幼馴染というのは時折至極都合のいいもので、次に紡ぐ台詞なんてものは、前の言葉を口に出した瞬間に大体分かるものなのだけれど、今回ばかりはそれが嬉しさに結ばれない。
淡いモス・グリーンのカーテンが静謐ぶって揺らめいている。下の階では音の絞られたラジオがこの国の昔の音楽を流している。平日の、冬の午前に人は少ない。ココの青眼が深淵へいざなうように、ぐらりと歪んで言うべき言葉を導いた。乾いた声でひとこと掬ったのは、いったい彼のからだのうちの何いろの水だったんだろう?

「お前を好きだ」

だって、なあ、お前があくまでも曲線的に生きるのならば、俺が直線的に生きてゆくべき、なんだろう? 熱を出すくらいに悩んで悩んで迂回して迷い込んで、それでも伝えきらずビーカーの外側に零れ落ちた病状だったんだろう?
ココは一瞬きょとんとして、その次の瞬間零れんばかりに笑いだす。お前が俺にその言葉を言わせたくて寝込んだのなら、意図せず策略したのなら、このくだらないゲームにはまってやってもいいかなと思った、思ったのだ。
「うん。……ありがとう」
「言わせたかったんだろう」
「気付いてた?」
「最近な。仮病か?」
「いやー知恵熱じゃないかな」
「……お前は……」
「“しょうがない”?」
「まったくな」
「まあそれは認めるけどナッツのほうがかわいいよね、なんか顔赤いけど大丈夫?」
「……っ」
依然ベッドから上半身だけ体を起こす、ふつつかな獣は偲ぶように鋭く笑んだ。彼の笑いかたにはバリエーションが多すぎる。かわいらしいのも悪いかんじのも、本当に純粋なのも、人を罠に陥れるようなのだって見たことがあるのだ。
ぱたり、と簡単な音をたてて落ちたのは先ほど交換してやった濡れタオルだった。拾ってやろうと近付く先に、待ちうけている巧妙な蜘蛛の巣のような彼の策略のことを知っている。その次に降ってくるものも、持ちきれんばかりに与えられる感情のことも。――そうして短い、恋がはじまる。



色彩がむやみに溢れてまぶたを焼くような晩夏と、くすんだグラデーションが感傷を刺激する秋が枯れてしまえばそのあとは、モノクロームの檻が落ちて寒さに凍える日々がやって来るだろう。
ノルウェイの森の、モンマルトル広場の、どこか知らない世界の栗鼠が冬になるたびに支度をはじめるように、我々は準備をする時期に差し掛かっていた。一つの世界におわかれをすること、それから、我々以外の人たちに暴かれて愛され、愛すること。幼いころから淡い色彩で続いていたひとつの恋を開始して、きっぱりと終わらせてしまうこと。

熱の出たココのてのひらは酷くあたたかく、自分が生きるためにはこれは必要なものだと思った。今はじまった現実的な恋愛を終わらせる間に、この手を「不必要」のカテゴリに分別してしまわないといけないことだって知っていた。
動揺の少ない平穏な揺籃の中で、眠っているような幸福な舞台装置は壊されて過渡期がはじまる。やわらかくおとされたくちびるに泣いてしまいそうになるが、泣いたらいけない。幸福と動揺と寂寥と不安のあわいで我々は、しっかりと目を開けてこれから行われる一連のロマンスを記憶せねばならない。いつか来る最後の色みで視界が終焉の二文字を刻むまで。復興した国を統治するその日まで。友愛が愛情に代わり、そして友情にもどるその時まで。
――かくしてコースターのレールは動き出し、今日生みだされた恋はやがて、死ぬのだ。


07.1220初稿 10.0307改稿/改題