IN ケテルブルクホテル
窓から見える雪空の色が、子どもの頃を思い出させる。
ましてやベッドに寝転んで、長い間放っていた本を読み耽っているとなればなおさらだ。
旅の途中、ぽっかりと開いた時間を、ジェイドはそんな風に過ごしていた。
「――腹が、緩い気がするんだ」
唐突な言葉に、ジェイドは読んでいた本から顔を上げた。
見ると、いつの間に来たものか、寝そべって本を読むジェイドの傍らで、ルークが腹を擦りながら立っていた。
「――腹が緩いのなら、トイレに行きなさい。薬が欲しいのなら、フロントに行って貰って来なさい」
今私が持っている薬は、便秘解消用の下剤しかありませんよ、と言うと、ルークは、違うんだ、と首を振った。
腹は冷えているが、壊したわけではない。
「何か、腹筋が衰えてる気がして――」
と、ルークは、丸出しになっている腹を擦った。
そう言われて、ジェイドはルークの腹を見たが、以前の腹を良く見ていたわけではない。
今でも腹は割れているが、その割れ方が甘くなっているということなのだろうか。
ジェイドは眼鏡の位置を直しながら言った。
「あなたの腹の割れ具合など、私が覚えているわけ無いでしょう。そういうことは、ガイに聞いてください」
「いないんだ、ガイが」
そういえばガイには先刻、お使いに行ってもらったのだった。
ジェイドは、仕方がないですね、と、渋々体を起こした。
ほら、と差し出された腹をじっくりと見てみるが、腹は、割れていることは割れているのである。
問題は割れ具合なのだが、その加減の程など、ジェイドに判別出来るはずもなかった。
しかし、ルーク本人が緩い気がする、と言っているのだ。
緩くなっているかどうか確かめてくれ、などと言っているが、その実、本人は緩いと思っているに違いない。
でなければ、こんなことでうだうだ言い出すはずも無いのだ。
だから他人から、そんなことないよ、と言われようとも、きっと納得はしないだろう。
ジェイドは、ふむ、と一息つくと、
「緩んでますね」
と、言い切った。
「やっぱりか!腹を曲げたときの感触が、柔らかいと思ったんだ!」
と、ルークはぐぐぐ、と体を曲げ、無理矢理作った肉の盛り上がりを、指先で突付いた。
そこまで曲げれば、誰だって多少の肉ははみ出て来るだろう。
むしろそうまでして摘む部分を作って騒ぎ立てるのは、ある意味嫌味だ。
ジェイドは自分の腹具合を考えてみて、――考えるのをやめた。
決してぷよぷよというわけではないのだが、ここまで割れているか、と言われると、いや、ここまでは、と思うのだ。
恐らく、全体的な体脂肪率を比べると、その低さはルークには敵わないだろう。
ほらほら、と肉を指さすルークに、わぁ、すごい肉ですねぇと、相槌を打ちながら、ジェイドはベッドサイドに置いてあったコーヒーを飲んだ。
「何でこんなに緩くなっちまったのかなぁ。俺、別に食い過ぎとかごろ寝し過ぎとか、してないよな?」
かといって、鍛錬に励んでいた、というわけでもない。
このケテルブルクに滞在して既に数日。
その間、戦闘も無くのんびりと過ごしていたのである。
ごろ寝ではないにしろ、筋肉も気も、緩んでしまう環境にはあったのだ。
そうですねぇ、とジェイドは呟きながら宙を見回していたが、あぁ、と何か思いついたように頷き、分かりました、と手を打った。
「あなたの腹筋が緩んだ理由が、わかりましたよ」
「本当か!!」
「ええ。――その、防寒タオルです」
「へ?」
ケテルブルクに着いてから、余りの寒さにルークは悲鳴を上げた。
この街に振り続ける雪と立ち込める寒気が、彼の剥き出しの腹を直撃したのだ。
一度は腹に、同じく凍えているミュウを押し付けて、お互いの暖をとろうと試みたのだが、冷えたソーサラーリングがなおのこと寒さを助長するとして、ルークは、貼り付けて数分後にミュウを剥がし、非情にも積もった雪の上に放り投げた。
結局、荷物から引っ張り出したタオルを腹に巻いて活動していたのだ。
そのタオルが原因だとジェイドにより指摘され、ルークはもう一度、「へ?」と繰り返した。
「そのタオルで腹を覆っていたから、あなたは無意識の内に気が緩み、そして腹も緩んでしまったのです」
ルークは、手に持っていたタオルを不思議そうな顔で見た。
「今まであなたは、常にその腹を人目に晒していました。人に見られているという緊張感を、自ら作り出していたのです」
それはあなた自身意識していなかったでしょうが、とジェイドは付け加えた。
「それなのに、ケテルブルクに来て以来、常に腹にタオルを巻き、隠してきた。そしてあなたはその腹から人目を取り去ったと同時に、緊張感も取り去ってしまったのです」
その結果、ルークの腹は緩やかにその筋肉を開放したのだ、とジェイドは言葉を結んだ。
思いも寄らない原因に、ルークは頭を抱えて考え込んだ。
「そんなこと言われたって、ケテルブルクを腹出しで歩くのは、きつすぎるぞ」
でも腹筋が緩んでいるのも嫌だし、と考え込んでしまったルークの足元から、ジェイドはミュウを拾い上げた。
「簡単なことですよ。何も悩むことはありません」
「みゅ?」
「――鍛錬なさい」
腹筋を鍛えるのです、とルークの眼前にミュウを差し出しながら、ジェイドは厳かな口調で告げた。
「隠している分、鍛えるのです。そうすれば、プラスマイナスゼロで現状維持が出来ます」
「そうだよな!」
緩んだ腹筋に、一条の光明が見えた。
拳を握って気合いを入れるルークに、ジェイドは満足そうに頷くと、ベッドから立ち上がった。
「僭越ながら、私もお手伝いしましょう。さあルーク、始めますよ」
「え?今からかよ・・・」
「善は急げ、と言うでしょう。筋肉とは衰えやすく、成り難きものです。もたもたしていては、到底以前の腹になど戻れないでしょう。それとも何ですか、あなたは」
――ぷよった腹を晒して、世界中を旅する気ですか?
ジェイドの言葉に、ルークの顔が、さっと青ざめた。
とんでもないことだ。
男の腹は、筋肉で引き締まり割れているからこそ、晒す価値があるのだ。
強気の言葉も、自信たっぷりの態度も、この腹で説得力を増していると言っても良い。
ルークは一も二も無く頷くと、ジェイドが家具を寄せて空けたスペースに、横になった。
「では今日から腹筋50回5セットを毎日の課題としましょう。足は私が抑えていますから、どうぞ遠慮なく始めてください」
「あ、ああ・・・」
ルークは、50回5セットという回数に、内心うんざりしながらも、これも腹筋のため、と自分に言い聞かせ、渋々と両手を頭の上で組んだ。
「ああ、そうそう」
忘れていました、と、ジェイドはミュウを取り出した。
「みゅ?」
不思議そうな顔をしたルークとミュウに、ジェイドはきらり、と眼鏡を光らせた。
「より一層効果を高める為に、ミュウにも協力してもらいましょう。ミュウ、ルークのためです。手伝ってもらえますね?」
「ご主人様のためなら、がんばるですの!」
「さあルーク、始めますよ」
ジェイドは両膝を使ってルークの足を押さえると、ゆっくりと頭の上に、ミュウを掲げた。
下から見上げるミュウは、ルークの役に立つことが嬉しくてたまらないのか、興奮しきった表情でその時を待っている。
作品名:IN ケテルブルクホテル 作家名:Miro