うらない
夏休みも間近に迫る暑い日の夕方、俺は部室に一人残って部誌を書いていた。
紙の上を走るシャーペンと時計の秒針の音がするばかりの静かな部屋に、突如コンコン、とドアがノックされる音が響いた。部員が忘れ物でもしたのかと思い「なんや?」と声をかけると、ドアの向こうから4カ月ほど前までここの生徒だった大男が姿を現した。
「…千歳先輩」
「お疲れさん。部長さんも遅くまで大変やねえ。アイス買うてきたけん食いなっせ」
相変わらずの長閑なイントネーションと呑気な顔で棒アイスを差し出してくる。いきなり何やねんという気持ちはあったが、いい加減部室の蒸し暑さに辟易していた頃だったのでありがたく受け取っておいた。
「珍しいっすね、先輩がここに来るん」
「まぁ大会前に一度くらいは、って思っとったけん」
別段なんかしてやれるわけでもなかばってん、とほんの少し申し訳なさそうに笑った。「ああ見えて千歳も気にしとんねん」と謙也さんが去年の最後の試合について俺に言ってきたのは、俺への慰めでも千歳先輩に対するフォローでもなく、単なる事実だったのかもしれない。
そんなことを思いながら齧ったアイスは甘く、冷たさが口に心地よいのと同時に前歯にしみて少し痛かった。
「四天宝寺の勝敗占っちゃろうか」
俺がアイスを食い始めてしばらくは壁に寄り掛かってぼけーっとしていた先輩が突然言い出した。
「え、」
どういうことやとアイスを齧るのを止めた俺の怪訝な顔を気にした様子もなく、千歳先輩は壁に背を預けたまま脚を蹴り上げた。
前以上に伸びた気がする長身に比例して長い脚から下駄がすっぽ抜け、弧を描いて床に落ちる。横倒しになった形で、コンクリートの床にわずかにその跡を残して。一体何kgあるんやあの下駄。いやそんなことよりも。
「今年も俺ら負けるっちゅーことっすか」
右足は下駄で左足は裸足というちぐはぐな状態で普通に歩いて下駄を回収しにいった背中に向けて訊ねる。
床に落ちた下駄がこけているということはそういう意味なのだろう。占いでも予言でもなく只の遊びに過ぎない行為だったが、それでもやはりそういう結果が出ると不愉快なものだ。俺は元々穏やかではない自分の顔が一層険しくなるのを感じた。
苛立ちを隠そうともしない俺に、両足に下駄を履いて戻ってきた先輩は笑みを返す。
「誰も下駄がこけたら負けなんて言うとらんばい」
「はぁ?」
「俺さっきは『下駄がこけたら四天宝寺優勝』って思いながらやったけんね」
やけん今の占いの結果は“四天宝寺優勝”てことな、と千歳先輩は涼しい顔で嘯いた。
卒業して以来一度も姿を見せなかったくせにいきなり現れたと思ったら、まるで未来に行って見てきたかのような迷いのない顔で俺たちが優勝すると告げてくる。本当にわけのわからない人だ。
「……まぁ、先輩なりに激励してくれとるっていうのは一応わかりました。若干詐欺られとる気がせんでもないですけど」
「詐欺て…。信じてくれとらんと?」
「信じる信じんを言う以前に下駄がちゃんと立ったら優勝、て思うでしょ普通」
うちが優勝すると、そう断言してくれるのが心強い気もするしその気持ちはありがたいと思えなくもないが、ありがとうございますと素直に返せずにこうして突っかかってしまう自分は、やはり去年のことを根に持っているのだと思う。この人が手を抜いたわけではないことも、自分が試合に参加していたところでろくに役には立たなかっただろうこともわかってはいるが、それでも。
俺のそんな感情に気付いているのかいないのか、千歳先輩は苦笑しながら言った。
「じゃあ今度は財前の言うとおりに占うことにすったい。そしたら信じてくれっちゃろ?」
飛ばした下駄が表向いて立ったら四天宝寺優勝、こけたら優勝以外な、と言い終わるが早いか、小さく足を振った。
裸足の爪先のすぐ先に下駄が落ちる。カタン、とさっきよりは軽めの、硬質な音がした。
「財前見て、表向いて立っとうよ。やっぱり今年はお前らが優勝で間違いなか」
「ていうか今のただ下駄脱ぎ捨てただけですやん。そんなぬるい飛ばし方で下駄こけるわけないでしょ」
即座に返した俺の言葉に、千歳先輩はあははと呑気に笑う。
「バレたと?やっぱり財前はきびしかねー」
厳しい、なんて言っている割に困っているようには見えない。それもそうだ、こんな嘘っぱち信じるのなんて遠山ぐらいのもんだろう。こんな言葉で俺が喜ぶとかありがたがるとかするなんて初めから思っていなかったに違いない。
先輩がここに来た目的がますます不透明になってきた。
まぁ普通に考えれば大会前だからと様子見ついでに激励しにきたといったところなんだろうということは分かるが、それがどうして占い云々の話になるのかが俺には理解できない。
「俺占いとかは信じませんけど、白石部長や謙也さん、他の先輩らのことはそこそこ信じてます」
俺がアイスを食べるのを見届けたら帰るつもりなんだろう、なんとなくそう思ったので、最後の一口を舐め取った俺は千歳先輩より先に口を開いた。知っとうよ、と穏やかな笑顔で相槌を打たれる。
「占いがどうこうは別としても四天宝寺が勝つことをアンタが望んでくれとることも一応わかりましたし、アンタ以外の先輩らが今年は俺らが優勝するって本気で信じてくれとることも知ってます。…やから、絶対勝ちます」
と、ここまで言ったところで、まっすぐ返される千歳先輩の視線がくすぐったくなった。しかし言い出してしまったものは仕方ないので、目線を手元のアイスの棒に移して続けた。
「……自信はないけど、先輩らが信じてくれとる俺らのことを俺は信じます」
「うん、そんでよかよ。頑張ってな」
我ながら恥ずかしいことを言ってしまったと若干後悔する俺の頭に、千歳先輩の手が伸びてきた。その大きな手は髪に触れる前に一瞬止まり、結局は肩をぽんぽんと叩くだけで終わった。(試合で勝った後なんかに謙也さんとかに頭をくしゃくしゃにされる度に俺が怒っていたことを覚えていたのかもしれない)
ほんなね、と来た時同様マイペースに千歳先輩は部室を去っていく。
俺に背を向ける前の一瞬だけ、先輩の呑気な笑顔の中にほんの少しほっとしたような色が浮かんだのがわかった。
去年のあの試合の後はすぐさま払いのけた千歳先輩の手を、今年の俺は払いのけなかった、そのことの意味に気付いたのだろう。そう思ったから俺は言わなかった。
「あれで案外優しいやつなんや」「うちにおってくれてよかった」「頼りになるやつや」などという風に千歳先輩が評価されていたこと、そしてそれを言っていたのが白石部長や謙也さん、そのほか俺がそれなりに信用しているテニス部の先輩たちであったことを。
↓↓上の1分くらい後。
紙の上を走るシャーペンと時計の秒針の音がするばかりの静かな部屋に、突如コンコン、とドアがノックされる音が響いた。部員が忘れ物でもしたのかと思い「なんや?」と声をかけると、ドアの向こうから4カ月ほど前までここの生徒だった大男が姿を現した。
「…千歳先輩」
「お疲れさん。部長さんも遅くまで大変やねえ。アイス買うてきたけん食いなっせ」
相変わらずの長閑なイントネーションと呑気な顔で棒アイスを差し出してくる。いきなり何やねんという気持ちはあったが、いい加減部室の蒸し暑さに辟易していた頃だったのでありがたく受け取っておいた。
「珍しいっすね、先輩がここに来るん」
「まぁ大会前に一度くらいは、って思っとったけん」
別段なんかしてやれるわけでもなかばってん、とほんの少し申し訳なさそうに笑った。「ああ見えて千歳も気にしとんねん」と謙也さんが去年の最後の試合について俺に言ってきたのは、俺への慰めでも千歳先輩に対するフォローでもなく、単なる事実だったのかもしれない。
そんなことを思いながら齧ったアイスは甘く、冷たさが口に心地よいのと同時に前歯にしみて少し痛かった。
「四天宝寺の勝敗占っちゃろうか」
俺がアイスを食い始めてしばらくは壁に寄り掛かってぼけーっとしていた先輩が突然言い出した。
「え、」
どういうことやとアイスを齧るのを止めた俺の怪訝な顔を気にした様子もなく、千歳先輩は壁に背を預けたまま脚を蹴り上げた。
前以上に伸びた気がする長身に比例して長い脚から下駄がすっぽ抜け、弧を描いて床に落ちる。横倒しになった形で、コンクリートの床にわずかにその跡を残して。一体何kgあるんやあの下駄。いやそんなことよりも。
「今年も俺ら負けるっちゅーことっすか」
右足は下駄で左足は裸足というちぐはぐな状態で普通に歩いて下駄を回収しにいった背中に向けて訊ねる。
床に落ちた下駄がこけているということはそういう意味なのだろう。占いでも予言でもなく只の遊びに過ぎない行為だったが、それでもやはりそういう結果が出ると不愉快なものだ。俺は元々穏やかではない自分の顔が一層険しくなるのを感じた。
苛立ちを隠そうともしない俺に、両足に下駄を履いて戻ってきた先輩は笑みを返す。
「誰も下駄がこけたら負けなんて言うとらんばい」
「はぁ?」
「俺さっきは『下駄がこけたら四天宝寺優勝』って思いながらやったけんね」
やけん今の占いの結果は“四天宝寺優勝”てことな、と千歳先輩は涼しい顔で嘯いた。
卒業して以来一度も姿を見せなかったくせにいきなり現れたと思ったら、まるで未来に行って見てきたかのような迷いのない顔で俺たちが優勝すると告げてくる。本当にわけのわからない人だ。
「……まぁ、先輩なりに激励してくれとるっていうのは一応わかりました。若干詐欺られとる気がせんでもないですけど」
「詐欺て…。信じてくれとらんと?」
「信じる信じんを言う以前に下駄がちゃんと立ったら優勝、て思うでしょ普通」
うちが優勝すると、そう断言してくれるのが心強い気もするしその気持ちはありがたいと思えなくもないが、ありがとうございますと素直に返せずにこうして突っかかってしまう自分は、やはり去年のことを根に持っているのだと思う。この人が手を抜いたわけではないことも、自分が試合に参加していたところでろくに役には立たなかっただろうこともわかってはいるが、それでも。
俺のそんな感情に気付いているのかいないのか、千歳先輩は苦笑しながら言った。
「じゃあ今度は財前の言うとおりに占うことにすったい。そしたら信じてくれっちゃろ?」
飛ばした下駄が表向いて立ったら四天宝寺優勝、こけたら優勝以外な、と言い終わるが早いか、小さく足を振った。
裸足の爪先のすぐ先に下駄が落ちる。カタン、とさっきよりは軽めの、硬質な音がした。
「財前見て、表向いて立っとうよ。やっぱり今年はお前らが優勝で間違いなか」
「ていうか今のただ下駄脱ぎ捨てただけですやん。そんなぬるい飛ばし方で下駄こけるわけないでしょ」
即座に返した俺の言葉に、千歳先輩はあははと呑気に笑う。
「バレたと?やっぱり財前はきびしかねー」
厳しい、なんて言っている割に困っているようには見えない。それもそうだ、こんな嘘っぱち信じるのなんて遠山ぐらいのもんだろう。こんな言葉で俺が喜ぶとかありがたがるとかするなんて初めから思っていなかったに違いない。
先輩がここに来た目的がますます不透明になってきた。
まぁ普通に考えれば大会前だからと様子見ついでに激励しにきたといったところなんだろうということは分かるが、それがどうして占い云々の話になるのかが俺には理解できない。
「俺占いとかは信じませんけど、白石部長や謙也さん、他の先輩らのことはそこそこ信じてます」
俺がアイスを食べるのを見届けたら帰るつもりなんだろう、なんとなくそう思ったので、最後の一口を舐め取った俺は千歳先輩より先に口を開いた。知っとうよ、と穏やかな笑顔で相槌を打たれる。
「占いがどうこうは別としても四天宝寺が勝つことをアンタが望んでくれとることも一応わかりましたし、アンタ以外の先輩らが今年は俺らが優勝するって本気で信じてくれとることも知ってます。…やから、絶対勝ちます」
と、ここまで言ったところで、まっすぐ返される千歳先輩の視線がくすぐったくなった。しかし言い出してしまったものは仕方ないので、目線を手元のアイスの棒に移して続けた。
「……自信はないけど、先輩らが信じてくれとる俺らのことを俺は信じます」
「うん、そんでよかよ。頑張ってな」
我ながら恥ずかしいことを言ってしまったと若干後悔する俺の頭に、千歳先輩の手が伸びてきた。その大きな手は髪に触れる前に一瞬止まり、結局は肩をぽんぽんと叩くだけで終わった。(試合で勝った後なんかに謙也さんとかに頭をくしゃくしゃにされる度に俺が怒っていたことを覚えていたのかもしれない)
ほんなね、と来た時同様マイペースに千歳先輩は部室を去っていく。
俺に背を向ける前の一瞬だけ、先輩の呑気な笑顔の中にほんの少しほっとしたような色が浮かんだのがわかった。
去年のあの試合の後はすぐさま払いのけた千歳先輩の手を、今年の俺は払いのけなかった、そのことの意味に気付いたのだろう。そう思ったから俺は言わなかった。
「あれで案外優しいやつなんや」「うちにおってくれてよかった」「頼りになるやつや」などという風に千歳先輩が評価されていたこと、そしてそれを言っていたのが白石部長や謙也さん、そのほか俺がそれなりに信用しているテニス部の先輩たちであったことを。
↓↓上の1分くらい後。