水の器 鋼の翼3
1.
セキュリティが一体何を考えているのか、レクスには理解できなかった。ただ、彼らに捕まってしまえば何もかもお終いだということだけは分かった。そうなると、兄の願いを叶えるどころか、限りある自由さえなくなってしまう。
ここ、サテライトは隔絶された孤島だ。地理的にも、社会的にも。そんな孤島で一生懸命逃げ回っていても、いつかは捕まる運命だ。
だが、サテライトの東――BARBARIC AREA AFTER DAMAGE(B.A.D.)ならどうか。あの地は、セキュリティの支配も及ばない無法地帯だ。そこに行って身を隠せば、セキュリティの手から逃れることができるかもしれない。
問題は、レクスのいる西側とB.A.D.の境目に横たわる地割れの存在だ。あの地割れは、サテライトを完全に分断する程度の規模を誇っている。一応、吊り橋はあるにはあるが、あの小ささと粗末さではD-ホイールの重量には到底耐えきれないだろう。つまり、橋を渡る際、D-ホイールに乗ることも押して通ることも不可能という訳だ。
かといって、徒歩で逃走を図るのも危険だ。彼らが車両やヘリコプターを持ち出してくれば、あっという間に追いつかれて捕まってしまうのは目に見えている。それに、あの「腕」は容器だけでそれなりの重みがあるのだ。あれを抱えて全速力で走るのは、ちょっと勘弁してもらいたい。
レクスの逃亡計画には、D-ホイールは何より欠かせなかった。
D-ホイールでB.A.D.に逃げ込むとして、どのルートで向かえばいいか。地割れを避け、海上を経由してB.A.D.入りするか。それとも。
「いっそ、私が鳥だったらこんな苦労は……いや、待てよ」
レクスは、携帯端末に保存したD-ホイールの設計図を開いた。原型の設計図に重なるようにして、改良案の図面がいくつか画面に映し出される。その中の一つに、レクスは目を向けた。
それは、今あるD-ホイールの両脇に、変形可能な翼を装備するという案だった。レクスは、図面を眺めてしばし考え込む。
「――これなら、使えるかもしれないな」
レクスが造り上げたモーメントエンジンは、あくまで試作品だ。駆動部分に課題を残していて、このままでは計算通りのスピードを出せない。翼を組み込んだ変形機構は、そんなスピード不足を補うための改良案の一つだった。
モーメントエンジンを未完成のまま置いておくことに、レクスは多少の抵抗を感じていた。造るなら、完璧な形で仕上げてやりたかった。残された数々の問題点についても、追い追い解決するつもりだった。だが、もうそんな悠長なことは言っていられない。一刻も早く、「実用」に耐えるホイールが欲しい。
レクスは、早速D-ホイールの改良を開始した。
それからというもの、レクスはD-ホイールにかかりきりになっていた。持てる力の全ては、ほとんどがD-ホイールの改良に回された。
期間中、レクスが隠れ家から外に出たことは一度としてなかった。日常生活も、寝食すらも、レクスは犠牲にした。
――そうしてできあがったのは、一対の翼を持った一台のD-ホイールだった。
赤銅色に塗装されたそれは、一見しただけではジャンクの寄せ集めだと分からないほどの完成度だ。必要なカードが揃えば、すぐにでもライディング・デュエルを始められるだろう。
シートに腰をかけ、レクスはハンドルのスイッチを押してみる。ぐいんと音を立てて、一対の翼がD-ホイールの両脇に展開した。どうやら、D-ホイールの改良は成功したようだ。
展開した翼の前に膝をつき、さらりと撫でてみる。レクスは満足げに笑った。疲れはとっくの昔にピークに達していたが、それよりもD-ホイールが完成した喜びの方が大きかった。
――これが、私の希望の力だ。
D-ホイールを組み上げたら、今度は逃走ルートの確認が待っていた。
D-ホイールに乗ったまま、あの地割れを跳び越える。それがレクスの計画だった。そのためには、地割れの中で最も幅の狭い位置や、踏み切りのタイミング、そこに至るまでの逃走ルートを検討しなければならない。
密かに走行テストを行って、その都度あの翼の微調整を繰り返す。B.A.D.との境目まで出向いて、どの地点がルートにふさわしいか念入りに下見もした。
壁の落書きは、逃亡の三日前に全てペンキで塗り潰した。レクスが今記憶していることも、そこにあった思いも、全部綺麗に真っ白になった。
この逃亡に成功すれば、B.A.D.に行ける。失敗すれば、セキュリティに捕まって二度と日の目を見られない。どちらにしても、ここに帰ってくることはもうないのだ。
そして、ついにその日はやって来た。
《そこのD-ホイール、即刻停止しろ! ――ええい、停止しろと言ってるのが分からんのか!》
スピーカー越しに、セキュリティ隊員の警告がレクスの耳にまで届く。レクスとしては、停まれと言われても停まるつもりはさらさらない。がなり立てる彼らの声は、穏やかな夜明け前の雰囲気を一気に台無しにした。
レクスの乗るD-ホイールの後を、数台の車が追いかけ回す。レクスは、D-ホイールのアクセルを吹かせて振り切ろうとする。車両より小回りのきくD-ホイールは、セキュリティが追って来れない狭い路地を駆け抜け、セキュリティの目を惑わす。目指すは、B.A.D.の前に横たわるあの地割れだ。
ここに来るまでに、何度も微調整と走行テストを行ってきた。だが、地割れを跳び越えること自体はぶっつけ本番だった。もし失敗すれば、セキュリティに逮捕される以前に、深い地割れに落ちてしまうことだろう。
レクスは、更にD-ホイールのスピードを上げた。レクスの意図を察知したセキュリティが、躍起になって追いすがる。
逃走ルートはここまでで大体合っている。地割れを跳び越える地点もここでいい。後は、このD-ホイールがどこまで跳べるかだ。
赤銅色のD-ホイールの翼が、両脇に展開した。スピードは、このD-ホイールの限界値にまで達している。レクスは、ハンドルをぎゅっと握りしめ、踏み切り地点に到達した。
タイヤが断崖を離れたその瞬間、地平線から夜明けの光が差し込んだ。
D-ホイールは弧を描いて、地割れの間を飛んでいく。あれほどスピードを出していたのに、この瞬間だけ何故か時間が止まったかのようにレクスには思えた。
東の空に昇ってきた太陽が、レクスの姿をまばゆく照らした。彼の心にあったのは、ただ一つの強烈な喜び。
――飛べた! 兄さん、飛べたよ! 飛べたんだ、私は!
計画通り、D-ホイールは向こう岸に無事着地した。遠くにセキュリティの一団を残して。レクスは、後ろを振り向こうともせずに先を急いだ。
「ははははは、あっはははは……っ」
いつしか、レクスの口から高らかな笑い声が漏れていた。
この閉塞したサテライトで、自分は今何ごとかを成し遂げられたのだ。ただそれだけが、愉快だった。
セキュリティが一体何を考えているのか、レクスには理解できなかった。ただ、彼らに捕まってしまえば何もかもお終いだということだけは分かった。そうなると、兄の願いを叶えるどころか、限りある自由さえなくなってしまう。
ここ、サテライトは隔絶された孤島だ。地理的にも、社会的にも。そんな孤島で一生懸命逃げ回っていても、いつかは捕まる運命だ。
だが、サテライトの東――BARBARIC AREA AFTER DAMAGE(B.A.D.)ならどうか。あの地は、セキュリティの支配も及ばない無法地帯だ。そこに行って身を隠せば、セキュリティの手から逃れることができるかもしれない。
問題は、レクスのいる西側とB.A.D.の境目に横たわる地割れの存在だ。あの地割れは、サテライトを完全に分断する程度の規模を誇っている。一応、吊り橋はあるにはあるが、あの小ささと粗末さではD-ホイールの重量には到底耐えきれないだろう。つまり、橋を渡る際、D-ホイールに乗ることも押して通ることも不可能という訳だ。
かといって、徒歩で逃走を図るのも危険だ。彼らが車両やヘリコプターを持ち出してくれば、あっという間に追いつかれて捕まってしまうのは目に見えている。それに、あの「腕」は容器だけでそれなりの重みがあるのだ。あれを抱えて全速力で走るのは、ちょっと勘弁してもらいたい。
レクスの逃亡計画には、D-ホイールは何より欠かせなかった。
D-ホイールでB.A.D.に逃げ込むとして、どのルートで向かえばいいか。地割れを避け、海上を経由してB.A.D.入りするか。それとも。
「いっそ、私が鳥だったらこんな苦労は……いや、待てよ」
レクスは、携帯端末に保存したD-ホイールの設計図を開いた。原型の設計図に重なるようにして、改良案の図面がいくつか画面に映し出される。その中の一つに、レクスは目を向けた。
それは、今あるD-ホイールの両脇に、変形可能な翼を装備するという案だった。レクスは、図面を眺めてしばし考え込む。
「――これなら、使えるかもしれないな」
レクスが造り上げたモーメントエンジンは、あくまで試作品だ。駆動部分に課題を残していて、このままでは計算通りのスピードを出せない。翼を組み込んだ変形機構は、そんなスピード不足を補うための改良案の一つだった。
モーメントエンジンを未完成のまま置いておくことに、レクスは多少の抵抗を感じていた。造るなら、完璧な形で仕上げてやりたかった。残された数々の問題点についても、追い追い解決するつもりだった。だが、もうそんな悠長なことは言っていられない。一刻も早く、「実用」に耐えるホイールが欲しい。
レクスは、早速D-ホイールの改良を開始した。
それからというもの、レクスはD-ホイールにかかりきりになっていた。持てる力の全ては、ほとんどがD-ホイールの改良に回された。
期間中、レクスが隠れ家から外に出たことは一度としてなかった。日常生活も、寝食すらも、レクスは犠牲にした。
――そうしてできあがったのは、一対の翼を持った一台のD-ホイールだった。
赤銅色に塗装されたそれは、一見しただけではジャンクの寄せ集めだと分からないほどの完成度だ。必要なカードが揃えば、すぐにでもライディング・デュエルを始められるだろう。
シートに腰をかけ、レクスはハンドルのスイッチを押してみる。ぐいんと音を立てて、一対の翼がD-ホイールの両脇に展開した。どうやら、D-ホイールの改良は成功したようだ。
展開した翼の前に膝をつき、さらりと撫でてみる。レクスは満足げに笑った。疲れはとっくの昔にピークに達していたが、それよりもD-ホイールが完成した喜びの方が大きかった。
――これが、私の希望の力だ。
D-ホイールを組み上げたら、今度は逃走ルートの確認が待っていた。
D-ホイールに乗ったまま、あの地割れを跳び越える。それがレクスの計画だった。そのためには、地割れの中で最も幅の狭い位置や、踏み切りのタイミング、そこに至るまでの逃走ルートを検討しなければならない。
密かに走行テストを行って、その都度あの翼の微調整を繰り返す。B.A.D.との境目まで出向いて、どの地点がルートにふさわしいか念入りに下見もした。
壁の落書きは、逃亡の三日前に全てペンキで塗り潰した。レクスが今記憶していることも、そこにあった思いも、全部綺麗に真っ白になった。
この逃亡に成功すれば、B.A.D.に行ける。失敗すれば、セキュリティに捕まって二度と日の目を見られない。どちらにしても、ここに帰ってくることはもうないのだ。
そして、ついにその日はやって来た。
《そこのD-ホイール、即刻停止しろ! ――ええい、停止しろと言ってるのが分からんのか!》
スピーカー越しに、セキュリティ隊員の警告がレクスの耳にまで届く。レクスとしては、停まれと言われても停まるつもりはさらさらない。がなり立てる彼らの声は、穏やかな夜明け前の雰囲気を一気に台無しにした。
レクスの乗るD-ホイールの後を、数台の車が追いかけ回す。レクスは、D-ホイールのアクセルを吹かせて振り切ろうとする。車両より小回りのきくD-ホイールは、セキュリティが追って来れない狭い路地を駆け抜け、セキュリティの目を惑わす。目指すは、B.A.D.の前に横たわるあの地割れだ。
ここに来るまでに、何度も微調整と走行テストを行ってきた。だが、地割れを跳び越えること自体はぶっつけ本番だった。もし失敗すれば、セキュリティに逮捕される以前に、深い地割れに落ちてしまうことだろう。
レクスは、更にD-ホイールのスピードを上げた。レクスの意図を察知したセキュリティが、躍起になって追いすがる。
逃走ルートはここまでで大体合っている。地割れを跳び越える地点もここでいい。後は、このD-ホイールがどこまで跳べるかだ。
赤銅色のD-ホイールの翼が、両脇に展開した。スピードは、このD-ホイールの限界値にまで達している。レクスは、ハンドルをぎゅっと握りしめ、踏み切り地点に到達した。
タイヤが断崖を離れたその瞬間、地平線から夜明けの光が差し込んだ。
D-ホイールは弧を描いて、地割れの間を飛んでいく。あれほどスピードを出していたのに、この瞬間だけ何故か時間が止まったかのようにレクスには思えた。
東の空に昇ってきた太陽が、レクスの姿をまばゆく照らした。彼の心にあったのは、ただ一つの強烈な喜び。
――飛べた! 兄さん、飛べたよ! 飛べたんだ、私は!
計画通り、D-ホイールは向こう岸に無事着地した。遠くにセキュリティの一団を残して。レクスは、後ろを振り向こうともせずに先を急いだ。
「ははははは、あっはははは……っ」
いつしか、レクスの口から高らかな笑い声が漏れていた。
この閉塞したサテライトで、自分は今何ごとかを成し遂げられたのだ。ただそれだけが、愉快だった。