水の器 鋼の翼3
2.
数年ぶりに訪れたB.A.D.は、酷く荒んでいた。レクスがいたころとは大違いだ。
レクスは、D-ホイールを押しながら、周りを見渡してみた。
怪しげな酒場の前では、男たちが数人集まって決闘に勤しんでいる。金銭を賭けたものらしく、テーブルにはカードと一緒に札束が山のように積み上げられて、出番を待っていた。
通りの隅っこでは、小さな子どもがぼろ布に包まって眠っている。橙色の髪の毛が、薄汚れたぼろ布の中で異様に目立つ。それが、この子の一層の哀れを誘っていた。
全体的に退廃的な雰囲気が、この廃墟と化した都市を覆っていた。流れを止めてしまった水のように。この嫌な雰囲気は、閉塞した地においては淀んで濁り、何ともしがたい悪臭を放ち続ける。
……レクスは、冷たい目で地べたを見下ろした。そこには、男共が数人、うめき声を挙げながら無様に転がっている。彼らは今しがた、レクスのD-ホイールを狙って襲いかかってきたのだ。このサテライトでは、D-ホイールの完成品はかなりの値が付く。
無傷とは言えないが、とにかく争いには勝利した。唇の端を伝う血を手の甲で乱暴に拭い、レクスはその場を無言で立ち去った。
このD-ホイールには、兄から託された「腕」が積まれている。例え何があっても、誰が相手であろうとも、このD-ホイールを守り通さねばならない。そう、誰を犠牲にしても。
「人でなしか、私は」
自分の目的のために、何かを犠牲にすることを厭わない。躊躇えば、次は自分が誰かの生贄になるだけだ。この地がサテライトと名付けられてから、それは嫌というほど味わってきた。だが、もういい加減心が折れてしまいそうだ。
D-ホイールに乗り、レクスはB.A.D.をさまよった。当て所もなく、気の向くまま。無駄に過ごすだけの時間が、レクスにはあり余るほどにあった。そうして最後に行きついたのは、いつかの工場跡地だった。
古びた船着き場の前には、青緑色の海原が広がっている。青緑色から紺碧のグラデーションを経た先に、ネオドミノシティの街並みが見える。あの、造りかけの白い橋も。
「兄さん。兄さんの願いはいつ叶う……?」
ルドガーはレクスに、シグナーを全員集めろと言い残した。邪神に憑かれながらも、彼が最後に託してくれた希望だ。レクスも、兄の願いをすぐにでも叶えてあげたかった。現実には願いは何一つ叶わず、レクスは生きるだけで精一杯だ。一体いつになったら、自分はサテライトから脱出できるのか。
ここには、レクス以外の人間は誰一人として見当たらなかった。以前の盛況ぶりが嘘のような静けさだ。おかげで、レクスは誰にも邪魔されずシティを眺められる――はずだった。
「おおい!」
レクスの背後から、誰かが呼びかける声がした。少し振り返ってみると、ゴマ髭の男がレクスの方に近づいているのが分かった。レクスは即座にハンドルに手をかける。いつでもこの場から逃げ出せるように。
「あんた、ここで何やってるんだ?」
「……」
「ここには何もないぞ。あんたも物好きな人だな」
レクスは、相手に一瞥をくれたきり、後は海に目を向けるのみでひたすら沈黙を守った。男の方は、レクスの態度に気分を害した様子もなく、一人で勝手に話を続ける。
「昔はあったんだがな。サテライトがサテライトと呼ばれる前の話さ。ここからは、シティがよく見えててな。向こう岸から架けられる橋を、皆で楽しみにしてたものだった。それが今じゃ、この有様だ」
男は、何かをあきらめたような、疲れたような雰囲気を漂わせていた。サテライトの住人のほとんどがまとう、おなじみの雰囲気だった。
「俺たちは、一生ここから出られないんだ。出られないまま、何もかもどんどん腐ってく。許されてるのは、この島で、向こう岸が栄えてくのを眺めることだけ。シティの奴らのために働いて働いて、最後にゃ腐りきって死ぬ運命さ」
男の言葉に、レクスは心の内でそれに同意した。しかし、同時に心の奥底でそれを否定する思いもあった。
「――そうだろうか?」
一つの疑問が、レクスの口をついて出た。
「お?」
レクスの発言に、男もどこか引っかかることがあったのだろう。あきらめきった表情に、少しだけ生気が戻ってきた。しかし、男が気を取り直すとすぐさま元の雰囲気に戻ってしまう。
男は、変な奴だなあ、と言い残していずこかへと去って行った。それを見送ることなく、レクスは海の向こうを眺め続ける。
それからというもの、レクスは毎日のようにこの工場跡にやって来ては、大海原を眺め続けた。正確には、大海原の向こうのシティを。
それが数日を数えるころ。レクスには新たな目標ができていた。