水の器 鋼の翼3
7.
全速力で廃墟の間を駆け抜ける、赤銅色のD-ホイール。その後ろを、セキュリティのパトカーが何台にも連なって追いかけ回している。
騒々しいサイレンがあちらこちらを行きかうのを、B.A.D.の住人は手助けも邪魔もできずに見守るばかりだった。
セキュリティの包囲網は、初めから示し合わせたとしか思えない対応ぶりだった。レクスの逃走する先々で、パトカーの影が見え隠れしていた。
追手を振り切ることができず、身を隠すことさえもできず。最終的に、レクスはダイダロスブリッジの真ん前で追い詰められてしまった。
左右と前方にはセキュリティ。背後には、柵で封鎖されたダイダロスブリッジ。
間違いなく、行き止まりだった。
もしここでセキュリティに捕まれば、自分の存在は闇へと葬られてしまう。「腕」やカードも、価値を知らない者共の手で、取り上げられて捨てられるに違いない。
ここで捕まる訳にはいかない。兄が託してくれた最後の希望を守り抜くためにも。
レクスは、一つの決断を自らに下した。
D-ホイールのエンジンを吹かし、レクスは再び逃走する態勢を整える。セキュリティは、逃がさぬとばかりに包囲網を固めたが、レクスのとった行動は追手たちを驚愕させるものだった。
赤銅色のD-ホイールはくるりと向きを変え、ダイダロスブリッジへと一直線に走った。入口を封鎖している柵を跳ね飛ばし、今だ未完成の橋を勢いよく駆け上がる。D-ホイールの一対の翼が、機械音を立てて展開する。
背後から何事かを叫ぶ声も、橋の傍にたたずむ人々の必死の形相も、レクスにとっては遥か遠くの出来事だ。
ついに、D-ホイールは橋の先端から離れた。彼らはその瞬間、確かに空を飛んでいた。
だが、地球の重力から解放されたのもつかの間、D-ホイールは弧を描いて下へ下へと落ちて行く。前方に、空に高く昇った太陽が見える。
――兄さん……。
力の限り伸ばした手の、その先で。燦々と輝くその光は、レクスの視界を白く焼いた。
穏やかな波が、波打ち際で寄せては返しを繰り返す。
ざらつく砂の感触を頬に感じ、レクスは薄く目を開けた。
かろうじて確保できた視界に映るのは、真っ白い砂浜だけだった。頭を上げる力すらレクスには残っておらず、他には何も見ることができない。ここがどこなのか、シティなのかサテライトなのか、全く見当がつかない。体力を消耗したせいなのか、思考が鈍ってしまっている。
レクスの身体は、腰から下が海水に浸かっていた。たまに来る大きな波が、再びレクスを海に引きずり込もうとする。その度に彼の身体はゆらゆらと揺れて、波が引けば砂の上に取り残される。
――分かってたんだ。本当は。
人は自力では空を飛べない。思い上がれば罰を受け、翼を失って海に落とされる。昔聞いた神話の男そのままに。
科学が発達した現代になって、非科学的な神話を自らの身で再現する羽目になろうとは。本当に愚かだ、とレクスは残り少ない気力で嗤った。
胸の中が、熱を持って限界まで張り詰めていてとても苦しい。その熱が勝手に上へ上へと這い上がり、喉がごぽりと嫌な音を立てた。いつの間にか飲み込んでしまっていた大量の海水を、内側から押し出されるようにして吐く。塩味が舌と喉に絡んで非常に不快だ。
海水をあらかた吐き出し終わって息苦しさは薄らいだが、潮の匂いが、外からも内からも漂っていて気持ちが悪い。
そういえば、「腕」はどうなったのだろう、とレクスは急に不安になった。ダイダロスブリッジから飛んだ後からの記憶が曖昧で、本当に正しいのかどうか自信がない。
ドラゴンのカードはジャケットのポケットの中に入れて、肌身離さず持っていた。「腕」は……沈みゆくD-ホイールに手をかけてからの記憶にノイズがかかっている。
あの「腕」は一体どこにある。レクスは手探りで砂の上を探った。伸ばしたはずの左腕の感触が、全く感じられない。
ダイダロスブリッジは、あの後どうなったのだろう。もしかしたら、サテライト民の反乱の芽を摘むべく、セキュリティに破壊されてしまったのかもしれない。だとしたら、建設に携わっていた仲間たちは、果たして無事なのか。
レクスの視界が、段々と白く霞んでいく。ただでさえ重かった瞼が、安らぎを求めて閉じようとしている。満足に身動きできぬまま、レクスは静かに恐慌した。
これから自分はどうなる。まさか、ここで死ぬというのか。兄の希望の一つもまだ叶えていないのに、道半ばで終わってしまうのか。
死ぬというのか。こんな場所で、たった一人で。誰にも知られることなく。嫌だ。そんなのは嫌だ。
助けて、兄さん。私は、まだ死にたくない。
「……死にたく、ない……」
唇から漏れ出た声は、ほとんどかすれてしまっていて、隙間風のようにひゅうひゅうと鳴っただけだった。
ざくり、と何者かが砂を踏む音がする。レクスは比較的自由の利く眼球だけを動かした。霞む視界の端に、大きな白い人影がレクスのところまで歩み寄って来ていた。
白い人影は、レクスの眼前で立ち止まり、砂地に膝をつく。それはレクス以上に大柄な、白髭の老人だった。
「ふむ。こんなところにまで流されていたか」
金属製のマスク越しから発せられる老人の声音は、低くくぐもっていた。
「――見つけたぞ。レクス・ゴドウィン」
大きな腕がレクスの襟首をつかみ、猫にするのと同じ手つきで軽々と持ち上げた。片側だけ覗く老人の目が、冷たくレクスの顔を見据える。
そこでレクスの意識はぷつりと途切れた。
(END)
2011/6/20