天国北上
ぼくは不完全な死体として生まれ
何十年かかけて完全な死体になるのである 。
泣き顔しか見たことが無かった。
母親は自分を見る度に「堪忍な」と言って、泣いて、抱きしめた。
最初は何で泣くのか解らなかった。
自分は何もされてないのに、何もしていないのに。
それなのにいつだってこの人は泣いた。何度でも泣いた。
いつからか、自分の方が謝るべきだと思うようになった。
わてがおらんかったら、この人はこんなに泣くことなかったんやろな。
学校で習うた。ヒトって水で出来とるんやって。
わて見る度にこの人どんどん無くなってしもうとるんや。悪いことしたなあ。
わてがおらん方が幸せだったんやろなあ。
もっとぎょうさん笑うとったんやろなあ。
そうや、わて、この人笑うとるとこ一度も見たこと無いわ。
わてが死んだら、笑うてくれるかなあ。
見てみたいな。別嬪さんなんやろなあ……。
頬から頬へ、そして唇へ流れてきた涙は
舐めてみると少し熱くて塩辛かった。
喉が干からびて何も言えなかった。
言えなかった。
「お母はん、堪忍な」
言えなかった。
「そんなに泣かんといて。すぐにわて、おらんようになりますから」
何も、言えなかった。
ただその温もりに甘んじることしか出来なかった。
そんな自分が、惨めで、悔しかった。
母親だけじゃない。
豆電球点る薄暗い部屋の中で世界を思い浮かべた時
そこにいる人々全てを自分は掻き乱しているような気がした。
自分がいなくなれば全てがどうにかなりそうな気がした。
何もかも正常に充たされそうな気がした。
「異常なもの」さえ、無くなってしまえば。
「人間は、簡単に死んでしまうんだよ」
いつか誰かがそういっていた。
最初は自分もそう思ってた。
机の中の工作はさみ、それで十分だと思ってた。
無理だった。
ああ、忘れてた。
自分は人間じゃなくて化け物だということを。
水飴みたく蕩けた銀色のピースサインが
まだうっすらと残る己の炎の熱さが
泣きたい位生白い左の手首が
膿んだ擦り傷のように何かを叫ぶ。
「 」
……聞こえない。
生きるということは目隠しで彷徨うこと。
いつかという日を待ち続けること。
濁った惰性に溺れること。
それにくらべれば無愛想な死なんて、どれほど楽だろう。
怖いけど。
死ぬほど怖いけど。
でも死ぬことは怖いだけ。
生きることは曖昧に辛い。
蟻を踏み潰すように、自分を踏み潰す事が出来ればいいのに。
何度も何度もそう思った。
水溜りのアメンボ。
ラムネソーダの炭酸。
いつの間にかそこにあって
いつの間にかいなくなるもの。
消えてしまえ。
それが無理なら死んでしまえ。
さよならとか
また明日とか
そんな幸せそうな言葉はいらないから。
問いかける。
問いかける。
毎日毎日顔を洗うたび
洗面所の曇った鏡の向こうから
自分に良く似た顔の誰かが話しかける。
嫌いな人は誰ですか。
殺してやりたい程憎らしいのは誰ですか。
答えるのは、自分の名前。
身長が伸びて
真っ直ぐに歪んだ妄想が燻った頃
消防車のサイレンの音を聴いた。
『火事は地獄のみちしるべ…』
この体は弱虫です。
自分ひとり殺せません。
あの人達は意気地なしです。
化け物一匹駆除できません。
だけどこの火は
この火は きっと
人込みを泳いで、泳いで、泳いで、赤い波立つ岸辺へ。
どこかで誰かの悲鳴が聞こえた。
何故だか自然と頬が緩んだ。
何も怖くなかった。
涙は出なかった。
ばきん。
ゴールラインを切る音は、柱が墨に変わる音。
……赤色が、好きだった。
苺、人参、ポケットのハンカチ、白兎の目、信号機、夕日、火…。
でも「あか」の絵の具のチューブから出てくる色はいつも1色だった。
それがいつもつまらなかった。
色んな色を混ぜ合わせれば違う「あか」だって作れることぐらい知っていたけど
どうでもいいことだけど、何か大事なことを否定されたような気がしてた。
たった一つのチューブ入り絵の具に。
ここは違う。
否定されたと思ってたものが全部目の前にある。
自分が知っている限りの赤色。
世界中の赤を集めて一面にぶちまけたら、きっとこんな感じなんだろう。
コンマ一秒の光景を永遠に感じた刹那、ゴウという聴き慣れた音が耳を劈いた。
身体の内側から押し倒され、かつては柱だった木の切れ端に強かに腰を打つ。
そして見えたのは、赤色だった。
自分の身体から立ち上った炎が鎌首をもたげ、周囲の炎を飲みこんでいく。
白い腕には小さな火傷すら無い。ただ、擦り傷がある程度だった。
手の中にあった大好きな色の絵の具のチューブ。
捻り出して出てきたのは、ただの平べったい赤色。
決まりきった色。
「う、あ…あ、ぁあ、うわああっ!!!うわああああああああああああ!!!!!!!!!!」
泣きたかった。でも涙が出なかった。
眼球が妙に乾いていた。
涙の代わりに声を吐き出す。ただただただただ吠えて。喉の奥で血の味がする程に。
もう腕より足より頬より、何処よりも瞳の奥が熱かった。
死にたい。そう思っているのに、身体の奥底の何処かで誰かが「死にたくない」と言っている。
内なる声が炎になる。怖いものを、死に至らしめるものを全部焼き尽くす。
そんなんじゃない。自分が望んでいるのはそんなことじゃない。
この火は、この火は、この火は!!この火は…………!!
涙が身体の奥底の方へ、ぽたりぽたりと落ちていく。
それが苦しくて焼け焦げた床を叩けばいつか手には血が滲み始めた。
じわり、じわり、赤色に染まっていく。
砕けたおはじきみたいに、キラキラと手の平から零れて消えて。
流れ出ているのは血では無く、叶えようのない願い事。
死にたい。生きたい。生きていたい。死にたくない。
殴られてもいい、泣かれてもいい、悪口言われても、無視されても、いい、から
どうにかしてください。どうかなってしまう前に。
もう、うんざりだ。
いつか自分の火も消えて赤色が目の前から消えた瞬間、現実が押し寄せてきた。
声。自分に向けられた声、自分の身体を持ち上げる腕、救急車のサイレン。
火事は終わった。でも胸中ではまだ何かが燻り続けていた。
誰にも見つけて貰えないまま。
ゴミ箱に捨ててあったそれを見つけたのは、それからどれくらい後のことだっただろう。
一ヶ月前、京都で迎える最後の立春の頃だ。
消印は母方の祖父母の住んでる町。
ぐしゃぐしゃに丸められて放りこまれたそれは、宝の地図みたいに見えた。
封筒に透かし込まれた六角星とGの組み合わさったマーク。
よくニュースや新聞でも見かけるやつだ。
ゴミ箱から拾い上げ、封を切り、恐る恐る中に入っていた書類に目を通す。
文面は難しい漢字ばかりで、意味が解らない所も沢山ある。
それでも解ることはちゃんとあった。
この書類があのガンマ団への入団申請書だということ。
ガンマ団は殺し屋集団であるということ。
彼らの生きる場所は戦場だということ。
そこは死にとても近い場所だということ。
それだけ解れば充分だった。
必要最小限の荷物と件の書類と僅かなお金を持って家の門を開けた時
目の前の通学路には梅の花の香りが微かに漂い始めていた。
何十年かかけて完全な死体になるのである 。
泣き顔しか見たことが無かった。
母親は自分を見る度に「堪忍な」と言って、泣いて、抱きしめた。
最初は何で泣くのか解らなかった。
自分は何もされてないのに、何もしていないのに。
それなのにいつだってこの人は泣いた。何度でも泣いた。
いつからか、自分の方が謝るべきだと思うようになった。
わてがおらんかったら、この人はこんなに泣くことなかったんやろな。
学校で習うた。ヒトって水で出来とるんやって。
わて見る度にこの人どんどん無くなってしもうとるんや。悪いことしたなあ。
わてがおらん方が幸せだったんやろなあ。
もっとぎょうさん笑うとったんやろなあ。
そうや、わて、この人笑うとるとこ一度も見たこと無いわ。
わてが死んだら、笑うてくれるかなあ。
見てみたいな。別嬪さんなんやろなあ……。
頬から頬へ、そして唇へ流れてきた涙は
舐めてみると少し熱くて塩辛かった。
喉が干からびて何も言えなかった。
言えなかった。
「お母はん、堪忍な」
言えなかった。
「そんなに泣かんといて。すぐにわて、おらんようになりますから」
何も、言えなかった。
ただその温もりに甘んじることしか出来なかった。
そんな自分が、惨めで、悔しかった。
母親だけじゃない。
豆電球点る薄暗い部屋の中で世界を思い浮かべた時
そこにいる人々全てを自分は掻き乱しているような気がした。
自分がいなくなれば全てがどうにかなりそうな気がした。
何もかも正常に充たされそうな気がした。
「異常なもの」さえ、無くなってしまえば。
「人間は、簡単に死んでしまうんだよ」
いつか誰かがそういっていた。
最初は自分もそう思ってた。
机の中の工作はさみ、それで十分だと思ってた。
無理だった。
ああ、忘れてた。
自分は人間じゃなくて化け物だということを。
水飴みたく蕩けた銀色のピースサインが
まだうっすらと残る己の炎の熱さが
泣きたい位生白い左の手首が
膿んだ擦り傷のように何かを叫ぶ。
「 」
……聞こえない。
生きるということは目隠しで彷徨うこと。
いつかという日を待ち続けること。
濁った惰性に溺れること。
それにくらべれば無愛想な死なんて、どれほど楽だろう。
怖いけど。
死ぬほど怖いけど。
でも死ぬことは怖いだけ。
生きることは曖昧に辛い。
蟻を踏み潰すように、自分を踏み潰す事が出来ればいいのに。
何度も何度もそう思った。
水溜りのアメンボ。
ラムネソーダの炭酸。
いつの間にかそこにあって
いつの間にかいなくなるもの。
消えてしまえ。
それが無理なら死んでしまえ。
さよならとか
また明日とか
そんな幸せそうな言葉はいらないから。
問いかける。
問いかける。
毎日毎日顔を洗うたび
洗面所の曇った鏡の向こうから
自分に良く似た顔の誰かが話しかける。
嫌いな人は誰ですか。
殺してやりたい程憎らしいのは誰ですか。
答えるのは、自分の名前。
身長が伸びて
真っ直ぐに歪んだ妄想が燻った頃
消防車のサイレンの音を聴いた。
『火事は地獄のみちしるべ…』
この体は弱虫です。
自分ひとり殺せません。
あの人達は意気地なしです。
化け物一匹駆除できません。
だけどこの火は
この火は きっと
人込みを泳いで、泳いで、泳いで、赤い波立つ岸辺へ。
どこかで誰かの悲鳴が聞こえた。
何故だか自然と頬が緩んだ。
何も怖くなかった。
涙は出なかった。
ばきん。
ゴールラインを切る音は、柱が墨に変わる音。
……赤色が、好きだった。
苺、人参、ポケットのハンカチ、白兎の目、信号機、夕日、火…。
でも「あか」の絵の具のチューブから出てくる色はいつも1色だった。
それがいつもつまらなかった。
色んな色を混ぜ合わせれば違う「あか」だって作れることぐらい知っていたけど
どうでもいいことだけど、何か大事なことを否定されたような気がしてた。
たった一つのチューブ入り絵の具に。
ここは違う。
否定されたと思ってたものが全部目の前にある。
自分が知っている限りの赤色。
世界中の赤を集めて一面にぶちまけたら、きっとこんな感じなんだろう。
コンマ一秒の光景を永遠に感じた刹那、ゴウという聴き慣れた音が耳を劈いた。
身体の内側から押し倒され、かつては柱だった木の切れ端に強かに腰を打つ。
そして見えたのは、赤色だった。
自分の身体から立ち上った炎が鎌首をもたげ、周囲の炎を飲みこんでいく。
白い腕には小さな火傷すら無い。ただ、擦り傷がある程度だった。
手の中にあった大好きな色の絵の具のチューブ。
捻り出して出てきたのは、ただの平べったい赤色。
決まりきった色。
「う、あ…あ、ぁあ、うわああっ!!!うわああああああああああああ!!!!!!!!!!」
泣きたかった。でも涙が出なかった。
眼球が妙に乾いていた。
涙の代わりに声を吐き出す。ただただただただ吠えて。喉の奥で血の味がする程に。
もう腕より足より頬より、何処よりも瞳の奥が熱かった。
死にたい。そう思っているのに、身体の奥底の何処かで誰かが「死にたくない」と言っている。
内なる声が炎になる。怖いものを、死に至らしめるものを全部焼き尽くす。
そんなんじゃない。自分が望んでいるのはそんなことじゃない。
この火は、この火は、この火は!!この火は…………!!
涙が身体の奥底の方へ、ぽたりぽたりと落ちていく。
それが苦しくて焼け焦げた床を叩けばいつか手には血が滲み始めた。
じわり、じわり、赤色に染まっていく。
砕けたおはじきみたいに、キラキラと手の平から零れて消えて。
流れ出ているのは血では無く、叶えようのない願い事。
死にたい。生きたい。生きていたい。死にたくない。
殴られてもいい、泣かれてもいい、悪口言われても、無視されても、いい、から
どうにかしてください。どうかなってしまう前に。
もう、うんざりだ。
いつか自分の火も消えて赤色が目の前から消えた瞬間、現実が押し寄せてきた。
声。自分に向けられた声、自分の身体を持ち上げる腕、救急車のサイレン。
火事は終わった。でも胸中ではまだ何かが燻り続けていた。
誰にも見つけて貰えないまま。
ゴミ箱に捨ててあったそれを見つけたのは、それからどれくらい後のことだっただろう。
一ヶ月前、京都で迎える最後の立春の頃だ。
消印は母方の祖父母の住んでる町。
ぐしゃぐしゃに丸められて放りこまれたそれは、宝の地図みたいに見えた。
封筒に透かし込まれた六角星とGの組み合わさったマーク。
よくニュースや新聞でも見かけるやつだ。
ゴミ箱から拾い上げ、封を切り、恐る恐る中に入っていた書類に目を通す。
文面は難しい漢字ばかりで、意味が解らない所も沢山ある。
それでも解ることはちゃんとあった。
この書類があのガンマ団への入団申請書だということ。
ガンマ団は殺し屋集団であるということ。
彼らの生きる場所は戦場だということ。
そこは死にとても近い場所だということ。
それだけ解れば充分だった。
必要最小限の荷物と件の書類と僅かなお金を持って家の門を開けた時
目の前の通学路には梅の花の香りが微かに漂い始めていた。