All You Need is Peace
白いパイプに詰めた煙草に火がつくと、甘い煙があがった。
館の主人と二人きりで向かい合い、そんなことに慣れない彼女は緊張した様子で切り出した。
「私ってすごく平凡なんです」
髪を包む淡い色のスカーフと薄い肩が少し震えている。
灯りといっては古風なランプと蝋燭がいくつか燃えているきりで、部屋は薄暗い。
巧緻な彫刻が艶光りする木の椅子でパイプをふかしている主人は、両膝の上にそれぞれ腕をおいて前屈みに彼女を眺めている。閉め切った広い部屋に流れている煙と影が表情を隠しているが、整った目鼻立ちがうかがわれた。
応えはない。上目遣いにちらりと主人を見やった後、彼女は続けた。
「学校にいても、どこにいても、私っていつも、どこにでもいる普通の子なんです。みんなと変わらない。あんまりにも、ありきたりで、月並みで、平均で、一山いくらで、その他大勢なんです。誰とだって交代できると思います。それぐらい平凡なんです。簡単に埋もれてしまいます。恐いぐらいの普通さなんです。みんなといっしょ。だけど、一人でいるのも無理」
だんだんと早口になってくる。彼女の舌は止まらなくなってくる。
それを聞く主人は黙ったままで、頷きもしない。パイプ煙草をふかしながら、小鳥のさえずりを聞くように、やや甲高い彼女の声をただ聞いている。
「でも、そう思って、そんなことを怖がってる自分が、もしかして特別に臆病なんじゃないかって。それか、ひょっとして特別に過敏なんじゃないかって。そんなのが私の個性なんでしょうか? でも、もしかしたら自分が特別かもって思うと、ちょっと嬉しくなったりするんです。臆病なことなんか、ちっとも良いことなんかじゃないのに。そんなこと考える自分が、やっぱりちょっと恐くなるんです」
堰を切ったように一気に吐き出し、思っていたよりも長々と、しかも易々としゃべってしまった自分に気づいた彼女は、椅子の上で縮こまった。もしかしたら相手を怒らせたかもしれない、そんな不安を瑞々しい素肌の頬に浮かべて、主人を見つめる。
「このパイプはまだ新しすぎる」
ほっそりと白い、まっすぐな吸い口を手の中でひねくり回しながら、穏やかに主人は言った。低く滑らかな声はそれだけで彼女を落ち着かせる。目の高さに持ち上げて見せられると、自然と彼女の目は白いパイプとかすかな煙、そしてその向こうの主人の目に吸い寄せられる。この部屋の灯りと同じような、薄い色をしている。
「このミアシャムという石のパイプはな、お嬢さん。古くなるとヤニが染みて色がついてくる。それは美しいものだが、人間はそうはいかないな。ところで」
ランプの火を斜めにうけて、にっこりと笑った金色の睫毛が彼女の目に鮮やかに映った。
「あなたが怖がっているものの正体をみせてあげよう」
主人は立ち上がり、音もなく彼女に歩み寄った。
ぱちんとカッターの音をさせて吸い口を切り、主人は葉巻を蝋燭であぶった。時間をかけて炭化させ点火する間、センタープレスのパンツの皺や濃い青のスカーフ、腕時計をいじっていた彼女は、意を決して語り始めた。
「あと数年、暮していけるだけのものは持っています」
主人のくゆらすシガーの濃密な煙がたちこめる。きつい香りに、彼女はかっきりと描いた眉をしかめたが、独白に集中していたのでそれについては何も言わなかった。
テーブルの向こうで柔らかいソファに沈んだ主人はシガーを手に、ゆったりと脚を組んでその硬い表情を眺めている。蝋燭の火と濃い煙の投げかける影が、その白い肌に模様を作っていた。
礼儀も常識もわきまえた気丈な口調でいながら、彼女は少しずつ、自分でも思いもよらないほど気持ちを高ぶらせていく。
「でも結婚も近いんです。私達の習慣では夫になる人がすべてを用意することになっていますが、私自身のためにも彼のためにも、もうすこし蓄えがほしいんです。私達の年齢でこれ以上の財産なんて不相応とお思いかもしれませんが、あって困るものではありません。お金がないと不安になります。結婚相手も豊かな妻の方が魅力的でしょう」
凝った巻き方できちんと結ばれたスカーフは小さなブローチで止められている。モダンなデザインの、ガラスビーズのブローチだった。
自分の膝を見据えて、冷静でいようと努めながらも彼女は言いつのった。
「幸いに私も彼も働いています。収入もかなりあります。蓄えは増えています。でも、どうしてか不安がなくならないんです。落ち着きません。どうしても大丈夫とは思えません。夫の将来も堅実に思えます。でも、なんだか心細くて神経質になります。もう、お金はあるのに」
終わりの方は涙声になりかかっている。彼女はハンカチを取り出し、なぜか取り乱してしまったことを彼女らしくもない不明瞭な言葉で小さく詫びた。
そんな様子を、主人はただ眺めている。目を細め、軽くシガーを吸い、静かに言った。
「一本いかがですか? お嫌いでなければですが」
まるで重役にでも勧めるように丁重に、主人は彼女に向かってシガーのケースを押しやった。
「ご夫君は幸運な方ですな。男として、美しくしっかり者の伴侶に勝るものはない。その上あなたはさらに将来を案じていらっしゃる。お二人の将来をね」
ねぎらい慰め、さらに肯定する言葉を与えられ、彼女は体がほっと弛緩するのを感じた。自覚のないままに、拳をきつく握りしめていた。
同情を表す柔らかな微笑をたたえて、主人は囁く。
「あなたが怖がっているものの正体をみせてあげよう」
いつのまにか主人がほんの目前に立っているのに、彼女は気づいた。
黒いチャドルに頭からすっぽり覆われた彼女は、低い単調な調子で話し出した。
「死ぬことが恐いのです」
時折のぞく指には、きれいに磨いた爪と宝石の指輪がいくつか光っている。耳元からは軽やかな金属の触れあう気配がした。
常日頃、心の底にこびりついた恐れを語ってはいるのだが、彼女は淡々としている。あまりにも思い続けているために、かえって無感動になってしまったのかもしれない。
朗読のように冷静に、彼女は言葉を継いだ。
「今のこの私が、突然に終わるかもしれません。徐々に止まるのかもしれません。暗いんでしょうか? 苦しいんでしょうか? 家族にも会えず、孤独に死ぬのかもしれません。とても恐いんです」
床に敷いた分厚い絨毯に積み上げた幾つもの絹のクッションの中心で、仏陀のように脚を組んで座った主人は大きな水パイプをふかしていた。香料の入った水を通り抜ける煙が、ひっそりと音をたてている。その香りは、彼女が長年親しんだ夫の吸う煙草にどことなく似ていた。
夫を思い出すと、もう一つの恐怖が頭をもたげる。彼女はやはり淡々と、それを語った。自分の声を聞きながら、この声もずいぶんとしゃがれてきた、昔は小鳥のようだったのに、と思っていた。
「いくら生きたいと願っていても、やはり生きることも恐いのです。この先に無限の時間があるかと思うと、その途方もなさに押し潰されそうになるのです。私はずっと生活して、私が生きるのをやめても、やめなくても、私の子供達が生きていくでしょう。生きていくって、恐いことです。いつ終わるのでしょう? ほんとうはどんなことなのでしょう? 」
館の主人と二人きりで向かい合い、そんなことに慣れない彼女は緊張した様子で切り出した。
「私ってすごく平凡なんです」
髪を包む淡い色のスカーフと薄い肩が少し震えている。
灯りといっては古風なランプと蝋燭がいくつか燃えているきりで、部屋は薄暗い。
巧緻な彫刻が艶光りする木の椅子でパイプをふかしている主人は、両膝の上にそれぞれ腕をおいて前屈みに彼女を眺めている。閉め切った広い部屋に流れている煙と影が表情を隠しているが、整った目鼻立ちがうかがわれた。
応えはない。上目遣いにちらりと主人を見やった後、彼女は続けた。
「学校にいても、どこにいても、私っていつも、どこにでもいる普通の子なんです。みんなと変わらない。あんまりにも、ありきたりで、月並みで、平均で、一山いくらで、その他大勢なんです。誰とだって交代できると思います。それぐらい平凡なんです。簡単に埋もれてしまいます。恐いぐらいの普通さなんです。みんなといっしょ。だけど、一人でいるのも無理」
だんだんと早口になってくる。彼女の舌は止まらなくなってくる。
それを聞く主人は黙ったままで、頷きもしない。パイプ煙草をふかしながら、小鳥のさえずりを聞くように、やや甲高い彼女の声をただ聞いている。
「でも、そう思って、そんなことを怖がってる自分が、もしかして特別に臆病なんじゃないかって。それか、ひょっとして特別に過敏なんじゃないかって。そんなのが私の個性なんでしょうか? でも、もしかしたら自分が特別かもって思うと、ちょっと嬉しくなったりするんです。臆病なことなんか、ちっとも良いことなんかじゃないのに。そんなこと考える自分が、やっぱりちょっと恐くなるんです」
堰を切ったように一気に吐き出し、思っていたよりも長々と、しかも易々としゃべってしまった自分に気づいた彼女は、椅子の上で縮こまった。もしかしたら相手を怒らせたかもしれない、そんな不安を瑞々しい素肌の頬に浮かべて、主人を見つめる。
「このパイプはまだ新しすぎる」
ほっそりと白い、まっすぐな吸い口を手の中でひねくり回しながら、穏やかに主人は言った。低く滑らかな声はそれだけで彼女を落ち着かせる。目の高さに持ち上げて見せられると、自然と彼女の目は白いパイプとかすかな煙、そしてその向こうの主人の目に吸い寄せられる。この部屋の灯りと同じような、薄い色をしている。
「このミアシャムという石のパイプはな、お嬢さん。古くなるとヤニが染みて色がついてくる。それは美しいものだが、人間はそうはいかないな。ところで」
ランプの火を斜めにうけて、にっこりと笑った金色の睫毛が彼女の目に鮮やかに映った。
「あなたが怖がっているものの正体をみせてあげよう」
主人は立ち上がり、音もなく彼女に歩み寄った。
ぱちんとカッターの音をさせて吸い口を切り、主人は葉巻を蝋燭であぶった。時間をかけて炭化させ点火する間、センタープレスのパンツの皺や濃い青のスカーフ、腕時計をいじっていた彼女は、意を決して語り始めた。
「あと数年、暮していけるだけのものは持っています」
主人のくゆらすシガーの濃密な煙がたちこめる。きつい香りに、彼女はかっきりと描いた眉をしかめたが、独白に集中していたのでそれについては何も言わなかった。
テーブルの向こうで柔らかいソファに沈んだ主人はシガーを手に、ゆったりと脚を組んでその硬い表情を眺めている。蝋燭の火と濃い煙の投げかける影が、その白い肌に模様を作っていた。
礼儀も常識もわきまえた気丈な口調でいながら、彼女は少しずつ、自分でも思いもよらないほど気持ちを高ぶらせていく。
「でも結婚も近いんです。私達の習慣では夫になる人がすべてを用意することになっていますが、私自身のためにも彼のためにも、もうすこし蓄えがほしいんです。私達の年齢でこれ以上の財産なんて不相応とお思いかもしれませんが、あって困るものではありません。お金がないと不安になります。結婚相手も豊かな妻の方が魅力的でしょう」
凝った巻き方できちんと結ばれたスカーフは小さなブローチで止められている。モダンなデザインの、ガラスビーズのブローチだった。
自分の膝を見据えて、冷静でいようと努めながらも彼女は言いつのった。
「幸いに私も彼も働いています。収入もかなりあります。蓄えは増えています。でも、どうしてか不安がなくならないんです。落ち着きません。どうしても大丈夫とは思えません。夫の将来も堅実に思えます。でも、なんだか心細くて神経質になります。もう、お金はあるのに」
終わりの方は涙声になりかかっている。彼女はハンカチを取り出し、なぜか取り乱してしまったことを彼女らしくもない不明瞭な言葉で小さく詫びた。
そんな様子を、主人はただ眺めている。目を細め、軽くシガーを吸い、静かに言った。
「一本いかがですか? お嫌いでなければですが」
まるで重役にでも勧めるように丁重に、主人は彼女に向かってシガーのケースを押しやった。
「ご夫君は幸運な方ですな。男として、美しくしっかり者の伴侶に勝るものはない。その上あなたはさらに将来を案じていらっしゃる。お二人の将来をね」
ねぎらい慰め、さらに肯定する言葉を与えられ、彼女は体がほっと弛緩するのを感じた。自覚のないままに、拳をきつく握りしめていた。
同情を表す柔らかな微笑をたたえて、主人は囁く。
「あなたが怖がっているものの正体をみせてあげよう」
いつのまにか主人がほんの目前に立っているのに、彼女は気づいた。
黒いチャドルに頭からすっぽり覆われた彼女は、低い単調な調子で話し出した。
「死ぬことが恐いのです」
時折のぞく指には、きれいに磨いた爪と宝石の指輪がいくつか光っている。耳元からは軽やかな金属の触れあう気配がした。
常日頃、心の底にこびりついた恐れを語ってはいるのだが、彼女は淡々としている。あまりにも思い続けているために、かえって無感動になってしまったのかもしれない。
朗読のように冷静に、彼女は言葉を継いだ。
「今のこの私が、突然に終わるかもしれません。徐々に止まるのかもしれません。暗いんでしょうか? 苦しいんでしょうか? 家族にも会えず、孤独に死ぬのかもしれません。とても恐いんです」
床に敷いた分厚い絨毯に積み上げた幾つもの絹のクッションの中心で、仏陀のように脚を組んで座った主人は大きな水パイプをふかしていた。香料の入った水を通り抜ける煙が、ひっそりと音をたてている。その香りは、彼女が長年親しんだ夫の吸う煙草にどことなく似ていた。
夫を思い出すと、もう一つの恐怖が頭をもたげる。彼女はやはり淡々と、それを語った。自分の声を聞きながら、この声もずいぶんとしゃがれてきた、昔は小鳥のようだったのに、と思っていた。
「いくら生きたいと願っていても、やはり生きることも恐いのです。この先に無限の時間があるかと思うと、その途方もなさに押し潰されそうになるのです。私はずっと生活して、私が生きるのをやめても、やめなくても、私の子供達が生きていくでしょう。生きていくって、恐いことです。いつ終わるのでしょう? ほんとうはどんなことなのでしょう? 」
作品名:All You Need is Peace 作家名:塚原