All You Need is Peace
乾いた目で、彼女は主人を凝視した。まだそれほどの年齢とも思えないのに、目元にはやつれた様子があり、肌は潤いに欠けている。
平然として、主人はその硬直した視線を受け止めていた。長く伸びている煙管を吸うと、ガラス瓶の中に満たされた水の中を泡になった煙が通る。そうでなくても不安定に揺れる光源が、その動きによってさらに揺れる陰影を作った。決して陽の差さないこの部屋には、いつの時間帯でも黄昏時のような薄闇だけがある。
「あなたは勇敢な方だ」
彼女を迎え入れ、その心に寄り添うおうとするように主人は少しだけ首を傾け、わずかに腕を広げて見せた。彼女の見たことのない返答だった。
「あなたの恐れは、人というもの全てが抱えているものです。だが、大抵の者はそれを直視しない。恐いからです。それは何か、どんなものか?」
凝視を続けている彼女に真摯な共感を示して語りかけた。まったく真摯な態度だった。
「あなたは見定めて確かめようとする。だから勇敢な方だと申し上げました。だから、さあ」
主人は言葉を切り煙管を置いた。彼女はなぜか胸の内に忍び込まれるような感覚を味わった。どこにも、触れてもいないというのに。
「あなたが怖がっているものの正体をみせてあげよう」
主人は悠然としてゆっくりと、その白い手を差し出した。
そしてそれまでに何人もの相手に言ったように、やさしく促した。
「さあ、この手に触れてごらんなさい」
彼女達は、おずおずと指をさしだした。震えている指も、途中で止まる指もあった。それでも一人残らず彼女達は、指を伸ばして主人の手に触れた。それは熱くもなく冷たくもなく、乾いて硬かった。触れた途端、彼女達の指は強い力に捕まった。硬い手に捕まれ引き寄せられた彼女達はその一瞬いろいろな表情を浮かべ、初めて間近に主人の顔を見た。
そして見つめ合う瞬間にその目が何の感情をも表していない事に気づいたのを最後に、彼女達は意識と生命を失った。
「死とは巨大な未知ですな」
DIOは静かにつぶやいて血の抜けた女を放りだし、満足げな舌なめずりをした。
首筋に大穴を空けられた女達の死骸を片づけ終わって、ホル・ホースは一息ついた。担ぎ出して日光の当たる場所に置いてさえおけばいいのだから楽といえば楽だが、死んだ人間というのは重く感じられるものだ。そのせいもあって、報告ついでに皮肉めいた愚痴が口をついて出た。
「ぜんぶ捨ててきましたがね。気の毒っちゃあ、気の毒ですよ。思わせぶりに話きいてもらっても、結局みんな同じ死に様ですからねえ」
いかにも胸が痛む風に腕を広げて首を振って見せると、死臭と血の匂いをシャワーで洗い流して来たDIOは頭から被ったタオルで髪を拭きながら、さらに皮肉に笑って問い返した。
「おまえは人を殺すとき、希望を聞くのか? 絞め殺されたいか、刺し殺されたいか、と?」
「さあ、相手と場合によっちゃあ聞くかも知れませんなぁ。たいがいは撃ち殺すんですが」
「サディストめ」
「ご自分はどうなんです」
「見たとおりだ」
タオルを首に掛け、天井に向かって大きく息を吐いた。殺したことがサディスティックだと言いたいのか、聞かないのが違うところだと言いたいのか、その仕草からだけでは判らなかった。もちろん、どっちでもいい。ホル・ホースはまた首を振った。
「罪なお方だ」
「今さら少々のことは気にならない。おまえはどうだ? 罪の深さは?」
ちょっと考えてはみたが、かえりみるまでもなく彼の中にはそんなものの尺度は存在しなかった。
「……気にゃあしませんなぁ」
「そうだろう。おまえも私も、十分に罪深い」
ポケットからしわくちゃのラッキーストライクをひっぱりだしたホル・ホースを指で招いて、DIOは一本をねだった。ライターのオイルの匂いに眉をしかめながらも火をつけさせ、胸一杯に吸って、盛大に煙を吐く。裸の胸には、だいぶ本来の肉付きが戻ってきている。あと何人の血を吸ったら百年分のエネルギーを補充できるのかは判らないが、たとえ完全に回復したところでその貪欲さには変わりがない。
煙の行方を見守りつつ、DIOは少しぼんやりしているようだ。
「なに、連中は知らんものが恐いのさ。だから知らないすべてが恐いのさ。死は巨大な未知だ。だから教えてやって、恐いものをなくしてやったんだ」
かちんと小気味のいい音をさせてライターを閉じたホル・ホースが、自分も煙を吐き出して、いたずらっぽく指摘した。
「恐いもの見たさってのもありますぜ」
「同じだな。知らないものが恐いから、見て知ってしまおうと思う。恐いものはさっさとなくしてしまいたいのさ」
そして目の前にかざした紙巻き煙草の燃えるさまをしげしげと眺めながら、
「サルの頃から、同じことだ。集団でいなければ死んでしまう。集団から選ばれなければ子もないまま死んでしまう。食わなければ死ぬ。抱え込めば死ぬ。力が尽きれば死ぬ。死は未来であって未知だ。死んでみることはできない。だから恐いのさ」
「そんなもんですかね」
「そうさ」
納得しかねるらしいホル・ホースをよそに、DIOの目は壁際にさまよっていった。
「生きている限り他人は完全な未知だ。生きていようが死んでいようが自分が自分自身を理解することはない。忘却と無意識と、それから眠りがなければ人間なんぞ簡単におかしくなる。そうなれば、それこそ永遠の謎だ」
さまよう視線は、一点で止まった。そこには大きな姿見が掛けられている。今は薄暗い背景の中、DIOの全身を映していた。紫煙にまとわりつかれた長身が逞しい上半身を露わにしている。記憶の中にある自身の肉体とは違う重量感のある筋肉が影を刻んでいる。血のあとを拭いとったタオルの下には星形の痣が貼りついている。
「最大の未知は、もう手に入れた」
彼自身にも聞こえるか聞こえないか、そんな小さな声でつぶやいたとき、DIOの右の指先は深々とえぐれた首の傷跡を撫でていた。
ホル・ホースは咥え煙草で背を向けている。外見の印象より細心で賢いこの男は、内心を悟らせない。
二人ともしばらく黙ったまま、ラッキーストライクをふかしていた。
「ほんとに恐怖ってもんがなくなっちまったら」
ホル・ホースがぽつりと言った。質問の体裁をとってはいるが、解答は期待していない。
「あの子らはどうなったんでしょうかね」
DIOの応えも短かった。
「……さあな」
ほとんど意味のないやりとりであったことにホル・ホースは気づいた。だからわざと大きく苦笑して、明るく言った。
「ま、なくなるなんてことはないんでしょうが」
「ああ、それは難しくない」
意外にも、DIOはくるりと振り向いて指を振って見せた。浮かべたその笑顔は華やかで美しく、毎晩多くの女達が館に迷い込んでくるのも無理はないと思われた。ただし、どこかに冷たさと暗さをも感じさせる。
DIOは笑い顔を作ったまま、朗らかに言い放った。
「人間をやめればいいんだ」
作品名:All You Need is Peace 作家名:塚原