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とある悪魔の胸の内

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もしかして、もしかすると、人間に恋をしてしまったかもしれない。
 そう告げれば、魔界の仲間達は口を揃えて言った。

 なんと愚かな事を言うのか、と。
 あんな下等な生き物に恋? 頭は大丈夫か? と。

 ある者は人間の事を餌と言い、またある者は人間の事を家畜と言う。
 その辺に関しては、否定はしない。
 彼等の欲望は悪魔のそれより幅広く、濃く、淀んでいる。
 だからこそ、美味であるし、餌となり得る。
 付き合いの長い淫奔の悪魔などは、時折人間の女を浚って来ては魔界で飼い馴らし、
余り大きな声で言うのも憚られるような行為を強いているが、それは人間が本来持つ欲
や性、精が悪魔の餌になるからだ。
 我々にとっては、欲望は食事と同じだ。
 だから勿論、かの悪魔を批難などするつもりはない。

 人間はそもそも、悪魔に囚われる事を望むような種族なのだ。
 古来より、我々悪魔の力を欲し、縋ってきた。
(我々は闇の世界に生きてはいるが、人間にとっては神と呼ばれる存在達と同じような
ものだ。実際に力もある。根底にあるのが憧憬であれ畏怖であれ、求められている事に
は違いないだろう? 神と人間よりは、悪魔と人間の方が余程良い共存関係にあると思
えるが、どうだろう)
 そしてそういう、神が振り向かなければ闇にでも身を任せる、愚かで、浅はかで、嘆か
わしい生き物である人間を嬲りたい気持ちも存分にありつつ、愛おしいと思える事もある
のだ。我々には。
 気に入った人間に対して、気紛れに力を貸してやることも、やぶさかではない。

 ……やがて、芽生えた愛おしさがそのまま、恋に至る事も、あるという話だ。

 けれども、そこにはやはり越えられない壁がある。
 仲間は言う。

「気に入っても、あいつらは、俺達よりずっと早く死ぬよ。忘れられるなら、いいけどね」
「しょうがないじゃないか、元より種族が違うんだから。あれらは弱い」

 そうなのだ。
 人間と悪魔は、種族も違えば、寿命も違う。

「人間なんかやめとけって。どうせ一方的に愛したって、受け入れられないんだからさ」

 そうなのだ。
 幾ら私が相手を想ってみても、受け入れられないに違いないのだ。

 ただでさえ、私は、まあ、その。
 特殊な食的嗜好を持っている訳で。
 最近気になってしょうがない人間の女は、それを嫌がっている。
 人間のみならず、魔界でも同じ嗜好の者が少ないのだからしょうがない所ではあるが、
やはり食事の後に距離を置かれるのは切ない。
 食事について嫌悪の表情を見せられるのも、辛い。
(私にとっては最高の食材なのだ、あれらは)
 悪魔だとて、愛しいと思う気持ちも、悲哀の情も切なさも、心に備えているのだ。
 人間ほど些末な事にまで反応しないというだけで。
 そんな繊細な部類の悪魔な私だから、彼女にあからさまに嫌な顔をされると心が痛む。
 だから、彼女に呼ばれる時には、事前に、どのような臭いも消していく事にした。
 食事の後の、残り香まで堪能するのが、私の日常だったというのに。

 一度呼びだされてからというもの、本当に役に立たない淫奔の悪魔の替わりにと呼び
だされる事も増えて。
 最後にはあの狭苦しい小さな部屋に、日常的に入り浸るようになった。
 私の生活は、人間界が中心になったのだ。

 全部彼女の為だ。

 結界のせいで変化した姿のまま彼女の膝に乗せられることも、日常の中の、ささやか
な幸せとなった。
 そう、私は、悪魔だと言うのに、人間の世界で、人間の手で、幸福を感じさせられてい
たのだ。
 ……まあ、悪くは、なかった。





***




 雇い主である彼女と、彼女の上司である謎の男とも、概ね懇意になれた(無闇に爆発
させられたり殴り付けられたり踏みつけられたり威嚇されたりしなくなったという意味だ)、
二年と少しが経ったある日の事だった。

 珍しく魔界に帰っていた私に、彼女から、新作のカレーパンを買って帰るので、三時に
事務所に来てくれ、というメールが届いた。
 彼女の味覚は私の好みにあうので、それはそれは楽しみにしていた。
 こういう用件で呼び出されるのは、苦労が無くて一番良い。
 遅刻癖のある彼女は少し遅れてくるだろうから、三時丁度に魔界を離れ、窮屈な部屋
に出向くことにした。
 どうやら淫奔の悪魔も一緒に呼び出されていたようだ。
 着けば、やかましく喋り掛けて来た。
 適当にあしらいながら、私は彼女とカレーパンを待っていた。

 しかし彼女は、指定した時間を過ぎても来なかった。

 人間界の時間の概念はあまりよく解らないが、流石に、遅過ぎるのではないだろうかと
思い始めたころ。
 上司という肩書を持つ、黒いスーツに身を包んだ男が、入口であるドアから音も無く入っ
て来て、突然言った。

「お前ら、今日から自由の身だ。さっさと向こうへ帰れ。二度と来るんじゃないぞ。お前ら
のグリモアは焼いて捨ててやる。契約は終了だ」

「……? どういう事ですか。私達の契約者は貴方では無い筈ですよ。勝手な人ですね。
知っていましたけど」

 雰囲気が違った。
 何時もの、口答えなどしようものなら、人も悪魔も余裕で殺してしまいそうな(否、機嫌
によっては実際やる)彼の、雰囲気が。
 棘も無ければ、覇気も無い。
 いうなれば、空の状態だった。

 彼の変貌、契約の解除、グリモアを焼き捨てるという、永遠の使役無効化の宣言。
 彼はもう、二度と、我々をこちらに呼ぶ事は無いと言い切ったのだ。
 彼女の手にある筈の者が彼の手に渡り消えて行く。
 つまり、呼べる人間が、もう居ないのだという事になる。

「まさか、」

 情けなくも動物の姿に変化させられた身の上では、シリアスな顔も似合わないけれど。
 先程まで相変わらずの方言でスーツの男に文句を投げかけていた淫奔の悪魔も、気
付いてしまったようだった。

『アクタベはん……。まさか、さくちゃん、死んでもうたんか…?』
『…大学の帰り道、ここに来る途中、車に轢かれたそうだ。頭と背中を強く打って…即死
だったらしい…。あんまり出血もしなくて……綺麗な死に顔だったよ』
『…それは……可哀想になあ…』

 聞きたくない問答が耳をすり抜けて行く。

「…彼女に逢いに行く事は、出来ませんかね」

 言えば、空になった男が結界の力を消して、私を元の姿にしてくれた。
 無言のまま、住所と地図の描かれた紙切れを手渡された私は、それを握りしめて、昨
日までは幸せが存在した場所を後にした。

 数分後、同じ様に人の形を取り戻した仲間が追い付いて。
 二人で彼女を訪れた。

 彼女の母親は力なく微笑みながら、私達を彼女の元へ通してくれた。
 母親は突然の事に呆然としてしまっているようで、案内をしただけで、挨拶も無くその
場を離れてしまったが、人間の世界の礼儀などは知らないので、私達にはそれで良かっ
た。
 亡骸に改めて目を向けてみれば、綺麗な布団に寝かされた彼女は、ただ眠っている
だけのようで。
 生きていた時と同じぐらい、美しかった。

「本当に、死んでしまったんですか?」

 思わず問いかけてしまうほどだった。
作品名:とある悪魔の胸の内 作家名:東雲 尊