愛の言霊
「ねーさんさあ、報われない相手追いかけてて、虚しくなんないワケ?」
いつもそうしているように。
軽い口調で、簡素なソファに腰掛けて気だるげに煙草をふかす黒いスーツ姿の女性に向かって、
少年は言った。
ねーさん、というのは、事務所で働いている佐隈りん子の事ではない。
時折、事務所の主である芥辺という男に呼び出されている、悪魔の事である。
司るのは嫉妬。名をアンダイン(俗称。正式名称はアンダイン恵)という、半魚人の、女悪魔だ。
今は人間界、しかも芥辺が作った結界の中で呼び出されているので、情けない魚顔をした人間の女
の姿をしている。
嫉妬深さに定評がある上、婚期を逃しつつあるハイミス、というこれまた情けない肩書きまで持ち合わ
せているが、悪魔界での本来の姿は意外と美人であるという噂がある。
噂が本当かどうかは今のところ解らないけれども。
そんな、マイナス要素過多な女悪魔は、少年の声に面倒くさそうに振り返った。
「なによ、クソガキ。私の人生に口出す気? あんたみたいなガキに何がわかんのよ」
眉根を寄せ、ふー、と煙を吹きだして、アンダインは唇を尖らせる。
美女であれば絵になるのだろうが、結界の力により、人間にしても並以下の魚顔を具現化されている
ので今一きまらない。勿論、悪魔にとってはどうでも良いことなのだが。
「だってさあ、芥辺さん、今日もねーさん呼び出しといて放置してんじゃん。ねーさんも仕事しろよって
感じだけど、芥辺さんも何で呼んだって感じだよね」
そうなのだ。
悪魔使いである芥辺は、契約してみたもののアンダインは使いづらいと言って、一瞬能力を使わせた
かと思うと一方的に捨てていく。
生け贄はいつも、心など籠もってもいない、棒読みの「好き」という一言。
確かに、贄に見合う(というか贄が必要な)ほどの働きをアンダインがしているかと言えば、微妙な所
ではあるのだが、少年…堂珍光太郎にしてみれば、さすがに哀れと思えなくもないのだ。
アンダインは強く賢い(そして若干ズルい)男が好きらしい。
それゆえに、どこまでも一方的に、芥辺を盲愛している。
踏まれても蹴られても役立たずと罵られても、呼び出されればやってくるし、どれだけ怒り狂って喚き
散らしても、最後には彼の適当な「好き」の一言で懐柔されてしまう。
それが、というよりは、そういう主従関係なのだと言われればそれまでなのだけれども。
仮にも悪魔が、人間に良いように扱われているのだ。
(ねーさん、プライド高い割にはドMだよなあ。俺にも悪魔はいるけど、さすがに、もうちょっと丁寧に扱っ
てやってるぜ?)
多様な悪魔を意のままに操る芥辺という男と同様、光太郎少年にも、自身で契約した悪魔がいる。
忘却を司る悪魔、グシオンだ。それなりに高位の悪魔ではあるが、人間界では結界の力によって、猿
の形をさせられている。
この悪魔は、良くも悪くも記憶を消せるという特技があるので、少年には重宝されていた。
記憶を操る能力がありながら存外頭が悪いもので、少年にも扱いやすい、とい現実もあった。
悪魔は悪魔で、特に自分から悪さをしようという気は無く、腹が減ったときに満たしてくれるなら何でも
良いタイプらしく、ほかの悪魔達よりは従順に、光太郎に使われている。
いちいち確認はしないものの、少年とも何となく気が合っているようだった。
世の中ギブアンドテイク。
それは人間と悪魔の間でもなんら変わりない事だ。
「つか、なんで芥辺さんがいいわけ? こないだあの犬面のセクハラ悪魔に聞いたけど、ねーさんてさ、
あっちじゃ美人の部類なんだろ? 悪魔の恋人作らねーの? 芥辺さんより良い男だっているんだろ?
あのスカトロペンギンだってさ、人の形させりゃ男前だっていうし」
「はあ? 芥辺さんより良い男なんていやしないわよ! どこに目をつけてんのよ、このバカガキ。大体、
アザゼルとかサラマンダーはさておき、あのベルゼブブやルシファーだって、芥辺さんには一目置いて
んのよ? 超上位悪魔を思い通りに出来て、天使だって寄せ付けない男なんて、最高じゃない。まあ、
魔界にだって、探せば芥辺さんより顔のいい男はいるでしょうよ。でもね、芥辺さんより強い男はいない
の。だから私は芥辺さんがいいのよ。芥辺さんだって、今は冷たいけど、もっと深く付き合えば、私の良
い所を解ってくれるわ。だから別にあんたが気にすることなんかこれっぽっちもないのよ。解った?」
良く回る口だ、と、光太郎は思う。
彼女の言葉には強がりと願望と本音とが入り交じっている。
この事務所に呼ばれる悪魔は、どちらかと言えば人間臭い(影響されやすい?)タイプのものが多いが、
アンダインに至っては、もはや悪魔というよりは、駄目な人間の女そのものだった。
「でもねーさん、一応悪魔だろ? 悪魔使ってる俺が言うのもアレだけどさ、あんた、やっすい生け贄で
釣られて、人間に使われる一生でいいのかよ」
「……別に、いいわよ」
のっぺりとした魚顔が、少年を見つめる。
「だって芥辺さんだって……私よりは早く死ぬじゃない。どれだけ長く付き合っても、せいぜい百年でしょ。
あたしはもう三千年以上生きてるけど、この先もあと何千年もあるんだし、別にそのぐらい、構わないわ。
そのたった百年ぽっちの間に、一回でも本気で私のことを役に立つとか、好きだとか思ってくれたら、そ
れで十分よ」
「そんなもん?」
「ふん。女を知らないお子様には解らないもんなのよ、大人の恋や駆け引きって奴はね」
アンダインは迷いもなく言い切って、自身の言葉に満足した様子を見せた。
少年はふうん、と言って、彼女がくゆらす煙を眺める。
「…俺が子供だから解んないってことか。じゃあねーさん、俺と寝てよ。ねーさんが俺を大人にしてくれ
よ。そしたら、あんたが言う大人の恋ってやつも解るだろうし、こんなつまんねーこと言わなくなるだろう
からさ」
少年の背中では、猿の形をした悪魔が、正気かと言わんばかりの顔をしている。
アンダインに至っては、無表情は変わらないながらも、丸い目を更に丸くして、少年を見つめていた。
沈黙、少々。
ほんの十数秒ながら、一番に耐えきれなくなったのは、アンダインだった。
「ば、バカ言うんじゃないわよっ! 私を抱こうだなんて、十年早いわよこのクソガキ! あんたみたいな
エロいだけのガキなんてお断りよお断り! だいたい、わ、私は芥辺さん一筋なんですからね! ちょっ
と歳食ってるからって、軽くみないでちょうだい!」
何を言ってみても、顔が真っ赤なので凄みはない。
案外、まんざらではないようだ。
アンダインは自称一途な女で、実際積極的だが、意外に口説かれるのに慣れていない。
慣れていないから、こんな人間の子供の言葉にも素直に喜んでしまうのだ。
嫁に行けないのは、嫉妬が根本にある彼女の強気な性格が災いしていることが原因に違いない。
けれどもアンダインの本質は、実は非常に素直で単純なのではないだろうかと、光太郎は常々考えて
いた。
いつもそうしているように。
軽い口調で、簡素なソファに腰掛けて気だるげに煙草をふかす黒いスーツ姿の女性に向かって、
少年は言った。
ねーさん、というのは、事務所で働いている佐隈りん子の事ではない。
時折、事務所の主である芥辺という男に呼び出されている、悪魔の事である。
司るのは嫉妬。名をアンダイン(俗称。正式名称はアンダイン恵)という、半魚人の、女悪魔だ。
今は人間界、しかも芥辺が作った結界の中で呼び出されているので、情けない魚顔をした人間の女
の姿をしている。
嫉妬深さに定評がある上、婚期を逃しつつあるハイミス、というこれまた情けない肩書きまで持ち合わ
せているが、悪魔界での本来の姿は意外と美人であるという噂がある。
噂が本当かどうかは今のところ解らないけれども。
そんな、マイナス要素過多な女悪魔は、少年の声に面倒くさそうに振り返った。
「なによ、クソガキ。私の人生に口出す気? あんたみたいなガキに何がわかんのよ」
眉根を寄せ、ふー、と煙を吹きだして、アンダインは唇を尖らせる。
美女であれば絵になるのだろうが、結界の力により、人間にしても並以下の魚顔を具現化されている
ので今一きまらない。勿論、悪魔にとってはどうでも良いことなのだが。
「だってさあ、芥辺さん、今日もねーさん呼び出しといて放置してんじゃん。ねーさんも仕事しろよって
感じだけど、芥辺さんも何で呼んだって感じだよね」
そうなのだ。
悪魔使いである芥辺は、契約してみたもののアンダインは使いづらいと言って、一瞬能力を使わせた
かと思うと一方的に捨てていく。
生け贄はいつも、心など籠もってもいない、棒読みの「好き」という一言。
確かに、贄に見合う(というか贄が必要な)ほどの働きをアンダインがしているかと言えば、微妙な所
ではあるのだが、少年…堂珍光太郎にしてみれば、さすがに哀れと思えなくもないのだ。
アンダインは強く賢い(そして若干ズルい)男が好きらしい。
それゆえに、どこまでも一方的に、芥辺を盲愛している。
踏まれても蹴られても役立たずと罵られても、呼び出されればやってくるし、どれだけ怒り狂って喚き
散らしても、最後には彼の適当な「好き」の一言で懐柔されてしまう。
それが、というよりは、そういう主従関係なのだと言われればそれまでなのだけれども。
仮にも悪魔が、人間に良いように扱われているのだ。
(ねーさん、プライド高い割にはドMだよなあ。俺にも悪魔はいるけど、さすがに、もうちょっと丁寧に扱っ
てやってるぜ?)
多様な悪魔を意のままに操る芥辺という男と同様、光太郎少年にも、自身で契約した悪魔がいる。
忘却を司る悪魔、グシオンだ。それなりに高位の悪魔ではあるが、人間界では結界の力によって、猿
の形をさせられている。
この悪魔は、良くも悪くも記憶を消せるという特技があるので、少年には重宝されていた。
記憶を操る能力がありながら存外頭が悪いもので、少年にも扱いやすい、とい現実もあった。
悪魔は悪魔で、特に自分から悪さをしようという気は無く、腹が減ったときに満たしてくれるなら何でも
良いタイプらしく、ほかの悪魔達よりは従順に、光太郎に使われている。
いちいち確認はしないものの、少年とも何となく気が合っているようだった。
世の中ギブアンドテイク。
それは人間と悪魔の間でもなんら変わりない事だ。
「つか、なんで芥辺さんがいいわけ? こないだあの犬面のセクハラ悪魔に聞いたけど、ねーさんてさ、
あっちじゃ美人の部類なんだろ? 悪魔の恋人作らねーの? 芥辺さんより良い男だっているんだろ?
あのスカトロペンギンだってさ、人の形させりゃ男前だっていうし」
「はあ? 芥辺さんより良い男なんていやしないわよ! どこに目をつけてんのよ、このバカガキ。大体、
アザゼルとかサラマンダーはさておき、あのベルゼブブやルシファーだって、芥辺さんには一目置いて
んのよ? 超上位悪魔を思い通りに出来て、天使だって寄せ付けない男なんて、最高じゃない。まあ、
魔界にだって、探せば芥辺さんより顔のいい男はいるでしょうよ。でもね、芥辺さんより強い男はいない
の。だから私は芥辺さんがいいのよ。芥辺さんだって、今は冷たいけど、もっと深く付き合えば、私の良
い所を解ってくれるわ。だから別にあんたが気にすることなんかこれっぽっちもないのよ。解った?」
良く回る口だ、と、光太郎は思う。
彼女の言葉には強がりと願望と本音とが入り交じっている。
この事務所に呼ばれる悪魔は、どちらかと言えば人間臭い(影響されやすい?)タイプのものが多いが、
アンダインに至っては、もはや悪魔というよりは、駄目な人間の女そのものだった。
「でもねーさん、一応悪魔だろ? 悪魔使ってる俺が言うのもアレだけどさ、あんた、やっすい生け贄で
釣られて、人間に使われる一生でいいのかよ」
「……別に、いいわよ」
のっぺりとした魚顔が、少年を見つめる。
「だって芥辺さんだって……私よりは早く死ぬじゃない。どれだけ長く付き合っても、せいぜい百年でしょ。
あたしはもう三千年以上生きてるけど、この先もあと何千年もあるんだし、別にそのぐらい、構わないわ。
そのたった百年ぽっちの間に、一回でも本気で私のことを役に立つとか、好きだとか思ってくれたら、そ
れで十分よ」
「そんなもん?」
「ふん。女を知らないお子様には解らないもんなのよ、大人の恋や駆け引きって奴はね」
アンダインは迷いもなく言い切って、自身の言葉に満足した様子を見せた。
少年はふうん、と言って、彼女がくゆらす煙を眺める。
「…俺が子供だから解んないってことか。じゃあねーさん、俺と寝てよ。ねーさんが俺を大人にしてくれ
よ。そしたら、あんたが言う大人の恋ってやつも解るだろうし、こんなつまんねーこと言わなくなるだろう
からさ」
少年の背中では、猿の形をした悪魔が、正気かと言わんばかりの顔をしている。
アンダインに至っては、無表情は変わらないながらも、丸い目を更に丸くして、少年を見つめていた。
沈黙、少々。
ほんの十数秒ながら、一番に耐えきれなくなったのは、アンダインだった。
「ば、バカ言うんじゃないわよっ! 私を抱こうだなんて、十年早いわよこのクソガキ! あんたみたいな
エロいだけのガキなんてお断りよお断り! だいたい、わ、私は芥辺さん一筋なんですからね! ちょっ
と歳食ってるからって、軽くみないでちょうだい!」
何を言ってみても、顔が真っ赤なので凄みはない。
案外、まんざらではないようだ。
アンダインは自称一途な女で、実際積極的だが、意外に口説かれるのに慣れていない。
慣れていないから、こんな人間の子供の言葉にも素直に喜んでしまうのだ。
嫁に行けないのは、嫉妬が根本にある彼女の強気な性格が災いしていることが原因に違いない。
けれどもアンダインの本質は、実は非常に素直で単純なのではないだろうかと、光太郎は常々考えて
いた。