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ニューヨークのこども

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教会の、ゆるやかな鐘の響きが窓のあいだを縫うようにしてはいってくる。いっとき目をつぶって、ルートヴィッヒは皺の寄った眉間のあたりを揉んだ。したためていた書面の類を束ねる。開いた窓の隙間からやわい風がふうと吹き通っては、ざわざわと首のあいだをなでてゆく。カーテンがすこしひるがえって、そこからわずか光が漏れた。足元のほうで静かに身体を横たえている三匹の正しい呼吸を聞く。そうやって少しのあいだ、彼はいつにない静謐に足をとられているようすであった。もう正午は過ぎていた。
きい、と軋んだ椅子の足音でふいに意識がもどってくる。はっとして、ルートヴィッヒは立ち上がった。アスターたちを一瞥して、軽くキッチンへと足を滑らせる。とくに腹が減っていたわけではない。ただ習慣である。もうずっと、曖昧なほどむかしから、鐘が鳴るころになるといつも兄が飯だ飯だとさわぎたてるので、いつからかそれが昼食の合図のようになってしまっていたのだ。兄のいない今日は自分の腹の頃合いでよいのに、ルートヴィッヒはそれができない。そういうひとなのだ。
冷蔵庫の隅のほうのスライストマトとレタス、チーズをパンにはさんで、ヴルストをいくつか茹でる。ひさしく兄がいないので、どうにも手軽になってしまう。ひとりであるとわざわざリビングに皿を運ぶのさえ億劫だった。キッチンのシンクに肘をついて珍しくだらしない形でそれらを平らげてしまう。水をそそいだグラスを一気に傾ける。息さえ忘れて咀嚼していたので、はあ、と深く吸い込んで、一気に気息をとりもどす。そうしてまもなく皿とグラスを片付けて、キッチンを出た。
もどった先のリビングのソファに、ルートヴィッヒはどんと倒れるように身体を沈めた。ようやっと、ひと心地ついたような気であった。たまにはこういう怠惰な生活も悪くはないと頭のすみでぼんやりと考える。やわい陽の差しこむ明るいリビングはあまりに静かであって、再び、いっとき意識が沈みこんでしまう。自らをとりまくかすかな生活音さえふいとうしなわれるような、そういう感覚であった。しばらくあって、ルートヴィッヒはゆらゆらと顔を上げた。時計に目をやると、数分立っている。ああそうだ、散歩の時間だ。まだずっと重くかんじられるまぶたをぐうと持ち上げる。
アスター、ブラッキー、ベルリッツ、ちいさく呼ぶ。ぴくりと三匹のからだが上下にうごめいて、おぼつかない足取りで起き上がってきた。そうしてゆるいあくびを繰り返す。わん、とかれらがひとつ鳴くので、ルートヴィッヒはもそもそと食事の準備をしてやって、そうして三匹に食わせた。餌を平らげてしまったころにはもうすっかり目も覚めてしまったらしい。ぐりぐりと毛のながい尾を振って、ルートヴィッヒのあしもとに近づいてゆく。そうしてすうと顔をあげてこちらのほうを見つめてくるので、少しのあいだ、ルートヴィッヒは手をのばしてあごの下をそろりと撫でてやっていた。うとうとと目を細めている。ふと時計に目をやると、もう一時をまわっている。リードをつなげてやらないと、ルートヴィッヒはソファに身を沈めながら、そういうことを考えていた。またひとときまぶたを落として、五分。そうしてようやっと、けだるいからだを持ち上げた。窓の鍵に手をやって、カーテンをさあっと引く。そのうしろを三匹がついてまわる。手にとったリードを首輪の金具にひょいとひっかけてやる。さて、行くぞ。ずるりとリードをひきずりながら、三匹が玄関まで縦列をただしてひょこひょことついてくる。リードを右手にまきつけるようにして持った。あいたほうの手で、ドアノブをすうと押す。とたんにその隙間からはいってくる明るい陽光がまぶたにはりついて、ルートヴィッヒはかすかに目を細めたのだった。

初夏の、やわい光とぬるい風がそこここにたゆたっている。おそろしいほどひとかけらの波紋もない、穏やかなこころもちである。兄のいない休日というだけで、まるで世界がすっかりと色を変えたようであった。青い新緑のにおいを吸い込む。足元の、うち一匹がしなやかなからだをきもちのよさそうにぐんと伸ばした。めずらしく足を通したスニーカーはまだ真新しい色をしている。きゅっと靴の裏が鳴った。
ルイス、ルイス!不意に聞き覚えのある声が頭上にふってきて、はっとする。ルートヴィッヒはすこし慌てたようすであたりを見回した。すると、背のたかい男の影が、近くの木のほうでぼうっと伸びているのがみえる。だれか、と一瞬眉をひそめたが、自分の名をそうやって呼ぶのは彼だけだった。…アルフレッド?すうと木の影から長い足が見え隠れしている。せいかい!ぱっと両手を広げて、おどけてみせている男が木のうしろからのろりとあらわれた。ひさしぶり、ルイス!そうしてルートヴィッヒは、逆光を照り返すその姿をようやく視界の端にとらえた。
今日はまた、突然どうしたんだ?いやあね、なんとなく、そうつぶやくアルフレッドは、照れくさいというふうに頭をかいた。ふと彼の視線が落ちる。そうしてぱっとルートヴィッヒの両手に指をさした。あっ、かして。脈絡もなく、戸惑う。何を、と問うと、アルフレッドが穏やかに笑った。三匹も持つのは大変でしょう、一匹持ってあげるよ!ほんとうはこういう顔も、気遣いもできるひとなのだと少し驚きながら、三匹のうちのひとつのリードを手渡した。すまないな、いつもは兄貴が手伝ってくれるのだが今日はいないから。言うと、アルフレッドの表情がほんのわずかに曇ったようであった。つくろうようにわざと苦い顔をする。きみのところは本当に仲がいいね、俺のところはからっきしダメだから、うらやましいよ。ふと視線を落とすと、彼の手にひどくリードが食いこんでいた。ずいぶん握りしめているのだろう。その手の甲の、リードの掠れたあとが赤く滲んでいる。歩幅を小さく縮めながら、ルートヴィッヒはふくざつに表情をにごらせた。またあの男となにか?大仰にためいきを吐いてみせる。名前を呼ばないのは意地だ。ルートヴィッヒはあの男が嫌いだった。後ろ姿にぼんやりと兄を重ねたことがある、しかし、はっとしてよく見ると、兄とは似ても似つかない。そう考えるたびに吐き気がした。やっぱりおれはあの男が嫌いなのだ、と思っていた。
それでも、眼前のひとにとってあの男は兄らしい。そうと認めるのを聞いたことはないが、きっとどこかであの男を気にかけている。でなければとっくに遠のいているだろう、あんな面倒な男から。
作品名:ニューヨークのこども 作家名:高橋