ラブ
――そして、平和島の内部にあった、ほんのすこし、淡すぎるほどの期待は、折原による折原のための折原が好むその一文によって、欠片も残さず崩れ去った。
「シズちゃん、ねえ、どうだろう。シズちゃんはちゃんと人を愛したことが、愛せたことがあるのかな?」
「……」
「だんまりなんて酷いね。そんなの無茶だよ。だってシズちゃんはそういう男だもの!」
「うるせえ」
「ほら、もう一回」
「……ッ、うるせえ……ッ」
「あはは、笑えるほどよくできました!」
ともすればその場に立ちつくしてるだけの、二人の男。眉目秀麗とうたわれる片方と、サングラスなどちっとも似合いはしない片方と、なにも珍しい光景ではないはずだ。
そう、それだけの光景を、周りの人間は奇異なものを見るかのような目で、そっと認識し、置き去りにしてゆく。恐ろしいものをみてしまった、こんなものに触れなければよかった、と、その両眼は、常に同じ感想を抱いているように見える。それが池袋で生きる平和島静雄が背負う劣等であり、新宿に生きる折原臨也が示すレッテルだった。
決して触れてはいけない、知ってはいけない、いやそれだけじゃ足りない、口を開いてはいけない息をしてはいけない絶対に近づいてはいけない、存在を認めてはいけない。目は口ほどに、饒舌である。
そこに至るまで操り、促した張本人が折原臨也、ただ一人であるという事実。
折原は常に、現実と事実とを、平和島に突きつける。ひたすら愉快そうに、悪びれることなど一生ないみたいに。
「ああ、いいなあ、その眼がいい。シズちゃんってさあ、”こいつがいなければ俺の人生もうちょっと真っ当だった”みたいなこと思ってるでしょ? 自分を被害者だと思い込んで、自分はなにも悪くないって正当化しようとしてるでしょ? そういうエゴイズムは哲学とは言えないけど、好みだよ」
「5秒以内に視界から消えなけりゃ、殺す」
「ねえ、真っ当ってなんだろう」
「殺すつってんだよ!!」
「殺すね……。”そういう人格”にならないように努めていた姿を、俺はついぞ見たことがないよ? 気のせい?」
限界だった。
追うことも、逃げられることも、どうしても捕まえられないことも、幾度となく挙げ足を取られ図星をさされ神経を逆なでされることも、全てが限界に近かった。扉はいつまでも頓挫している。サングラス越し、明瞭とは言い難いその視界のなかで、まるでレンズなど通していないほどに彩度を保ったままの扉は、そこにある。それをノックし、一度ひらいてしまえば、この長く下らない遊びは終わりに出来るはずなのだ。限界ならば、躊躇などすることなく、あけてしまえばいいものを。殺したい。ああ、早く殺してしまいたい。そうすれば俺は開放される、楽になる、きっとそうに違いない。違いない。違いない。
…………そんな中でも、折原の視線は、一度も平和島の元から外れることはなかった。平和島自身が、不気味からほんの少し脱却するための、その数瞬の時でさえ、折原の視線はただ真っ直ぐに、それこそ”真っ当に”、平和島へ続いていたらしい。高らかに謳うような声が、何百何千という回数、耳元を掠め、そして無為になっていっただろうか。到底覚えてなどいないし、折原自身、知る由もないことであろう。
ああやっぱり、扉は開かない。開けたところで意味もない。その扉さえ、作りだしたのはこの男だから。
「シズちゃん、あと二十秒したら俺を殺しにおいでよ。その代わり俺はシズちゃんの子供を産んでみようと思う。いや、胎児を身籠ると言った方がいいのかな? 俺が産んだものはきっと異形だろうけれど、シズちゃんが可愛がってくれること、楽しみにしてるから、だからさ」
それ以上の言葉を許さなかったのは、自分であり、平和島であり、シズちゃん、と呼ばれる一人の男だった。
ものの一秒もしない間に、折原はビルの上へと、それは軽い身のこなしで遠ざかってゆく。
いつの間にか存分に溜まっていた体液の湖は、硬質の革によってばしゃりと踏みつけられ、当たりにいっそう散らばった。さながら誘発された自殺現場のような光景だ。なかなかどうして、とまらない血が、生きている証明だとは思わない。思わないけれど。
リットル流せば、追う理由には十分だろう。
極彩色のネオンが頬を照らす。べっとりと張りついた、鉄のにおいは嫌いだ。
目標を目の端に捉え、ただ同じ道をたどるようにして、走る。走る。息が切れることはなく、心臓の音も、まるで正常。だがこの身体さえ、まるで遠隔的につくられていたとしたら、どうだろう。何度も破壊を繰り返されることにより、より強靭になった全ての組織。
――ああ、駄目だ、どう考えようと、虫唾が走ることにはかわりない。
ネオンは未だ輝き続ける。
数分が経った。折原はビルの屋上で足を止め、平和島をやや俯瞰で見遣る。少しばかり上がった口角が恨めしく、しかし確かに、眉目秀麗と言われるだけのものはあるらしかった。おあつらえ向きな逆光は、その表情を正確に見据えることすら許さない。
視線が交差し、決着はあと数分で着くだろうことを、どちらからともなく、感じとっていた。折原の唇が、嫌に緩慢に動こうとしているのを、なんとか視認する。頭の先からつま先まで、一切を闇に許した男。その場に融解しそうなほど染まりきった姿が、自然と双眸を細めさせていた。サングラスを外す、さほど変わらぬ視界、身体の全神経が、ただ一心に、折原へと向かっている。
最後だ、これで、これで終わりにする。全ての終わりにする。最後の憐憫、最後の情、最後の躊躇にしてやろう。平和島がそう、決めた時だった。折原の言葉は、平和島の鼓膜を、凡そ人間が操れる限界の強さを以て、震わせた。