耳のない人形の話
街の店が開く前の朝と、夕食前の陽が落ちきってしまう前の時刻に、犬の散歩をするのは家族の中で決められたペーターの仕事だった。
犬の名前はベンという。比較的大きな体躯であるにも関わらず、その毛並みは滑らかで、目立つ汚れもなく保たれているのは、単に飼い主であるペーターの母親が手入れを欠かさないからだ。見栄えのいいこの犬を従えるペーターを、近所の子供たちは一目置く。だからというわけではないが、ペーターはベンの散歩を欠かしたことがなかった。
さて、そのペーターとベンのお決まりの散歩コースの近くに、ある不幸な女が住んでいた。
病的な薄い肌色にひょろひょろの貧弱な痩躯、疲れきって濃く刻まれた目元の隈にひっつめて団子にした真っ黒の髪、身を包む衣服も見事な黒。いつも思いつめた険しい顔か、怯えるような顔ばかりしていたので、当然モテる訳がない。その陰気さに引きずられるかのように、やることなすこと失敗ばかり。
ペーターたちは、彼女が誰かに怒鳴られているところを良く見たし、何かにつまずいて盛大に転げていたりぶつかっていたりするところにも遭遇した。
友人らしき人影を見たことがない。家族の話を聞いたこともない。大人たちに尋ねればそこは違った評価があったのかもしれないが、ペーターたち子供から見ればまさに彼女は天涯孤独。
だから彼らは彼女のことを不幸なのだと思った。けれど哀れとは感じない。大人の女のくせに独り身で、鈍く要領悪く薄暗い。馬鹿にするには格好の相手だからだ。
それが、不幸女ミランダ。
その日のペーターは少し寒くなってきたからと、母親の手製の耳当てのついた帽子を被せられて外へ出た。いつものように連れ出したベンとの散歩は、友達に会ったせいで少し帰りが遅くなった。面白い歌を思いついた、とそいつが調子っ外れの音程を披露してきたので、その場に居合わせた仲間たちと修正をしていたら、辺りはいつの間にか夕暮れの装いに変貌していたのだ。
赤く断末魔を上げる西日に街灯が勝利してしまう前に家に帰らなくてはならないのはどの子供も同じで、仲間たちはわらわらと道を転がるように散っていったが、ペーターはベンのことも考えてやらなくてはならない。散歩はベンにとって、ペーターが日々の悪戯を欠かせないのと同じくらいに大切なものだということを良く心得ていた。
とはいえ、ベンはペーターが走り出せば喜んで追い抜いて行く奴なので、彼はいつもの道程の半分を走り、家へ戻るまでの残り半分は、いつもは避けている近道を使うことにした。
いつも避けているからには理由がある。昼間は何てことないただの路地だが、入り組んでいるせいで街灯の明かりが端々にまで行渡らない、つまり暗い道なのだ。酒場の脇を通るので、ペーター本人には物騒という認識は薄いが、親には夜に近づくなと言い含められている通りだ。
けれどペーターは構わず進んだ。何せ彼にはベンがいる。大方のことは怖くない。
その意気込み通りに歩が進んだのは、ぼやけた街灯に照らされた、ゴミ置き場の前に差し掛かるところまでだった。
ひょろりとした人影があった。街灯に照らされているはずなのに、そいつは影が地面からそのまま立ち上がったように真っ黒だ。がしゃんと音を立てて人影近くのゴミが崩れる。ぎょっとしてペーターは踏鞴を踏んだが、傍らのベンは吼えもせず平然としている。それならきっと怪しいものではないのだろう。人影を見つけてからからずっとゆらゆらと尻尾を揺らしているので、むしろ知人である可能性が高い。
しかし一体誰だろう。今の時間であれば、近所の女性たちは大抵、夕餉の支度に忙しいはずだ。
ペーターはベンを信頼して、人影に近づいてみた。そうして詳細が見えてきてしまえば何のことはない、影のようだと思った身体を覆っているのは黒いワンピースだった。肩にかかるかかからないかくらいの髪はふわふわしていて、街灯の明かりを受けてぼんやりと輪郭を光らせている。動いた弾みで見えた横顔は白い。何かを探してきょろきょろと動く目の周りには、濃い隈があった。
ミランダだ。髪を下ろしているのを見るのは久しぶりだった。
「なにやってんの?」
どう見てもゴミ箱を漁っているようにしか見えなかったが、ペーターは一応聞いておくことにした。
他に友人がいれば、ついに物乞いにまでなったのかよとからかうところだが、一人で大人の女性に対峙すれば、今まで嘲笑して馬鹿にしてきた事柄が洒落になっていなかったのだと、ひやりとする思いのほうが強い。
「あんたには関係ないわ」振り向きもせずにミランダは答えた。
生意気だ、とペーターは思った。せっかく気にしてやっているのに。
「荒らしてるんなら大人を呼ぶけど」
それは不審者を見つけた子供として正しい行為である故に、ミランダも無視はできなかったのだろう。煩わしげにペーターをちらりと見やった。
けれど視線をすぐにもとのゴミ捨て場に戻す。その態度がまたペーターの勘に触ったが、彼が何か言い出す前にミランダは面倒くさそうに、或いは諦めたように溜息を吐いた。
「耳を探しているのよ」
驚いてペーターはミランダを見上げた。
耳? ペーターは思わず帽子の上から自分の耳に手を当てた。人の顔の横に二つついている、あの耳のことか? ふだんひっつめている髪が下ろされているのは、耳をなくしたことを隠しているからか?
けれど俯いて流れる彼女の髪の一房の隙間から見える肌色は、確かに彼女の耳のはずだ。言われたことの意味が分からないペーターは彼女の視線を追いかけた。それは彼女が腕に抱えるものに辿り着く。
人形を、持っているようだった。
多分何かの動物を模したもの。多分、というのは、その人形の耳が取れてしまって中綿が見えてしまっているからだ。
今や陽もすっかり暮れて、街灯に照らされ浮かび上がる黒ずくめの女が手にするそれは、酷くグロテスクに、けれどどうしてかやたら物悲しく見えた。
「なあ、それ、ただのごみだろ」
古ぼけて汚れた人形を見て、ペーターは顔を顰めて言った。
「耳がとれたから捨てたんだろ。こんなとこ探したって無駄じゃん」
「…そうかしら」ゴミと呼ばれた人形を慰めるように胸元に抱き寄せて、ミランダが言った。「…そうね、そうかも」
確かにゴミだわ、とミランダは呟いた。
なのに、彼女はその人形をゴミと認める気はないらしく、うずたかく積み上げられたゴミの山を熱心に眺めている
その後姿は無様にも無防備で、少し押してやればちょうど良く頭から突っ込むだろうとペーターは思いついた。けれどもう帰ろうとでも言うようにベンがリードを引っ張ってきたし、仲間たちのいないところでやったところで大して面白くはない。だからやめておいてやることにした。
次の日には歌は仕上がった。もともと長い歌ではない。音階も拍子も単純だ、揉めたのは歌詞くらいだ。もっと酷い言葉も候補に上がったが、韻を踏むのは重要だ。
翌朝、仕事を探しに出かけるミランダに、その歌を披露してやった時は痛快だった。
ミランダ、ミランダ、不幸女ミランダ。モテない暗い鈍くさい。今日もまた仕事探し? どうせまたすぐクビさ。