耳のない人形の話
それまでペーターたちを無視するように下を向いて歩いていた彼女が顔を上げて、目を剥いてこちらを見たのだ。
酷い形相だ、とペーターが思った瞬間、「不幸をうつされるぞ!」と誰かが叫んで子供たちは方々へ駆け出した。
走り出した子供たちにつられてはしゃぐベンに引っ張られながら、ペーターはミランダの方を振り返った。
「クソガキ!」
珍しくミランダは怒鳴った。もしかしたら彼女が声を荒げるのを初めて聞いたのかもしれない。
俯かない彼女の目は真っ直ぐこちらを見ていて、ペーターはなんだかやけにおかしくなって走りながら笑った。うれしくなった、と言ってもいい。
それまで見かけるミランダは、クビの理由を並べ立てられ怒鳴られている時、相手の方を見ることをしない。怯えるように俯いて、顔を上げるのは元雇い主がミランダから視線を外した時くらいだ。一度カフェをクビになったときなんか、悪いのは客の法でミランダは言いがかりをつけられただけなんじゃないかと言う時でさえ、彼女は俯いて弁解をしなかった。単に弁解するタイミングを逃していたのかもしれない。なんて要領の悪い女。
そいつが今まさに、気に入らない相手を見据えて罵倒しているのだから、面白いことこの上ない。
仲間たちと別れて散歩の帰り道、ペーターはいつもの道を少しだけそれた。
点き始めた街灯の下で立ち止まり、視線を上に持ち上げる。先にあるのは不幸女の住家だ。
今は髪をひっつめておらず、昨日のようにふわふわさせたて、さっきまで怒鳴っていたことなど忘れたように、ミランダは針仕事に没頭しているようだった。
それからあの歌は、不幸女に遭遇した時の定番として街の子供たちに広まった。
「あれはないじゃない」
夕方の散歩の帰り道、つまりペーターとベンしかいない道端で、ミランダに声をかけられた。向こうから何か言ってくるのは初めてだ。
「なにがさ」
「歌よ」低い声でミランダが言った。「酷いじゃない」
責めているつもりか、恫喝のつもりだろうか。それは確かに不気味ではあるが、慣れっこのペーターには今一つ迫力に欠ける。現にペーターの足元では、ベンが何故かうれしそうに、ふっさふっさと尻尾を揺らしていた。
「いいじゃん、すげえよ、歌まで歌われる人間なんてそういねえ」
けたけたと笑うペーターに、ミランダは何か言おうと口を開いたが、結局諦めたように溜息を吐いた。
「言いたいことがあんなら言えよ愚図」
「…ないわ」
疲れたようにミランダは頭と肩を下げた。下ろしている髪がふわりとの前に流れてきて、彼女の顔を隠す。
言えば良いのに。ペーターはなんだか酷く腹が立った。
けれどミランダはこちらの気分など気にした様子もなく、気を取り直すように顔を上げて垂れていた髪を後ろに流した。いつもお団子頭に押し込められていた反動のように柔らかく動く髪を、除けた手とは反対の腕は紙袋を抱えている。そんなに大きくない袋に詰め込んだせいで、閉まりきらない袋の口からは糸やら布の切れっ端やらが覗いていた。
「繕い物?」
ふと気になって、ペーターは尋ねた。以前見た窓辺でも、彼女は何か縫い物をしていたっけ。その序のようにあの人形のことを思い出す。耳が取れて中綿の飛び出した人形。
ミランダはそれに答えずにペーターを置いて歩き出した。生意気だ。
「あの人形? ごみじゃん」
追いかけた言葉にも反応を示さない。まるでペーターと自分は無関係なのだとでも言わんばかりの態度だ。
「不幸女!」苛苛してペーターはその辺に転がっていた石を拾って投げつけた。勿論ぶつからないようにミランダの足元に投げたはずなのに、何故か歩道で跳ね返ってミランダの足に当たった。よろけた拍子に袋の中身が路上にぶちまけられる。
いい気味だ、と思ってペーターは立ち去ろうとしたが、ベンが嫌がった。「どうした?」見下ろすとベンは、転がってきたらしい毛糸の束を咥えていた。
拾いましたよ、さあ、あの気の毒な人に届けてあげましょう。ペーターを見上げるベンの目は、自分の行いが主人の善行に繋がるのだと信じて疑っていない。
ぶんぶんと尻尾を振るベンのリードを、ペーターは手放した。おや? と不思議そうに見上げてくるベンの視線を避けるように彼はそっぽを向く。それで賢い犬はなにか合点が行ったのか勘違いしたのか、毛糸を咥えたままミランダのもとへ歩いていった。
みっともなく地べたに座り込んで散らばった裁縫道具を拾う女の傍らに、ベンが寄り添う。
その毛糸を受け取って、多分ミランダはありがとうといったはずだ。離れているし後姿だったのでペーターには分からない。頭を撫でられるベンの尻尾がふさりと揺れた。
俺に言えよ、とペーターは思った。
翌日の夕刻の散歩コースは、ミランダの部屋の前を通る道を使った。何のことはない、ただの気紛れだ、とペーターは思っている。いつも同じ道では飽きてしまうからだ。
そうして何のこともなくただ気紛れに見上げた窓辺に、針仕事をするミランダがいた。
「やっぱしてんじゃん、繕い物」
うまくいかないのだろう、目元を押さえて俯くミランダの髪は、やはり今日もふわふわ揺れている。
どうやらペーターとベンが散歩する時間帯は、仕事をクビになって帰ったミランダがふらふらと買い物に出る時間と合致するらしい。
「何で昼間はあんな変な団子頭なんだよ?」
今日もまた裁縫道具を抱えて、ふわふわした髪を揺らして歩くミランダに、ペーターは周りに悪戯仲間の面々が見えないことを確認してから声をかけた。
微かに吐く息が白く見える時期だった。ペーターは帽子の他にマフラーを装備して外に出ることを母親に義務付けられていたし、ミランダも暗い色のストールを肩にかけている。
ミランダはペーターの姿を確認してから、少し目を大きく見開いた。眉間から皺が消えて険も和らいでペーターは少しびっくりした。不幸なことにきっと頭の回転が遅いから、この女は今言われたことを理解しなかったのだろう。
一拍の時間を要してから、ミランダは「ああ」と自分の髪に触れた。
「…あんたたちが前に私の髪に、舐めてた飴やらチョコやらをくっつけてきて大変なことになったからよ」
「そんなんあったっけ」
本当に覚えていないから訊いたのに、ミランダは再び眉間に皺を刻んでペーターを睨み付けてきた。そんな余計なことばかり覚えているから、ほかの事に対する理解が遅かったり気が回らなかったりするんだ。
けれどミランダはふと、表情を戻した。
多分ベンを見たせいだ。ペーターの傍らの大きな賢い犬は、暫く主たちが歩き出すことはないだろうと判断して、行儀良く座り込んでいる。
「ねえ」と、ミランダが一歩こちらに近づいた。
犬を触りたいとか言い出すのだろうか、そうしたら走り出してやろうとペーターは決めた。彼が走ればベンも走り出す。きっと驚いた不幸女は、また転んで袋の中身をこぼす筈だ。
「帽子、ちょっと見せて」
「は?」
だから降ってきた次の言葉には酷く驚いて、やたら間の抜けた声を出してしまった。
「てづくりなんでしょう、それ」
言われて慌ててペーターは帽子を外そうと頭上へ手を持ち上げたが、それより先にミランダの指先が触れてきた。