耳のない人形の話
「いらねえよっ! きもちわるい!」
言ってから、ペーターはしまった、と思った。けれど一度舌に乗り相手にぶつけられた言葉は取り消せない。
ペーターはとっさの過ちを取り繕える程大人ではなかったし、ミランダもそれを察せることができる程彼のことを知っていたわけではなかった。
「そう」と、落とされた人形を拾い上げて、ミランダは言った。溜息を吐くような声だった。
その時彼女がどんな顔をしていたのか、ペーターには分からない。壊れたものを視界に入れないように、顔を背けてしまったからだ。
だからそれで終わりだった。
別れの挨拶も、元気でと労わる言葉も何もない。もしかしたらミランダの方はペーターに何か言ったのかもしれなかったけれど。
ペーターはそのままそこに立って、彼女が乗る馬車が遠ざかっていく音を聞いていた。それまで黙って寄り添っていたベンが、するりと足元に擦り寄ってきて漸く、馬車の方に顔を向けた。
けれどそこにはもう、うっすら雪に覆われた道に刻まれた蹄跡と轍があるばかりだった。やがてそれも消えていく。
これで、ペーターが知る、不幸女の話は全てだ。ましてあの耳のない人形がどうなったかなど。
ただあの時、その人形を受け取って、有り難うと言っていれば、あの不幸女は笑っただろうかとペーターは思う。
最早それは想像するだけだ。在り得ない過去を空想するだけの、苦痛を伴う作業だ。
その苦痛を後悔というのなら、確かにペーターは悔やんだ。彼にとって不幸女の笑顔を思い浮かべるのは酷く困難で、時とともにその面影はゆっくりぼやけていく。あれほど鮮やかだった彼女の甘やかな香りでさえ、ただ甘いという形容詞だけを残して消えていくのが、ペーターには悔しかった。その悔悟と痛惜が、果たして初恋と呼べるものだったのかどうかは分からない。
耳のない人形はどこにもない。だから確かめる術がない。
始めは身売りしたんだとさざめいていた子供たちの興味も他へ移ろい、あの歌も廃れた。彼女の住んでいた部屋には別の人間が住み、
ミランダ・ロットーはいなくなった。悪魔とともに消えてなくなった。