耳のない人形の話
ふわり、いい匂いがした。甘いような、懐かしいような。
見せろというのだから、ペーターの頭から帽子を外せば良いのに、ミランダは彼の頭に乗ったままのそれを興味深げに眺めて撫でる。指先が時折髪に触れる。
ペーターの身長にあわせて屈みこむせいで、彼の目の前ではふわふわしたミランダの髪が揺れていた。彼女の白い顎と唇が視界に入る。ペーターは慌てて顔を下げると、ベンと目が合った。
どうかしましたか、おかしなお顔をしていますよ、そんな風に言われているような気がして、ペーターは眩暈がした。吐く息がさっきよりも濃く白く見える。それなのにやけに熱く感じるのは、きちんとマフラーも帽子もつけて、上着もちゃんとボタンを留めているせいだ、とペーターは自分に言い聞かせた。
耳当ての部分を捲りあげたミランダの指が、ペーターの耳に触れる。
ひんやりと冷や水をかけられたような冷たさに、ペーターは気付けばミランダを突き飛ばしていた。
「さ」幸運にも今回は袋の中身をぶちまけることなく、よろめくだけに留まったミランダの足元を凝視しながらペーターは叫んだ。「酒くせぇ!」
「なっ、今日は呑んでないわよ!」
当然抗議するミランダの声に背を向けて、ペーターは走り出した。ベンは嬉しげに足を動かしていたが、ペーターは全力疾走だ。
途中で誰かに声をかけられたが、そんなものは無視してペーターは走った。逃げるみたいに走った。
それなのに、家に帰ってもあの甘い香りは付きまとった。
散歩は、ベンの楽しみであるとともに彼の縄張りの確認やら排泄やらの時間でもある。
その日は、ペーターが愛犬の排泄物を片付ける前に悪戯仲間に遭遇した。
「なあ、それ、不幸女に投げつけてやろうぜ」
楽しげに誰かが提案した。それはしゃれになんねえんじゃねえの、誰かが言った気がしたが、ペーターも他の皆も無視した。酷い悪戯だとは理解していたし、ベンはやめましょうよと見上げてきていたけれど、全部無視した。
汚物でもくっつけられれば、あの女の匂いも消えてなくなるに違いない。
来た道を戻って、いつも不幸女が通る路地に出て待ち構える。
「不幸女がきたぞー!」
一番初めにペーターは叫んだ。彼の指差した方向に、一斉に仲間たちが目を向ける。
渾身の力で投げつけたそれは、けれどミランダには当たらなかった。
ミランダ自身が避けたようにも見えたが、それよりペーターの目には彼女を庇う様に立つ黒尽くめの男が彼女を護っているように見えた。
「なんだよアンタ」
後ろで仲間たちが喚いているのを聞きながら、ペーターは目の前の男をにらみつけて言った。なんだよアンタ。誰だよアンタ。何でそこに立っているんだよ。
黒いフードの下からは白髪が覗く。男は少し笑ったようだった。
「ダメだよ、君たち。女性には優しくしないと」
髪が白いからてっきり年寄りかと思ったのに、意外に声は若かった。だから余計に腹が立った。知ってるよそんなこと、とペーターは思った。
「アンタ、そいつと一緒にいると不幸になるぞ。不幸がうつるんだ」
「まさか」黒い白髪男は、道化がおどけるような仕草で肩をすくめて言った。あたかもペーター達の言うことの方が間違いで馬鹿馬鹿しいことなのだと言わんばかりに。「ミランダさんは、誰も不幸になんてしないよ」
余所者だから知らないんだとか、不幸女の癖に男を味方につけやがったとか、仲間たちのブーイングを聞きながら、知ってるよそんなこと、とペーターは呟いた。
次の日に季節は一気に進んだ。
悪魔が街にいたせいだと、教会の神父様が説明してくれた。そいつは皆が気付かないうちにエクソシストという人たちがやっつけてくれたのだと。
それから暫く、ミランダには朝も夕方も会わなかった。病院にいるのだという噂を聞いて、きっとあの不幸女が悪魔だったんだとか、あいつが悪魔を呼び込んだから、今は憲兵のところで捕まって閉じ込められているに違いないだとか、そんな話を子供たちがは囁いた。
けれどペーターは、あの日ミランダと一緒にいた黒尽くめの白髪男が悪魔だったに違いないと思った。その証拠に、ミランダの姿は次の週には街で見かけるようになったが、あの男はそれきり現れなかったのだから。
とにかくペーターたちの日常は何も変わらない。そのはずだった。
「ミランダ、引っ越すんだってさ」
彼女のアパートの前に停まる立派な設えの馬車を眺めていたら、通りかかった友人が教えてくれた。
雪が降っていた。
「マジ?」
「追い出されたんじゃなくて?」
アパートの扉が開いた。
出てきたのはミランダだった。昼間なのに、彼女は髪を下ろしている。雪の中でそれはふわふわと揺れていた。
「うわあ、不幸女だ!」
不幸女が出てきたぞ、道連れにされるぞ! 誰かがいつものように叫んで仲間たちが散る。
ペーターもそれに習おうとしたのに、ベンが動かなかった。
「おい、ベン」
ベンは尻尾を揺らして、わふんと一声鳴いた。何で動かないんだよ。
「ペーター?」
馬車の向こう側から、ミランダが呼んだ。彼女が自分の名前を口にするのを、ペーターはその時になって初めて聴いた。
「よかった、まだそこにいるの?」
何が良かったことがあるんだよ、ペーターは毒づいた。ペーターは早く逃げ出そうとしているのに、ベンが動かないだけなんだ。
「おいってば、ベン!」
そんなことをしているうちに、ミランダが傍まで来てしまった。眉間に皺のない顔で、相変わらず目の周りには濃い隈があるのに、険しさの取れた面持ちで。普段より少しばかり仕立てがいいらしいコートとマフラーを身につけたミランダだけがそこにいる。
あの白髪の悪魔はいない。当然だ。悪魔は退治された。
「…何だよ」
背の低さの分だけ精一杯にらみつけて、ペーターは唸った。
「なんとなくよ」いつになく柔らかな声音でミランダが言った。「あんたにはちょっと、縁があったじゃない」
「冗談じゃねえや!」
ベンは慌てて辺りを見回した。仲間がいたらからかわれるに決まっている。誰の姿も見つからなかったが、それでもペーターは大声で返した。
「そうね」
苦く笑うような声でミランダが言った。
笑うような? ペーターは彼女の顔を見ようとしたが、その前にミランダの手袋に包まれた手が目前に差し出された。ふわりと、甘い香りがした。いつか嗅いだあの匂いだ。その手のひらの上には人形がのっていた。
耳のない人形。
ない耳の替わりに、頭には耳当て付の帽子が載せられている。ペーターの帽子を模したものだ。
「結局、耳を作り直すのはできなかったんだけど。悪くないでしょう?」何処か誇らしげにミランダが言った。「あんたたちと話したのも、良くはなかったけど、たぶん、最悪じゃなかった」
だからあげる、とミランダは言った。
悪くなかった思い出に。そういうことなのだろう。ペーターは悟った。
思い出に。この、粗悪で気味の悪い耳のない人形に、この街のことを全部詰め込んで思い出にして押し付けて置き去りにして、関係ない顔でミランダは去ろうとしている。
ペーターは思わず差し出された手を人形ごと叩き落した。雪の上に人形がぽとりと落ちた。