解夏
「ねえ、帝人君」と彼は僕をまるで親しい友人のように呼び、気安く笑いかける。
緩やかな円運動を思わせる、衛星の様な彼の腕は重力に逆らうことの出来ない宇宙船で、何時も不安定に僕に触れる。
彼は歌う様に話すが、僕が彼に満足な答えを提示したことは無いのではないかと思われる。彼は博識で、とても聡明だ。
僕の世界は大変狭く、この白い部屋と彼、そして丸い天窓以外は存在しない。
どうして僕が日がな一日窓の外を見ながら何時来るともわからない終わりを、この部屋で待つことになったのかは、最初に教えて貰った気がするが、覚えていない。もしかすると、そんなことは一度だって言われなかったかもしれない。けれど僕は知っていた。終わりがくるのだと。
目を覚ましたと思ったら、すでに白い部屋に寝ていて、それ以前は思い出せなかった。そもそも僕にそれ以前は存在するのだろうか。
天井を天井と認識するまでの間に彼はやってきて、何か気遣う様な言葉を発した。僕は世界がまだ上手く把握出来ずに、ただ目に入る光が白だったり黒だったり赤だったり、音が弾けてぶつかったり砕けたり落ちたりして、その度に視界の隅を様々な色がチカチカ光るので黙っていることしかできなかった。
沈黙を守る僕を彼はホルマリン漬けを見るような目で見て、それから笑った。侮蔑の様な、嘲笑の様な、それでいて今にも泣き出しそうな、堪えていますと言う風だった。
「どなたですか?」
その音が空気を震わすにはかなりの時間を要した。新しく作られたばかりのオルガンか、何年も手入れをされていない錆びたクラリネットか、僕の声帯はどちらなのだろう。
「俺は臨也」
僕はその簡潔な自己紹介にはあ、と溜息の様な返事をした。ところが「いや、そんな事は知ってますよ」、と言いそうになって、僕はこの人を知らないからそれはおかしい、と首を捻る。頭の奥が重く痺れて、今にもまどろみの底に引きずり込まれそうだった。
「貴方は何?」
彼はどう見ても僕より年上だろう。もう少し言葉を選ぶ必要があったはずだけれど僕は眠くて眠くて、言葉の足りない質問をした。
「…………」
彼は答えあぐねている様だった。
息を詰めるような音がした気がする。
臨也、臨也……何だろう、懐かしい。
「……お父さん?」
こぼれるように言葉は転がった。
彼の瞳が揺らぐ。いや、僕の視界が揺れているのだろうか。
「…………そうだよ」
彼もまた長い時間を要して、そう呟くように言った。
誰も聞くことのないのに音を奏で続ける、永久機関を備えたオルゴールみたいな、寂しい声だった。
「臨也さんはちょっとホールデンっぽいですね」
僕が天窓を仰ぎながらぽつりと言うと、彼は新書から顔を上げて、視線を漂わせた。
「…………ああ、サリンジャーの?」
「はい。村上さんの訳じゃない方の。語り口というか、淀みなさが似てます」
「それって誉めてないよね」
「僕は好きですよ」
「ふうん。……でも、彼は少し若すぎない?」
「だからちょっとですって。本当に、少しだけ」
「……」
俺は君の方がずっとそんな感じがするけどなあ、と彼はどこか遠くを見る様な目で僕を見た。
「僕が?」
「ああ、いや。ホールデンじゃなくて、本の方。禁書っぽい」
僕は思わず噴き出してしまった。
「なんです、それ」
「なんだろうね」
彼が怒った所を僕は見たことがない。
夏の日差しに透けそうな白い出で立ちをしている彼は何時も何所かが痛いという風に今にも雪崩そうな、危うい微笑を浮かべている。
僕は思い出さないといけないのだろうか。彼がそんな顔をする理由を。
臨也さんは初めて会った時自らを父親だと名乗ったけれど「お父さん」と呼ばれる事を嫌った。「臨也さん」と肩に乗せた手に力を込めたその形相は紛れもなく脅迫めいていたと思う。
だから、僕は父を臨也さんと呼ぶ。
「そう言えば、初めて臨也さんの名前を聞いた時、とても覚えがあったんですよ。それで父親だって言われて、なんだかそうだったような気がしたので、多分そうなんでしょうね」
臨也さんはとても僕みたいな子どもの父親だとは思えないくらい若く見える。いや、もしかしたら僕は僕が思ってる以上に子どもなのかもしれない。反対に彼が妖怪並みに年齢に見合わない容姿なのかもしれないけれど。
臨也さんは一日中僕の部屋に入り浸っている。
お仕事とか色々な事を聞いたけれど「君はそんなこと何にも心配しなくて良いんだよ」と僕の髪をすくばかりで何も話さない。
彼は慈しむように僕の傍にいる。
猫がじゃれるように話し、触れて、笑う。
彼が僕を息子と言うよりは友人のように接するのは、僕が彼を完全に父親として接することが出来ないでいるからなのだろうか。
その肩はじっと耐えている様だった。
僕の目を覗く彼は、待っている様だった。
僕は思い出さないといけないのだろう。
彼が今にも泣きそうな理由を。
彼にそんな顔をさせる、僕は一体何なのかを。
哀れな父親を、僕は救う事ができるのだろうか。
僕が終わってしまう前に。
池袋には妖精がいる。
池袋に妖精がいるくらいだから、世界中に妖精はいる。
岸谷新羅が北欧の妖精に出会った様に、竜ヶ峰帝人も妖精に出会った。
瓶の中の妖精に。
悪戯好きの無邪気で残酷な妖精に。
妖精は笑う。
嗚呼、嗚呼、やっと出られた。ありがとう。ありがとう。瓶から出してくれた君に僕の愛を。命限りある、愚かな人に僕の愛を。
そして彼はその身に呪いを受けた。
太古の精霊の、汚濁を。
ただ終わるのだという。
緩やかに衰退していく精神と体。
今、どうやって彼が生きているのかは謎だ。
彼は何も摂取していないし、呼吸も、臓器が何一つ機能していないのに。
それでも彼は話すし笑う。瞬きだってする。
人間らしく見える様に精巧に作られた、それはまるで魔法の人形だ。
何時止まるともわからない、ねじ巻き式の人形だ。
彼は昔の様に思考を巡らせる事が出来ない。教えた事も大体はすぐに忘れてしまう。
終わってゆく。
雪の降り続ける世界の様に。終わりゆく世界に彼は終息していく。
それは、指の隙間からこぼれ落ちる様な酷い焦燥感だった。
次の瞬間に彼は事切れるかもしれないのに、俺には確定された未来がある。明日死ぬかもしれないなんて、彼と俺の確率はなんて絶望的な離れ方をしているのだろう。
悲しくて、とても悔しかったから、俺は彼を閉じ込めてしまった。もう二度と、俺以外の誰から幸も不幸も与えられないように。
俺は一日の大半を彼の為に用意した部屋で過ごす。
朝、帝人君の部屋に入ると彼はゆっくりと俺に目をやった。
明かりとりの天窓の下で、睫毛を震わせる少年は今にも水が染み込むようにいなくなってしまいそうだ。
彼は小さな部屋の中で一日中ベッドに横たわって俺とだけ話し、窓の外を眺めている。これからもずっと、それが変わることはないだろう。いなくなってしまうまで。
ベッドの傍らの椅子に腰掛け、彼がここに有るという僅かな気配を慎重に押さえながら、俺は新書へ目を落とす。
緩やかな円運動を思わせる、衛星の様な彼の腕は重力に逆らうことの出来ない宇宙船で、何時も不安定に僕に触れる。
彼は歌う様に話すが、僕が彼に満足な答えを提示したことは無いのではないかと思われる。彼は博識で、とても聡明だ。
僕の世界は大変狭く、この白い部屋と彼、そして丸い天窓以外は存在しない。
どうして僕が日がな一日窓の外を見ながら何時来るともわからない終わりを、この部屋で待つことになったのかは、最初に教えて貰った気がするが、覚えていない。もしかすると、そんなことは一度だって言われなかったかもしれない。けれど僕は知っていた。終わりがくるのだと。
目を覚ましたと思ったら、すでに白い部屋に寝ていて、それ以前は思い出せなかった。そもそも僕にそれ以前は存在するのだろうか。
天井を天井と認識するまでの間に彼はやってきて、何か気遣う様な言葉を発した。僕は世界がまだ上手く把握出来ずに、ただ目に入る光が白だったり黒だったり赤だったり、音が弾けてぶつかったり砕けたり落ちたりして、その度に視界の隅を様々な色がチカチカ光るので黙っていることしかできなかった。
沈黙を守る僕を彼はホルマリン漬けを見るような目で見て、それから笑った。侮蔑の様な、嘲笑の様な、それでいて今にも泣き出しそうな、堪えていますと言う風だった。
「どなたですか?」
その音が空気を震わすにはかなりの時間を要した。新しく作られたばかりのオルガンか、何年も手入れをされていない錆びたクラリネットか、僕の声帯はどちらなのだろう。
「俺は臨也」
僕はその簡潔な自己紹介にはあ、と溜息の様な返事をした。ところが「いや、そんな事は知ってますよ」、と言いそうになって、僕はこの人を知らないからそれはおかしい、と首を捻る。頭の奥が重く痺れて、今にもまどろみの底に引きずり込まれそうだった。
「貴方は何?」
彼はどう見ても僕より年上だろう。もう少し言葉を選ぶ必要があったはずだけれど僕は眠くて眠くて、言葉の足りない質問をした。
「…………」
彼は答えあぐねている様だった。
息を詰めるような音がした気がする。
臨也、臨也……何だろう、懐かしい。
「……お父さん?」
こぼれるように言葉は転がった。
彼の瞳が揺らぐ。いや、僕の視界が揺れているのだろうか。
「…………そうだよ」
彼もまた長い時間を要して、そう呟くように言った。
誰も聞くことのないのに音を奏で続ける、永久機関を備えたオルゴールみたいな、寂しい声だった。
「臨也さんはちょっとホールデンっぽいですね」
僕が天窓を仰ぎながらぽつりと言うと、彼は新書から顔を上げて、視線を漂わせた。
「…………ああ、サリンジャーの?」
「はい。村上さんの訳じゃない方の。語り口というか、淀みなさが似てます」
「それって誉めてないよね」
「僕は好きですよ」
「ふうん。……でも、彼は少し若すぎない?」
「だからちょっとですって。本当に、少しだけ」
「……」
俺は君の方がずっとそんな感じがするけどなあ、と彼はどこか遠くを見る様な目で僕を見た。
「僕が?」
「ああ、いや。ホールデンじゃなくて、本の方。禁書っぽい」
僕は思わず噴き出してしまった。
「なんです、それ」
「なんだろうね」
彼が怒った所を僕は見たことがない。
夏の日差しに透けそうな白い出で立ちをしている彼は何時も何所かが痛いという風に今にも雪崩そうな、危うい微笑を浮かべている。
僕は思い出さないといけないのだろうか。彼がそんな顔をする理由を。
臨也さんは初めて会った時自らを父親だと名乗ったけれど「お父さん」と呼ばれる事を嫌った。「臨也さん」と肩に乗せた手に力を込めたその形相は紛れもなく脅迫めいていたと思う。
だから、僕は父を臨也さんと呼ぶ。
「そう言えば、初めて臨也さんの名前を聞いた時、とても覚えがあったんですよ。それで父親だって言われて、なんだかそうだったような気がしたので、多分そうなんでしょうね」
臨也さんはとても僕みたいな子どもの父親だとは思えないくらい若く見える。いや、もしかしたら僕は僕が思ってる以上に子どもなのかもしれない。反対に彼が妖怪並みに年齢に見合わない容姿なのかもしれないけれど。
臨也さんは一日中僕の部屋に入り浸っている。
お仕事とか色々な事を聞いたけれど「君はそんなこと何にも心配しなくて良いんだよ」と僕の髪をすくばかりで何も話さない。
彼は慈しむように僕の傍にいる。
猫がじゃれるように話し、触れて、笑う。
彼が僕を息子と言うよりは友人のように接するのは、僕が彼を完全に父親として接することが出来ないでいるからなのだろうか。
その肩はじっと耐えている様だった。
僕の目を覗く彼は、待っている様だった。
僕は思い出さないといけないのだろう。
彼が今にも泣きそうな理由を。
彼にそんな顔をさせる、僕は一体何なのかを。
哀れな父親を、僕は救う事ができるのだろうか。
僕が終わってしまう前に。
池袋には妖精がいる。
池袋に妖精がいるくらいだから、世界中に妖精はいる。
岸谷新羅が北欧の妖精に出会った様に、竜ヶ峰帝人も妖精に出会った。
瓶の中の妖精に。
悪戯好きの無邪気で残酷な妖精に。
妖精は笑う。
嗚呼、嗚呼、やっと出られた。ありがとう。ありがとう。瓶から出してくれた君に僕の愛を。命限りある、愚かな人に僕の愛を。
そして彼はその身に呪いを受けた。
太古の精霊の、汚濁を。
ただ終わるのだという。
緩やかに衰退していく精神と体。
今、どうやって彼が生きているのかは謎だ。
彼は何も摂取していないし、呼吸も、臓器が何一つ機能していないのに。
それでも彼は話すし笑う。瞬きだってする。
人間らしく見える様に精巧に作られた、それはまるで魔法の人形だ。
何時止まるともわからない、ねじ巻き式の人形だ。
彼は昔の様に思考を巡らせる事が出来ない。教えた事も大体はすぐに忘れてしまう。
終わってゆく。
雪の降り続ける世界の様に。終わりゆく世界に彼は終息していく。
それは、指の隙間からこぼれ落ちる様な酷い焦燥感だった。
次の瞬間に彼は事切れるかもしれないのに、俺には確定された未来がある。明日死ぬかもしれないなんて、彼と俺の確率はなんて絶望的な離れ方をしているのだろう。
悲しくて、とても悔しかったから、俺は彼を閉じ込めてしまった。もう二度と、俺以外の誰から幸も不幸も与えられないように。
俺は一日の大半を彼の為に用意した部屋で過ごす。
朝、帝人君の部屋に入ると彼はゆっくりと俺に目をやった。
明かりとりの天窓の下で、睫毛を震わせる少年は今にも水が染み込むようにいなくなってしまいそうだ。
彼は小さな部屋の中で一日中ベッドに横たわって俺とだけ話し、窓の外を眺めている。これからもずっと、それが変わることはないだろう。いなくなってしまうまで。
ベッドの傍らの椅子に腰掛け、彼がここに有るという僅かな気配を慎重に押さえながら、俺は新書へ目を落とす。