So Young
あの時より、身も心も成長した張平がいる。自分の腕の中で、寂しさに泣いている。
不意に、いとおしさがこみ上げた。胸が、熱くなる。それと同時に、せつなさに締め付けられる。
張平の目尻からこぼれた涙を、唇で掬い取った。かすかに塩辛い味がした。
張平が、目を見開いて楊令の顔を見上げたが、構わず張平の頬や瞼に唇を付けた。
自分でも、何をしているのか、と思ったが、止められなかった。
瞼に口づけられて目を閉じた張平の、唇に目が行った。口を吸いたい、と思って、我に返った。
張平は、この間の女とは違うし、まだ子供だ。
閉じた瞼をゆっくりと開いて、張平が見つめてきた。
「兄上?」
張平の小さな頭を抱き、耳元に唇を寄せた。
「私には、お前がいる。お前がいて、よかったよ」
囁くと、張平はくすぐったそうに身じろいだ。楊令の腕の中にすっぽりと収まる小さな体が、小動物のように可愛らしかった。
もうすこし、このままでいたいと思う気持ちを押し戻し、楊令は体を離した。
「帰ろうか、日が暮れてしまう前に戻らなくてはな」
立ちあがり、歩き出すと、張平も籠を抱えて後を追ってきた。
楊令は、歩くのが速い。
籠を抱えて、遅れないようについて行きながら、自分の鼓動が大きく打つのを、張平は感じていた。
顔のあちこちに、唇の感触が、生々しく残っている。背中には、楊令の掌の暖かさがある。
頬が、火照っている。きっと赤くなっているのだろう。赤い顔を楊令や王進に見られるのは恥ずかしかった。
楊令が、自分の唇を見つめていたことに、気づいていた。なぜ見つめられたのかは分からないが、自分でもどうしようもない程、心臓の音が激しくなった。
張平にとっての楊令は、実の兄以上の存在だ。乱暴者の張敬とは違う。何でもよく知っていて、問うと、いつも答えが返ってくる。武術も、並の大人ではかなわないだろうことは、里に出て周囲の大人を見ていれば分かる。やさしくて、時々厳しい。側にいて欲しいと思ったら、さりげなく近くにいる。ひたすら憧れて、少しでもこの人に近づきたい。そう思える存在だった。
ずっと、側にいられるわけではないと、この数日間で気づいた。
楊令は、今よりずっと大人になって、いつかここを出ていく。
その日はきっと、そう遠くない。
その時に、自分はどうなるのだろうか。まだ子供で未熟な自分に、一緒についていくことが許されるはずもない。
出来ることは、いつか楊令の側に立てるよう、鍛練を重ねることだけだ。そう思い定めても、なにか心にしこりのように残っていた。
楊令が、お前がいてよかった、と囁いた。
その言葉で、心のしこりは溶けていった。
楊令が、自分のことを忘れてしまうかもしれないという不安が、心の奥にあったことを知った。楊令は、張平自身も気づいていなかった不安に気づいて、そう言ってくれたのかもしれない。
前を行く楊令が、少しだけ振り返った。
ちらりと見えた、横顔。頬の赤い痣が見えた。あの痣を間近でみたのは、今日が初めてだ。
自分の頬に、手をやった。
頬を撫でた楊令の手は、いつも棒や剣を握るためか皮膚が硬くて、でも暖かかった。涙を舐めた唇は、はっとするほど柔らかかった。
この感触を、ずっと忘れないでおこう。
自分が大きくなって、堂々と楊令の隣に立てるようになるまで。
東の空が、うっすらと暗くなり始めていた。
あの空の向こうに、梁山泊がある。
end