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水勢Maximum

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休み時間が訪れた。鐘の音が鳴り止む前に、細田の席にふたりの男子が近づいてくる。
 顔を上げ、もう我慢できないと目で訴えても、彼らはニヤニヤ笑うばかりだ。
 周囲のクラスメート達は時折不審げな視線を投げ掛けるが、細田と目が合うと慌てて目を逸らしてしまう。
 中には、細田が置かれている状況を完全に理解しながらそれを嘲笑う者もいた。
 
 登校してからもう三時間、一度もトイレに行かせて貰えていない。行こうとすれば、彼らの鉄拳が襲ってくる。
 撲られるのは嫌だ。痛いのは辛い。放課後までは我慢だ。一日が終われば、彼らから解放される。
 細田は歯を食い縛り、脂汗を垂らしながら、じっと座っていた。
 
 しかし奮闘空しく、その日は授業中に小便を漏らしてしまった。
 制服のスラックスから染み出た液体が椅子から垂れ落ち、床に水たまりを作る。辺りにはアンモニア臭が漂い始め、事態に気付いた生徒達は席を立って騒ぎ出した。
 
 教科担任が授業を中断し、細田の元へ駆け付ける。とまどいと呆れの入り混じった目で細田を見下ろし、周りの生徒にバケツに水を汲んでくるように言い付けた。
 
「細田君、君は着替えてきなさい」
 
 酷く、惨めな気分だった。細田は立ち上がり、体操着が入った鞄を掴んで、逃げるように教室を飛び出した。
 
 
 ──いじめがはじまったのは、五月半ばのことだった。
 太っていて動きが鈍く、勉強の成績も下の下という細田は、自分より立場の弱い者をいたぶりたいと欲するクラスの落ちこぼれ達にとって、かっこうの餌食だったのだ。 はじめのうちは軽いからかいやパシリに留まっていたが、そのやり口はだんだんとエスカレートし、今では「細田をトイレに行かせない」という陰湿で屈辱的なものに変わっていた。
 
 
 トイレにこもり、後始末をして体操着に着替える。
 ──教室には戻れない。このまま家に帰ってしまおうか。
 憂鬱な気分であてもなく廊下を歩いていると、前方から声をかけられた。
 
「あれ、細田さん?」
 
 六月のはじめに新聞部で行われた七不思議の集会で出会った、坂上修一だ。細田は怖い話をする語り部のひとりとして招かれ、坂上は聞き役として参加していた。
 
 細田は坂上を一目見た瞬間から、運命的なものを感じた。彼と自分は魂のねっこの部分で繋がっている、仲良くなれるに違いない。そう思った。
 予感に違わず、坂上は細田のトイレに纏わる話に真剣に耳を傾け、わかりやすい記事にまとめてくれた。しかも、一緒に帰らないかと誘えば、快く応じてくれるようになったのだ。
 
「や、やあ……」
 
 細田は笑いかけてくる坂上に応えようとして、ギクリと顔をこわばらせた。
 坂上の後ろの方から、いじめっ子達がゆったりと歩いてくる。
 
 自分がこの可愛い後輩と仲がいいことを知ったら、彼らはどう思うだろうか。
 ──坂上を巻き込みたくない。
 
 細田は咄嗟にきびすをかえし、断腸の想いで坂上から逃げた。
 それから細田は、坂上を避け続けた。
 坂上はそんな細田の態度に思い悩んだ。
 
 自分は知らないうちに細田を傷つけるようなことをしたのだろうか。
 もう、嫌われてしまったのだろうか──。
 
 
 
 
 
 

「坂上君?どうしたんですか?」
 
 二年生の教室が並ぶ廊下の途中で、迷子のように立ち尽くす坂上を見つけた荒井は、不思議に思って声をかけた。
 
「あ、荒井さん……」
 
 振り返った坂上は、暗く思いつめた表情をしている。
 これは何かある、と覚った荒井は、坂上を連れて屋上に向かった。
 
「何か、悩んでいるんじゃありませんか。お役に立てるかわかりませんが、僕でよければ話してくれませんか?」
 
 人気がないのを確認してベンチに腰掛け、相談を促す。坂上は、ぽつりぽつりと話し始めた。
 
「実は……最近、細田さんに避けられている気がするんです」
「細田さんに、ですか……?」
 
 荒井は意外な内容に驚いた。細田のあの粘着質な態度にうんざりした坂上が彼を避ける、というならまだ理解できるが、その逆とは一体どういうことなのだろうか。
 
「ええ。話し掛けようとしても、無視して通り過ぎてしまいますし、目も合わせてくれません。僕は、細田さんに嫌われるようなことをしたんでしょうか……」
「心当たりは、無いんですか?」
「それが、まったく思い当たらなくて……」
 
 荒井はしばし思案してから、原因は坂上ではなく細田自身にあるのではないかと考えた。
 
(そういえば……細田さんは最近、クラスメートから執拗な嫌がらせを受けている様子でしたね……)
 
 クラスは違えど、荒井は細田と同学年だ。通り掛かりに、そういう場面に出くわす機会は何度かあった。
 荒井はいじめなどを行うような低能な人間を快くは思っていなかったし、憎んですらいた。
 しかし、他学級の事であり、細田の個人的な問題であるからと、係わり合いを持つつもりはなかった。
 とはいえ、そのことが坂上の悲しみに関わっているというなら話は別だ。
 
(大方、細田さんは坂上君をいじめに巻き込みたくないのでしょうが……)
 
 それならば、細田の気持ちはよくわかる。事情を坂上に教えることも憚られた。
 自分が細田の立場なら、クラスメートからいじめを受けているなど、坂上には死んでも知られたくない。
 
「……わかりました。今度細田さんにそれとなく事情を聞いてみましょう」
 
 荒井は考えたあげくに、そう言って坂上を慰めた。
 
 細田が坂上を避け続けるかぎり、坂上の心は晴れないだろう。その状態が続くのは、荒井としても好ましいことではない。
 
(さて、どうしましょうか……)
 
 解決策を検討しはじめた矢先、殺人クラブの召集があった。
 七不思議の集会以来、久し振りの活動だ。坂上の影響で角が丸くなった筈の日野に殺意を抱かせたということは、今回の標的は相当の罪人に違いない。
 
(腕が鳴りますね……ひひひひひ……)
 
 放課後、お馴染みの新聞部に細田以外のメンバーが集まると、日野は深刻な表情で切り出した。
 
「最近、坂上が妙に落ち込んでいてな。俺の大事な後輩を悲しませるものは、何であれ赦すわけにはいかない。本人に問い質したところ、細田が坂上を避けている事が直接の原因だと判明した」
 
「なんだと!?逆じゃねぇのかよ?」
「細田の分際で坂上君を避けるなんて、身の程知らずにもほどがあるね」
「さっそく制裁を与えましょうか……うふふふ」
 
「まあ待て、お前ら。先ずはこれを見てくれ」
 
 早速怒りをあらわにするメンバーを制して、日野は一枚の写真を黒板に叩きつける。
 それには、細田がクラスメートから暴力を受けている場面がはっきりと写っていた。
 
 
 
 
 
 
 また、今日も惨めな一日が始まる。
 殴られて腫れ上がった頬を包帯の上から摩りつつ、憂鬱な気分で教室に入った細田は、予想外の光景に唖然とした。
 昨日まで細田をいじめていた二人の机の上に、ひっそりと花瓶が乗っている。
 クラスメート達は噂話に夢中で誰も細田に目を向けず、低い囁きの中で「自殺」という言葉が耳についた。
 
作品名:水勢Maximum 作家名:_ 消