夏を飲む
この四畳半は、お世辞にも快適とは言えない。
それでも僕はこの四畳半に、それなりの愛着を持っている。
たとえ誰かが「こんな小屋、家とは言えない!」と蔑んだとしても、僕にとってこの四畳半は、城なのだ――暑さでぼんやりとする頭で、そんなことを考える。
確かに、この四畳半にそれなりの愛着を持っていることは確かだし、この四畳半は僕にとって城のようなものだ。ただ、いくらこの四畳半に愛着があったとしても、この些か暑すぎる室温までは、愛せない。
むわっとした熱気の籠もる四畳半に、Tシャツと中学時代の体操服のハーフパンツを着用して畳に大の字で寝ころんでいる汗だくの男――それが僕だ。
こんなだらしのない姿、他の人――特に園原さん――には絶対に見せられない。
「あっつ……い」
誰に聞かせるわけでもない言葉が、息を吐くみたいに自然と口からこぼれる。
その一言を皮切りに、「暇だ」とか「暑い」とか「喉乾いた」とか、つまらないことばかりが口からポロポロと溢れて消えた。
天井をぼーっと見つめていた首を横に倒す。日に焼けて茶色くなった畳に、団扇が転がっている。
さっきまで、その団扇に涼しさを求めていたのだが、いくら必死に扇いだところで僕の身に届くのは湿った温い風ばかりで、快適を求めたはずの行動によって僕は不快感を得ることになってしまった。そして涼しさを提供するという職務を遂行することのできなかった団扇は、可哀想に、畳に放り投げられてしまったというわけだ。
まだ夏本番とは到底いえないだろうに、今からこんなに暑くて、大丈夫なのだろうか。
僕は人間だから水分さえ採っていれば多少暑くても耐えられるだろうけれど、パソコンや携帯といった精密機器はそうはいかない。
彼らは、丈夫に見えてかなり繊細だから、あまり過酷な労働を強いることはできない。万が一故障なんてことになったら修理代もバカにならないし、ダラーズも少しの間管理しにくくなる。
それに僕は新聞を取っていないうえにテレビはこのパソコンを使って観ているため、あらゆる情報から隔離されてしまう。それは、僕にとってなんとしても避けたい状態だ。
はぁ、と小さく溜め息をもらしながら、午前中の暑さで早くも音を上げてしまったパソコンの今後を案じた。
午前中、行きつけのチャットで会話を楽しんでいたのだが、部屋の暑さに耐えきれなかったのか、パソコンが不穏な音をたて始めた。話の途中で抜けるのは失礼かと思ったけれど、パソコンをお陀仏させるわけにはいかないから手短に事情を説明し、チャットを抜けた。
今まで聞いたことのないくらい苦しげな音を立てながら懸命にファンを回す姿に申し訳なさを感じながら、パソコンの電源を落とした。
暗くなった画面を見つめて、心の中で謝罪をする。
ファンが回る音がしない部屋は、とても静かに感じられた。
なんだか、世界から切り取られた気分だった。
開けはなっている窓辺から、先日買った風鈴の音が聞こえてくる。
風鈴からは、チリンチリンというより、カコンカコンと、お世辞にも透き通っているとはいえない音がする。
さっきまで気にならなかったカコンカコンが、何度も僕の意識に入り込む。
『暇つぶし』と『ネット』がイコールで繋がれている僕は、うまい休日の過ごし方を知らない。
何をしようかと考えて無為に時間だけを食いつぶしているうちに太陽は高くなり、それに比例するように気温も高くなり、僕はすっかりその暑さにやられてしまった。そして、今に至る。
カコンカコン。
コンコン。
安い風鈴が鳴っているということは風が吹いているのだろうが、残念ながらその風を感じることはできない。
僕の体温を吸って熱を持ってしまった畳から逃げるように身をよじると、お腹が少し鳴った。
そういえば、今日はまだ何も食べていなかったことに気がついた。
腹は鳴ったけれど、食欲があるかと問われると、微妙だ。
あれば食べるし、なければ食べないといったところだろうか。
それに、今は火を使う気にも外に出来合いの物を買いに行く気にもなれない。
じっとりとした暑さが、体全体に纏わりついているようだ。
形を持った倦怠が、その、のっそりとした体をもって、僕のことを容赦なく押しつぶそうとする。
頭がぼんやりとして、自分が今何を考えているかも曖昧だ。
白く霧のかかったような思考しか出来なくなってしまった額に手を当てる。さっきまでしきりに垂れていた汗は、不思議と止まっていた。
次第に目を開けているのすら億劫になってきて、僕は静かに目を閉じた。
寝苦しさを感じて目をあけると、そこにはいるはずのない人間が逆さまになって僕を見下ろしていた。
「あ、おはよう。帝人君」
「臨也さん……どっから入ってきたんですか?」
にこにこと爽やかに笑う逆さまの男は真っ黒で、見ているだけで体感温度があがりそうだ。ここに来る途中で買い物をしてきたのか、足元にビニール袋が転がっている。
「どっからって玄関に決まってるじゃないか。というか、いくらここがボロ家で泥棒から目を付けられにくいからって、玄関開けっ放しにして眠るのは些か不用心過ぎるんじゃないかなぁ、変な人が押し入ってきたら帝人君みたいな細っこい子供、直ぐに有り金取られて凶器でグッサリ、ジ・エンドってとこだね。
押し入ってきたのが俺でよかったと思わないかい?
俺は金に興味ないし、寝入ってる家主に代わって君の暑苦しい四畳半の城にちゃんと鍵もかけてあげる至極良識的な大人だからね。全く、感謝してほしいくらいだよ、少なくともこれで君は見知らぬ変人に有り金取られて凶器でグッサリやられて人生にジ・エンドって可能性から遠のいたわけなんだからさ」
僕の顔をのぞき込むように見つめながら、臨也さんが暗記したお経を読み上げるようにつらつらと言葉を紡ぐ。
そういえば、少しでも風通しを良くするために玄関を開けはなっていたのをすっかり忘れていた。
文章の途中で『至極良識的な』とか『凶器』とか、突っ込むべき単語が幾つか含まれていたような気もしたが、眠気とだるさと正体不明のもやもやによって霞む思考では、そんなことまで気が回らなかった。
「……それで、今日は一体どうしたんですか?」
もやもやする頭に煩わしさを感じながら尋ねると、それを聞かれるのを待っていたんだと言わんばかりに、臨也さんが微笑んだ。
逆さまの臨也さんが「ほら」と言って、ビニール袋からラムネの入った瓶を取り出し、僕に向かって見せた。
「帝人君、チャットで部屋が暑くて大変だって言ってたから、お土産もってきてあげたよ」
「あ……りがとうございます」
そういえば、チャットを抜けるときそんな事を言った気がする。
まさか、臨也さんがそれを気に留めるなんて思っていなかったから、驚いた。
臨也さんが、誇らしげに瓶を揺らす。
光を吸った青い瓶の中で、ガラス玉がきらりと光る。
その光が、瓶に付いた水滴に反射して、僕と畳に水面のような模様を映し出した。
たぷたぷと揺れる模様を見て、昔正臣と行った市民プールを思い出した。
僕は生憎潜水が得意ではなかったから長時間は潜っていられなかったけれど、ゴーグル越しに見上げた水面は、確か、あんな色をして光っていた。
それでも僕はこの四畳半に、それなりの愛着を持っている。
たとえ誰かが「こんな小屋、家とは言えない!」と蔑んだとしても、僕にとってこの四畳半は、城なのだ――暑さでぼんやりとする頭で、そんなことを考える。
確かに、この四畳半にそれなりの愛着を持っていることは確かだし、この四畳半は僕にとって城のようなものだ。ただ、いくらこの四畳半に愛着があったとしても、この些か暑すぎる室温までは、愛せない。
むわっとした熱気の籠もる四畳半に、Tシャツと中学時代の体操服のハーフパンツを着用して畳に大の字で寝ころんでいる汗だくの男――それが僕だ。
こんなだらしのない姿、他の人――特に園原さん――には絶対に見せられない。
「あっつ……い」
誰に聞かせるわけでもない言葉が、息を吐くみたいに自然と口からこぼれる。
その一言を皮切りに、「暇だ」とか「暑い」とか「喉乾いた」とか、つまらないことばかりが口からポロポロと溢れて消えた。
天井をぼーっと見つめていた首を横に倒す。日に焼けて茶色くなった畳に、団扇が転がっている。
さっきまで、その団扇に涼しさを求めていたのだが、いくら必死に扇いだところで僕の身に届くのは湿った温い風ばかりで、快適を求めたはずの行動によって僕は不快感を得ることになってしまった。そして涼しさを提供するという職務を遂行することのできなかった団扇は、可哀想に、畳に放り投げられてしまったというわけだ。
まだ夏本番とは到底いえないだろうに、今からこんなに暑くて、大丈夫なのだろうか。
僕は人間だから水分さえ採っていれば多少暑くても耐えられるだろうけれど、パソコンや携帯といった精密機器はそうはいかない。
彼らは、丈夫に見えてかなり繊細だから、あまり過酷な労働を強いることはできない。万が一故障なんてことになったら修理代もバカにならないし、ダラーズも少しの間管理しにくくなる。
それに僕は新聞を取っていないうえにテレビはこのパソコンを使って観ているため、あらゆる情報から隔離されてしまう。それは、僕にとってなんとしても避けたい状態だ。
はぁ、と小さく溜め息をもらしながら、午前中の暑さで早くも音を上げてしまったパソコンの今後を案じた。
午前中、行きつけのチャットで会話を楽しんでいたのだが、部屋の暑さに耐えきれなかったのか、パソコンが不穏な音をたて始めた。話の途中で抜けるのは失礼かと思ったけれど、パソコンをお陀仏させるわけにはいかないから手短に事情を説明し、チャットを抜けた。
今まで聞いたことのないくらい苦しげな音を立てながら懸命にファンを回す姿に申し訳なさを感じながら、パソコンの電源を落とした。
暗くなった画面を見つめて、心の中で謝罪をする。
ファンが回る音がしない部屋は、とても静かに感じられた。
なんだか、世界から切り取られた気分だった。
開けはなっている窓辺から、先日買った風鈴の音が聞こえてくる。
風鈴からは、チリンチリンというより、カコンカコンと、お世辞にも透き通っているとはいえない音がする。
さっきまで気にならなかったカコンカコンが、何度も僕の意識に入り込む。
『暇つぶし』と『ネット』がイコールで繋がれている僕は、うまい休日の過ごし方を知らない。
何をしようかと考えて無為に時間だけを食いつぶしているうちに太陽は高くなり、それに比例するように気温も高くなり、僕はすっかりその暑さにやられてしまった。そして、今に至る。
カコンカコン。
コンコン。
安い風鈴が鳴っているということは風が吹いているのだろうが、残念ながらその風を感じることはできない。
僕の体温を吸って熱を持ってしまった畳から逃げるように身をよじると、お腹が少し鳴った。
そういえば、今日はまだ何も食べていなかったことに気がついた。
腹は鳴ったけれど、食欲があるかと問われると、微妙だ。
あれば食べるし、なければ食べないといったところだろうか。
それに、今は火を使う気にも外に出来合いの物を買いに行く気にもなれない。
じっとりとした暑さが、体全体に纏わりついているようだ。
形を持った倦怠が、その、のっそりとした体をもって、僕のことを容赦なく押しつぶそうとする。
頭がぼんやりとして、自分が今何を考えているかも曖昧だ。
白く霧のかかったような思考しか出来なくなってしまった額に手を当てる。さっきまでしきりに垂れていた汗は、不思議と止まっていた。
次第に目を開けているのすら億劫になってきて、僕は静かに目を閉じた。
寝苦しさを感じて目をあけると、そこにはいるはずのない人間が逆さまになって僕を見下ろしていた。
「あ、おはよう。帝人君」
「臨也さん……どっから入ってきたんですか?」
にこにこと爽やかに笑う逆さまの男は真っ黒で、見ているだけで体感温度があがりそうだ。ここに来る途中で買い物をしてきたのか、足元にビニール袋が転がっている。
「どっからって玄関に決まってるじゃないか。というか、いくらここがボロ家で泥棒から目を付けられにくいからって、玄関開けっ放しにして眠るのは些か不用心過ぎるんじゃないかなぁ、変な人が押し入ってきたら帝人君みたいな細っこい子供、直ぐに有り金取られて凶器でグッサリ、ジ・エンドってとこだね。
押し入ってきたのが俺でよかったと思わないかい?
俺は金に興味ないし、寝入ってる家主に代わって君の暑苦しい四畳半の城にちゃんと鍵もかけてあげる至極良識的な大人だからね。全く、感謝してほしいくらいだよ、少なくともこれで君は見知らぬ変人に有り金取られて凶器でグッサリやられて人生にジ・エンドって可能性から遠のいたわけなんだからさ」
僕の顔をのぞき込むように見つめながら、臨也さんが暗記したお経を読み上げるようにつらつらと言葉を紡ぐ。
そういえば、少しでも風通しを良くするために玄関を開けはなっていたのをすっかり忘れていた。
文章の途中で『至極良識的な』とか『凶器』とか、突っ込むべき単語が幾つか含まれていたような気もしたが、眠気とだるさと正体不明のもやもやによって霞む思考では、そんなことまで気が回らなかった。
「……それで、今日は一体どうしたんですか?」
もやもやする頭に煩わしさを感じながら尋ねると、それを聞かれるのを待っていたんだと言わんばかりに、臨也さんが微笑んだ。
逆さまの臨也さんが「ほら」と言って、ビニール袋からラムネの入った瓶を取り出し、僕に向かって見せた。
「帝人君、チャットで部屋が暑くて大変だって言ってたから、お土産もってきてあげたよ」
「あ……りがとうございます」
そういえば、チャットを抜けるときそんな事を言った気がする。
まさか、臨也さんがそれを気に留めるなんて思っていなかったから、驚いた。
臨也さんが、誇らしげに瓶を揺らす。
光を吸った青い瓶の中で、ガラス玉がきらりと光る。
その光が、瓶に付いた水滴に反射して、僕と畳に水面のような模様を映し出した。
たぷたぷと揺れる模様を見て、昔正臣と行った市民プールを思い出した。
僕は生憎潜水が得意ではなかったから長時間は潜っていられなかったけれど、ゴーグル越しに見上げた水面は、確か、あんな色をして光っていた。