それを魔法と呼ぶのなら
「あ、ああ、いいですよ。オレ、何買うかまだ決まってないんで」
ハイのひとつ返事で軽く済むものを馬鹿正直に応えてしまい、すこし恥ずかしくなる。
彼は俺の返事を聞くとまもなく、それが合図だったとばかりにいつものエスプレッソティーを手に入れるべく、緑に点灯しているボタンを静かに押す。
ガコンという音がイヤに響く。
彼の不思議な雰囲気は、まだ消えない。
「あやまらなくて、いいですよ」
「?」
彼の世界に取り込まれてしまったのだろうか、俺には完全に意味がわからない日本語だった。
営業をやっている身として、コミュニケーション力を根こそぎ覆された気分にさえなる。
「あなたが悪いわけではないのに、あやまる必要なんて、ないですよね」
ああきっと、俺が自販機の前のスペースを譲ったときのことを言ってるんだなと、なんとなくだけれど、わかった。
「むしろ私があとから来たのだから、あなたが買うまで私が待っているべきだったのに」
「いや、いいんですよ、ほんと。何買うか決まってなかったんで、ほんと」
相手はマイペースに話しているのに、自分だけがペースを取り乱されているようで、なんともいたたまれない。
「最近、よくここでお会いしますよね、……水谷さん?」
(なんで、名前――)
――ああ社員証か、と自分の腹のあたりをみて気がつくまでにえらく時間がかかってしまった。
首から下げたストラップがまぬけにぶら下がっているのをみて、俺の心臓が急に落ち着きはじめた。
今時間はどれくらいだろうか、まだ営業資料が残っている。
けれど、俺に焦る気持ちは更々なかった。
「オレ、あやまんのクセなんっすよね」
そういうと、不思議クンは困ったように笑った。
へえ、こんなふうに笑うんだ、とおもった。
もっと幸せそうに笑えばいいのに、とおもった。
「それが、あなたの処世術かもしれないけれど、ビジネスシーンですぐあやまるクセ付けてると、いつか自分に不利になりますよ」
そう捨て台詞のように言うと不思議クンは「ではお疲れ様です」と言って本当に去って行った。
痛い所を突かれたなと思う。今不思議クンに言われた内容は、いつか読んだビジネス書にかいてあった内容そのままだった。
顧客先や上司に謝る度に、俺はそのビジネス書にかかれていた内容を思い出しては反省した。べつに日頃ビジネス書を呼んでいるわけではないし、個人的にはそのような本を参考にするつもりもない。だけど、その内容だけはどうしてか、今でも強く記憶に残っている。それこそ不思議クンの言ったとおり、「俺の築き上げてきた処世術を覆す」内容だったからだ。
とはいえ、だ。
「そんなコト言われても、オレ、営業だからなー……」
自分が謝って受注できるのなら、たとえ俺が悪くなくてもいくらでも謝っちゃう。
自分が謝って事態が沈静化するのなら、たとえ俺が悪くなくてもいくらでも謝っちゃう。
なんというチープな人間に成り下がってしまったのだろう。
しかし今更自分の生き方に反論する気もなかった。
これが大人になることなのだともおもうのだ。
それが大人になることだとすれば、なんというちっぽけな人間の集まりなのだろうとは思うが。
突然の出来事に結局いつものミルク入りコーヒーを買うことになった。
今日は新しいコーヒーに挑戦してみたい気分だったのに、すこし残念だった。
* * *
作品名:それを魔法と呼ぶのなら 作家名:矢野