花曇り
これだ。昔の自分が胸をよぎって、心がちくりと痛む。
「…坂田、おまえな、どう思ってそゆこと言ってんのかしらねえが、あんまそういうこと言うもんじゃねえぞ」
「なんで」
「傷つくのはてめえだけじゃねえからだ」
坂田はよくわからない、という顔で、ぱちぱちとまばたきをした。その幼い顔が、昔、俺が坂田と同じくらいの年だったころ、同じこの教室で、同じようにまばたいてみせた先生とかぶる。
なあ、先生、なんでダメなんですか。
ダメなモンはダメなの。
なんで。
…土方くんも、オトナになったらわかるよ。
せんせい、でも、俺、俺は、
…土方くん、それ以上言ったら先生おこるよ。
…なんで。
……傷つくのは土方くんだけじゃないからだよ。
先生は瞼を伏せて微笑んでみせた。それは悲しい顔だった。白いまつげが震えていた。…どうして、先生。どうして先生はそんな顔をするんですか。俺は先生が好きなのに、どうして。
その訳がしりたくて俺は教師になった。そうして俺は先生のあの表情の訳をしったんだ。あのころ先生は大人だった、どうしようもなく。あのころ俺は、こどもだったのだ、何も変えられないことに気づかないほどに。だから今でも、胸がうずく。あのころに戻れたら。そう思うのは遅すぎると気づいているからだとわかっている。
坂田、という文字を見たとき、心が震えた。それは俺が恋した人の名前だった。白い髪、赤い瞳。俺を呼ぶやわらかい声。俺を見透かす視線。先生。
「せんせい」
ちいさな声で呼ばれてはっとする。目の前にいる坂田は、あのとき目を伏せた先生ではなくて、俺の生徒だ。
「せんせー、それさあ、もしかしなくても受け売りでしょ」
「あ?」
「いや、『あ?』じゃなくて。それ親父の口癖だもん。つーか親父がしょっちゅうしてくれる昔話に出てくる話ね。もー耳にタコができるほど聞いてます。でも俺、その話キライなんだよね。2割には絶対に嫌われるっていったい誰が決めてんだよって思わね?」
「や、」
「俺が未成年なのが怖いの?親父にしてもアンタにしてもビビッてるだけじゃねーの?ちゃんと俺を見ろよ。目の前の俺を。世界の比率云々とかで逃げようとしてんじゃねえよ」
そこまで一気に言い切った坂田は、赤い瞳を爛々と光らせ、俺の見たことのねえ顔をして、俺の顔を覗き込んだ。その真剣な顔におもわず息を詰めて見詰め合う。
「ねえ、せんせえ」
「な、なに」
「親父じゃなくて俺じゃダメ?!」
赤く火照った頬は必死さに張り詰めていて、俺もこんなだったのかな、とぼんやりと思う。「ダメ?」さっきまでの勢いはどこへやら、急に心もとなさそうな声を出すものだから目の前の奴が可愛く思えてきてしまって、かまわねえよ、とその頬を撫でてやる。
やった、とちいさくつぶやいてガッツポーズをとるこどもは本当に可愛くて、どうしていいかわからなくなる。
「それにしてもおまえ、最初から俺がおまえの親父さんの教え子だって知ってたのか?」
「ん?いや最初は知んなかったけど、やたらアッツイ視線向けてくる先生がいるんだよね~って話して、そのせんせの名前が土方だっつったら自分の教え子かもっつって色々話してくれた。だからせんせーが親父に告ったこともしってるぜ?」
「…銀八の野郎……」
「まあまあ、おかげで大好きな俺とも付き合えるんだし、よかったじゃん。あっでも先生俺を親父の代わりにしちゃダメだぜ。俺のこと好きになってね」
「わかってるよ」
すでに好きだなんて、とてもじゃないが言えない。
「坂田」
「んー?」
「ありがとな」
「んあ?なにがですか?」
窓の外では重く垂れ込めた雲の隙間から、光が差し込み始めていた。