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虫の息・2

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 布団が持ち上げられ、ひやりとした空気が流れ込む。自分の筋張った足に冷たいなめらかな踵を押し当てられ、未だ半ば微睡んでいる意識の中眉をひそめる市川を笑いながら、アカギは挨拶も無しに布団にもぐりこんでくる。
 起きているだろう、と問いながら吸い付いてきたアカギの唇は、微かに精液の味がした。
 季節はもう冬になり、市川は布団の中で過ごす時間が徐々に増えてきていた。

 今にして思えばあれは秋になりかけた頃だったか、市川は全くの偶然に街中でアカギと再び出会ったのだった。それ以来何がどう気に入ったのかは解らないが、アカギはちょくちょく市川の家に上がり込む。家と言っても、元々やくざの代打ちという身の上の市川のこと、まして目のことがある為にその所在地は川田組のお膝元と言っても過言ではないような場所なのだが、灯台もと暗しということなのかそれもアカギの強運か、今のところ見つかりもせず易々と侵入を果たしているようだ。
 どういう生活をしているのか全く掴めない、好き勝手な時間に現れるのもやくざの目をかいくぐるには効を奏しているのかもしれない。
「何考えてんの」
 不本意ながら覚えてしまった眠いときの声音でアカギに問われ、市川は事の経緯を思い出すのにかかりきりになっていた意識を引き戻された。返答に詰まり口を開けて逡巡していると、身体の周りに波が起こり、顔面直撃でぬるい湯が浴びせられる。切るのが面倒で伸ばし通しになっていた髪が顔に貼り付くのがわずらわしく、市川はその皺ばんだ手のひらでぐるりと顔を拭った。
 喉の奥で笑うアカギの、虫の居所はまだ読めない。
「お前こそ何を考えてるんだ。儂を湯女代わりにするなんざ、お前の目もつぶれたのか」
「はは、図々しいにも程があるな!言うに事欠いて湯女かよ」
 向かい合わせに座っているアカギが笑い声をたてると、市川にぬるま湯のさざ波が寄せてくる。
 訳が解らない。
 現在の状況を端的に表せば、市川はアカギと風呂に入っている、ということになる。勿論市川が望んだことではない。市川は布団にもぐりこんできたアカギに対し「水はたまっているから風呂くらい使え」と言っただけである。そのたまっていると言った水がもう一週間ほど経ったものだろうが、丁度真上辺りの屋根から漏る雨水で多少の増量がなされていようが市川の身にはなんら関係のないことだった筈なのだが、場所が解らない使い方が解らないとごねてみせるアカギの策に引っ掛かった挙げ句がこの様である。せめてもの救いは、どうやら上手い具合に当たっていたらしい日光のお陰で、たまっていたものがぬるま湯という程度には暖かかったということくらいだが、寝間着ごと狭く小さな湯船に浸かり、アカギと膝頭を付き合わせて風呂に入るなどぞっとしないことこの上ない。
「湯女で気に入らなければ乳母とでも言うか。いい歳して風呂くらい一人で入れ」
「一人であんたを置いておいたら先に寝ちまうだろう」
 それじゃつまらない。
 どうやら今日のアカギの上っ調子は、ひどく機嫌の悪いことの現れの方だったようだ。市川の処に転がり込んでくる時のアカギは大抵浮かれているか塞いでいるかのどちらかで、性質の悪いことにアカギの場合、そのどちらも同じような態度で表出するようだった。
 正直なところ、市川はアカギを扱いかねているのだ。
 単に対戦相手でしかなかったはじめて会った頃はただ叩き潰すことだけを考えていれば良かった。結果負けた挙げ句に代打ちが務まらなくなった時分には恨んだり恐れたりといった気持ちを抱いていたこともある。しかし生身の、それなりに青年の身体になったアカギへは、市川は我が事ながらまだその気持ちの、納得のいく落としどころを見つけられないでいるままだ。
「起きてお前を待って、それで儂に何をさせたいんだ」
「さあな。たまには俺が寝るまで隣で起きてるような男と寝たいのかもしれないな」
「ふざけた事を。儂より早く寝付いた事などないだろう」
 くだらない事を言っている間に、辛うじてぬるま湯程度の温度はあったものがどんどん水になっていく。いずれこの水は落とすしかないなと思い、市川は石鹸を手探りでつかみ水の中へ漬けて、そのままアカギの頭を引き寄せぐるぐると塗り込めた。
「何、洗ってくれるの」
「お前、もう大分眠いんだろう。放っておいたら湯船に沈んでそのまま溺れそうだ」
 流石の儂も湯船に死体を浮かべられちゃ後生が悪い。
 言うなり荒っぽく髪を掻き回し、石鹸を泡立てる。文句の一つも出るかと思ったがアカギは案外素直に市川の指に頭を預け、そしてゆるやかに波をまとって市川に身を寄せ首に腕を回してきた。洗いにくいからよせ、と言ってはみるものの、やだねと答えるアカギの声はもうほとんど寝言に近く、仕方なしにまるで抱き合うような形でアカギの硬い髪を洗う羽目になる。

 市川が多くの時間を布団の中で過ごさざるを得なくなってきたのと同じ頃、川田組の中ではささやかな権力の移行があり、その結果市川の位置づけは「外聞のために生かされている」といったこれまでよりは格段に良い物になったらしい。珍しく市川が起きあがっている時に来合わせた新しい若頭は、やくざ稼業には似合わぬ真っ直ぐな声音で「今でも、貴方がた……貴方とアカギの闘牌を忘れられないのです」と宣ったものだ。手伝いの者を寄越そう、医者にも来てもらおうという有り難い心遣いは固辞したものの、どうやら今までのように放っておいてはくれないつもりのようで、その後も暇を見ては訪れる、声の響きから推量する限りではそこそこ美丈夫で通るだろう新しい若頭と、気まぐれに現れるアカギが鉢合わせしやしまいかとはらはらし、市川はその心配の不条理さに舌打ちする。
 やくざから逃れ隠れて、息を潜めていたいならこんなところに来なければいい。
 しかしアカギは相変わらず、どういう具合か川田組の人間に見られることもなく市川の処へ忍んでくるのだ。それで食っているのかそれともただの趣味かは知らないがアカギは大抵男相手の情交の痕をそこここに残してやってくる。それを気に留めるのも癪なのだが、昨今は快楽には過ぎた傷や痣の気配もあり、市川はもうずっと何か言ったものかと逡巡しながらアカギの来訪を拒むことはない、という状態を続けていたのだった。

「ほら、アカギ!まだ寝るんじゃない!」
 声を荒げて乱暴に濡れた髪を拭いてもアカギからは言葉にもなっていない唸り声が発せられるばかり、船を漕ぐ頭は止まることなく市川は途方に暮れる。ほとんど水という温度の湯船からあがり、その上濡れた寝間着にまとわりつかれている市川の方が随分と過酷な条件下にいる訳だが、アカギがあまりにも自堕落だから、等という愚にもつかない言い訳を自分にすらしてとりあえずアカギの世話を焼く。
 好きでやっている訳ではないと思いたいのだ。結局の処市川にも解っている。本当に面倒ならば叩き出すなり、それこそ川田組ならば喜んで引き受けるだろう身柄を突き出すなりすればいい。そうしないのは、視力を失った時常人のそれより発達した感覚が結果的に手に入ったように、今や冷酷で有能な代打ちなどでは無くなった市川が得たものがどうにもアカギに向いてしまうからに他ならない。
作品名:虫の息・2 作家名:タロウ