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虫の息.3

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 窓を開けたのは本当に何年ぶりだろうか。
 古びた家をがたがたと揺すっていた春先の強い風が一息に流れ込んでくる。堰き止められていた流れが溢れたように吹き付ける風が頬にあたり、市川は見えない筈の目に白く明るくほのかに色づいた嵐のような満開の花を見る。
「本当に久しぶりだ」
「……何が」
 不機嫌そうに答えながら回した腕を強めるアカギの、髪、耳、顎を辿って唇、鼻。触れると少し震えるまぶたを撫でて頬に至りそっと手を離す。
「儂の目が見えたなら、とそう思うことがさ」
 指先の感触からおおよそ構築することは出来る。記憶の中にある物は再生すればいい。だが視力を失ってから出会ったアカギの顔は、市川の中で正確にその像を結ぶことはないのだ。
「好きなだけ触ればいい」
 見るのと同じくらい、何度でも。
 言うなり手を取り顔を押し当ててくるアカギに対する気持ちは久しぶりというより初めてのものだなと思いながら、市川は取られていない方の手でアカギの頭を引き寄せ「そうさせてもらうか」と呟き、その輪郭を辿るように唇を落とした。
 遠く離れる時はすぐそこに、だが今はまだこんなにも近くにいる。
 儂の事など忘れて前だけ見ていろと思っていた筈なのに、文字通り往生際の悪いことだ。
 触れる軌跡が唇に辿り着いた途端吸い付いて、がむしゃらに舌を絡めてきたアカギに応えながら、市川はその唇を僅かに笑みの形に歪めた。
 願わくば花の下にて。そんなことを願っていた訳ではないのに、季節は巡りアカギはまだここにいる。

「どなたか、いらっしゃるのでは……?」
 様子伺いと称して訊ねてくる若頭がそう水を向けたことに、ひやりとしたことは否めない。
 どなたもあなたも、自分を負かして川田組に手痛い損失を喰らわせた当のアカギが昨夜もあんたが座っている畳の辺りで寝ていったよ。そう言ってやったらどんな顔をするか想像はしてみるものの、どんなに面白い顔が引き出せても自分の目には見えないとなればそう試してみたいものでもない。
 そして、そんな事を口にするには、市川の中にアカギに対する感情への自覚は随分と出来上がってしまっているのだ。
「誰がいるっていうんだね。こんな老いぼれ、牌も握れなくなった代打ち……くく、裏のお山にでも捨ててくれりゃいいさ」
「そんなつもりはありません、少なくとも私には」
 どうにも硬い返事だ。
 前の若頭の住まいだった母屋は組の若い者が雑然と暮らすような場所になっているのに、この冗談の通じない若頭、石川という、奇妙に自分の呼び名と紛らわしい苗字を持つ男はどういう訳か暇を見ては訪ねてくる。
 口にはしないがそれだけ市川に死の影を見ているのだろう。身内はいるのか、という意味で先程の質問を発したらしいが、例え切れた縁の先に血の繋がった人間がいたとしても、真っ当とはとても言えない生業で凌いできた身を今更誰かに押しつける訳にもいかないと市川は思う。ひやりとしたのは、質問の前に軽く投げられた言葉、「こちらに逢いに来ていらっしゃる方がいるらしいと聞いています」という、かまをかけるような石川の言葉にだ。
「飛ぶ鳥落とす川田組ってな。成仏しかねた奴の二、三も出るだろうよ」
 儂には見えやしないがな、気がないようなそぶりで細心の注意を払い石川の意識を逸らそうとする市川を知ってか知らずか、石川は悪ふざけを咎める声音で言いにくそうに「市川さん」と呼んだ。
「私は、貴方にせめて出来ることをしたいと思っています。やくざと代打ち、組の名の下で行われる麻雀の場……貴方はその埒を越えた相手と、そうと知らずに当たってしまった。ぶつけてしまったのは赤木しげるを測り違えた組の責任です」
 若さ故か生来の性格か、こうなった石川の話がしばらく止まらないことは不本意ながら飲み込んでいる市川である。この男も今の川田組の中ではそれなりに見込まれて若頭をつとめているのだろうに、何処か裏稼業に似合わぬ潔癖さを市川には隠そうともしない。
 以前の儂なら叩き出すなりしていたな。
 やくざの世界で言われる仁義、任侠、義理人情。ずっとそうしたものには巻き込むなと言い続けてきた。自分の仕事は麻雀を打つ事、それだけだ。不遜な市川の物言いもその雀力が後押しして全く咎められることはなく、昔で言えば腕の立つ剣客が用心棒として抱えられている時のように「先生」と奉られることすらあった。だが今その頃に戻りたいかと問われれば、おそらく自分は否と答えるだろう。
「何かしてくれると言うのなら、そうだな、ちょいと外へ付き合ってくれないか」
 石川の意図はわざと外して、市川は頼んでみる。どう見えているのか自信はないながら、出来るだけ皮肉めいた色は消したつもりの微笑付きだ。石川は一瞬の間をおいて大きく溜め息をつき「ええ、何処へなりともお供をさせて頂きますよ」と珍しく冗談めかした科白を口にした。
 
「もうそろそろ桜が咲きそうですね」
 光の当たり方、明るさからすると四時辺りをまわった夕方と言ったところだろうか。市川に必要以上の厚着を強いて、石川は言葉通り傍らを歩いている。どうもこの過保護さには辟易するのだが、何か言うとかえって面倒なことになるのは火を見るより明らかなのだ。桜が咲きそうですね、と言っておいてこの格好もないものだ、と思いながら、市川は「あんたらやくざのお気に入りだろう」と適当な返事を返した。
「はは、桜はやくざに限ったこともないでしょう。市川さんはお嫌いですか」
「……考えたこともなかったな……」
 桜だけではない。市川の中には好きだ嫌いだという尺度が浸透していない。改めて問われると、自分の中に持ち帰り、検討し、大体のところを設定しなければ答えが出ない。それでも、そうした作業を試みる努力をすることは、今は恐らく嫌いではないのだ。耄碌したものだ、と思いながらも、そんな感じ方も悪くはないと思っている。
「まあこの目で花を愛でるというのもおかしな話だがね。そうだな、匂いと……明るい処はいいな」
「この辺りには結構桜が植えられていますからね。確か市川さんの家の窓を開けたちょうど前の通りは桜並木だったように思いますよ」
 咲いたら、あの窓を開けると良い。
 何気なく、しかし何処か必死に石川は言う。桜が咲くまで生きていたらな。そう思ったが、市川ですら心配になるほどの不器用さと人の良さを見せるこの男をあまりいじめても後生が悪い。
「窓を開けたりしたらどうにもうるさくてかなわんよ」
「夜でしたらそんなこともないでしょう。せいぜい猫だとか……」
「おいおい、春先の夜の猫なんざ……」
「ああ……確かに」
 言い合って辟易したように笑い合う。全くの世間話だ。
「……そろそろ戻りましょうか。直に日も暮れて寒くなる」
「ああ、引き回して済まなかったな」
 とんでもない。そう答える声音が掛け値無しの親身な声だということにいたたまれなくなり、市川は送っていこうという石川の申し出を固辞して帰途についた。
 死ぬ前に一度、あの日アカギに出会った道を辿ってみたかったのだ。
作品名:虫の息.3 作家名:タロウ