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虫の息.3

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 今日はこのごろには珍しく泥のような眠気に飲み込まれることもなく、雨も降っていない。どうしたものかと思っていた時に来合わせた石川を体よく利用したようなものだから、これ以上時間を取らせるのも気が引けた。
「ましてとぼけて考える事といえばなぁ……」
 思わず口に出した挙げ句に苦笑してしまう。今更のように制裁を加えるにしろ、その悪夢のような強さを手の内に収めようとするにしろ、赤木しげるの情報は川田組にとっては値千金とでも言うべき物だろうに、自分は素知らぬふりでそれを呑み込んでいるままなのだ。しかしアカギがそれを望まないのを知っている以上、唯一市川に出来る事は口をつぐんだまま死ぬだけだと思っている。
 アカギのいいようにしてやりたい。
 それが今の市川にとっての最優先事項である。アカギがどう思っているかは解らない。自分がそうしたいだけだ。例えばそれは石川に対してなけなしの良心が痛むこともあるが、そんなときは先払いで死んでいるつもりになって自分の中で落としどころをつけている。
「おっと」
 考え事をしながら、ゆるい坂を下っていた市川に背後からクラクションが鳴らされる。さほど速度は出していないように聞こえるその車に対し、背を向けたまま道の端に寄る姿勢を見せて、ちょうど口を開けていた路地へ入ってみる。恐らくこの小さな路地は、確かちょっとした歓楽街に通じていたはず。この時間ならばまだ人通りも少ないだろう街をふと冷やかしてみる気になった市川は、足を向けた途端立ち止まる羽目になった。

「よう、市川さん」
 あまり聞かない、似合わない気安い調子で声をかけてきたアカギの気配が市川の腰辺りまでしかないのはどういうことか。夕暮れ時の街の雑多な匂いに色濃く混じっている血の匂いに市川は眉をひそめた。
 この匂いには覚えがある。あの日……アカギに完膚無きまでに負かされたあの日に、対面から隠しきれずに密かに漂っていたアカギの匂いだ。
「怪我をしたな。いつものような打撲じゃない。切り傷……か?」
「よく解るね。ちょっと面倒な事になってさ……好きにさせたらこの始末だ」
「妙な趣味でも持っていたか?」
 言いながら声の聞こえる辺りまでかがむ。呼吸も脈拍もさしたる乱れはないようだが、どうも少し震えているらしいアカギに石川のお節介を着せかけた。何を察知したという訳でもないだろうがたまには役に立つこともあるな、と先程別れた男の顔を思い出す。
「さあね。歩いてたらいきなりここへ引っ張り込まれて泣くわ喚くわ、しまいにゃ刃物が出てきた」
「知り合いではないのか」
「一回打って三回やったかな。顔は覚えてない」
 ひどい言いぐさに溜め息も出ない。
「適当にのして逃げればいいだろう。そもそも面倒の種をまくのが悪い」
「適当にって?一度手をあげたら適当なんてないよ。どっちかが死ぬまで、さっきの奴だったら向こうだな」
 俺だってそんなことをしたい訳じゃないから、好きにさせたんだ。
 淡々と、面白くもないと言った調子で説明するアカギにふと違和感を覚えた。余人ならばいざ知らずこのアカギが言うこと、負け惜しみやなにかといったつまらない理由での言い回しではないだろうが、一体いつからそんなことを気にするようになったのだろうか。
「だからといって、下手したらお前が……」
「そんな度胸があんなのにあるかよ」
 市川の言葉を遮るようにアカギが声を荒げた。あいつらみんな口だけだ。この傷だって全部皮一枚切っただけ、俺の血で安い興奮を買ってそれで終わりさ。
「そう思うなら何故そんな輩に近づくんだ。解っているだろう、お前に足る相手などではないと」
「理由なんか知らない……解らないよ。ただ足りないんだ」
 言いながらアカギは市川の手をとった。二つの手の間でぬめるのはアカギの血だろうか。そのぬるい温度と湿り気に、市川は知らずアカギの手を握りしめる。
「市川さん、俺の中のあんたが、何をどうしても消えないんだよ」
 吐き出すように、叩きつけるように発されたアカギの言葉に心底震えた。
 恐ろしいのか?
 喜んでしまうのか?
 どちらにも分けることの出来ない心が葛藤する中、この目の前の男の奥深くに自分がそうまで痕をつけてしまったことに市川は震えた。
「もう忘れろと、言ったところで天邪鬼のお前は聞きはしないのだろうな」
 繋いだ手を辿り、束の間抱き寄せ、すぐ離す。
 これは儂の罪。
 このアカギから流れた血は、直視することを避けここまで終わりを引き延ばした儂への罰。
 アカギが傷ついた姿をさらす事を厭いながら、その原因はまさしく自分にあったのだ。
「……おいで、アカギ。終わらせてやろう」
 ふくれあがった幻をもう消してしまおう。
 地べたに座り込んだアカギを、腕を掴んで引き上げ立たせながら、市川はそのことだけを考えていた。

「……っ……!」
「このくらいの傷、お前にはどうということはないだろう」
「あんた今傷に爪立てただろ……」
「さあな。どれほどの傷か確かめたかったんじゃないか?」
「……他人事みたいに言いやがる」
 馬鹿にしやがって。
 ぼやきながらもアカギはおとなしく市川にその身を預け、傷の手当てを受けていた。市川の乾いた手には気後れがするようなアカギの肌の上を無数に走る切り傷に、鼻につく匂いを放つ薬を塗り込める。探せば何でも出てくるな、と呆れたように言うアカギの言葉通り、市川自身も把握していなかった救急箱の中にはガーゼも包帯もきちんと入っていたのだが、馬鹿正直にそんなものを使っていてはアカギの身体は布だらけの珍妙な姿に成り果ててしまいそうだった。
「なあアカギよ。こんなことをして何になる?」
 何故そう自分を軽く扱う?
 かつての儂がそうであったようにお前も今化け物だろうが、そして、だが化け物だからといって自らを痛めつけねばならない道理等ないのだ。
 「その気になればお前は、誰にもその身を損なわれる事などないだろう。誰もがお前を仰ぐような……」
 続けようとした言葉は、伸びてきたアカギの手の内に握りつぶされた。乾いてささくれた市川の唇を、ひんやりと湿ったアカギの手のひらが塞いでいる。その手にさして力を入れているわけではないのに、もうぴくりとも動けない。
「仰がれたい訳じゃない。そんな事は全く望んじゃいないよ」
 こんなもの、抱えたまま歩いていく位なら、血が流れることなんか何も怖くない。そう思ったんだ。
 市川に対する返事と言うよりは、自らに言い聞かせるようにアカギは呟いた。
「市川さん、俺に出来ないことがあんたに出来ると思うかい?」
「……?……」
「言っただろう、消えないのさ。例えばあんたの言う通り、牌も握れないざまを目の当たりにしたって……今更あの日が終わる訳ない」
 変えられない、誰にも。俺を痛めつけようとするその辺の奴にも、やくざや警察といった権力にも、そしてあんたにだって。
 そこまで言葉を投げて、唐突にアカギは立ち上がった。市川の鼻先で、塗り薬の匂いのする空気が一瞬迫り、そして離れてゆく。アカギはいつでも猫のように音のしない、気配の薄い歩き方をする。そう覚えるほど感じるようになったのは、歳ばかり経た極最近のことだったと唐突に認識した。
作品名:虫の息.3 作家名:タロウ