C80青エク(雪燐サンプル)願い
(7~9P)
「雪男と離れて…か」
考えたこともなかった。
きしり、と椅子を鳴らして傾けると床から踵が浮いた。出された課題を広げながらも頭を過るのは塾で言われた言葉ばかりでちっとも集中できない。
かちかちとシャープペンシルを押して芯を出しては引っ込め、出しては引っ込めしてノートに文字が書かれることはなさそうだ。
ころりとペンをノートの上に転がして、頭の後ろで腕を組んで僅かに背筋を伸ばしてみる。
ふっと隣を見ても雪男はまだ帰宅してはおらず、部屋は静謐としている。こんな風に改めて雪男の事を考えたことなどなかったから可笑しな感じがする。辛いことや苦しいことがあっても弟を守るのだとそう思ってきた燐の唯一の心の支えが雪男だった。
たった一人の血の繋がり。
獅郎もそれを大事にしろと言っていた。燐の後ろに隠れていた雪男も今やエクソシストとして自分より遥か先を歩いている。
「離れ離れとか…想像つかねぇや」
もしも、悪魔としての能力が覚醒しなければ。
もしも、あの時、サタンにゲヘナへと連れて行かれていたらいったいどうなっていたのだろうか。自分は悪魔になって、雪男と戦ったり、しえみや勝呂、志摩がいる大事な世界を壊そうとしていたのだろうか。そしていまだ、そうできる能力が自分に眠っているとしたら…。
「……っ」
想像がリアルに脳裏を過り思わず、ぶるりと体を震わせた。
そんなことない。
絶対に、そんなことはしない。
「俺は、俺だ」
こつんと机に突っ伏して薬学の数式や調合方法の文字の羅列を目で追いながら、睫毛を伏せた。
「兄さん?」
ただいま、と一応ノックをして部屋に入った雪男は電気が点いているにも関わらず静かな室内に違和感を覚えて首を捻った。
「……」
見えるのは机に突っ伏した燐の背中で、瞼を閉じて大きな溜息を一つついた。
すぅすぅと規則正しい呼吸音。
静かに首を回している扇風機を横目に燐の顔を覗き込む。
「兄さん、眠るならベッドで寝ろよ」
「ん…」
肩にそっと触れても燐は目を覚ます気配もなく、小さく眉を寄せただけだ。
「まったく…」
それでもまだ出された課題を片付けようとした姿勢だけは褒めるべきか、内心複雑だ。食堂に回ったらまだ食事にも手を付けていない様子で自分を待ってくれていたのだと分かる。食事は一人より皆で。それが修道院でのモットーだった。
今、燐の寝顔は穏やかでそれだけが唯一、雪男をほっとさせる。能天気そうに見えて、時折夢を見ているのかうなされている燐を知っている雪男だ。
きっと獅郎の夢でも見ているのかもしれない。
「兄さん」
兄を、燐を、唯一の繋がりである兄弟をこの手で守るとエクソシストになり獅郎の墓前で誓った。すべての敵から守るのだと。
手を、伸ばしてそっと前髪に触れた。目にかかる程の長い前髪を指で掬い上げるようにして梳き顔を近づける。
「兄さん」
「んー…」
名前を呼ばれて反応はするが起きる気は全くないのか瞼は閉じられたままだ。
「はぁ」
思わずため息が声に出て雪男は肩を竦めると燐を自分の方に引っ張り体を傾ける。自然の重力のまま胸に落ちてくる体を抱きとめて一度ぎゅうと抱きしめる。
(兄さん……燐…)
膝裏に手を差し込み、足を踏ん張って抱き上げるとその体は簡単に持ち上がった。
「っしょと…」
ベッドを見れば一応片づけられているようで、起こさないように足を向けた。器用に片手で燐を支えながら、もう片方の手でブランケットを捲る。ゆっくりと下ろそうとすると、ふいに雪男のコートを引っ張る何かに気が付いた。
「……?」
燐だ。
雪男の襟を掴み「うー」と小さく唸っている。
「兄さん?」
「…きお…」
寝言だろうか。それとも寝ぼけているのかほんの少しだけ唇を動かして口籠るように名前を呼んだ燐にぎゅっと胸をわし掴まれる。
驚いて心臓が大きく打った。
日頃もこれくらい可愛げがあるといいのに。思わずそう憎まれ口を叩きそうになるほど堪らない気持ちになる。
「いるよ」
ゆっくりとベッドに下ろして唇を唇に押し付けた。躊躇いはなくごく自然に合わせられたそれは心地よく、思わず強く重ね合わせる。
「ゆ、きお…」
僅かに離すとぼんやりと薄く燐の瞼が開いていた。
瞬間、どきりと心臓が強く打ったが平静を装って小さく笑う。
「なに?」
「おかえ、り」
「…ただいま」
髪を撫でて瞼をそっと掌で覆う。我慢できずにもう一度口づけて直ぐに離した。その間も衿を握った燐の手は離されることなく握りしめられ雪男は苦笑した。
そっと手を握り指を離すと、力なく解けた指がぱたりと落ちる。
寝ぼけていてよかった。
「……」
軽く息をついたあと、床についていた膝を立たせ振り返らずに背後の気配に声をかけた。
「フェレス卿、悪趣味ですよ」
「覗き見なんてしてませんよ?」
「覗き見なんて言ってません」
「……」
くるりと振り返ると、メフィストフェレスが浴衣姿で立っている。
「なんですか、その恰好は」
「浴衣ですよ、知らないんですか?」
「浴衣は知ってます」
なんでその恰好で、この部屋に突っ立っているのか聞きたいんだよ、と言葉には出さずにこりと笑顔を作った。
「別にアレですよ? 男同士、双子の兄弟、悪魔とエクソシスト、教師と生徒、そんな禁断の関係を乗り越えて育んでいる愛を確かめにきたわけじゃありませんよ?」
「……そこまで聞いてないです」
「この恰好は貴方たちにも日頃のご褒美をあげようと思って」
「ご褒美?」
メフィストがくれるものなど碌なものがあった試がない。思わず警戒するとぼわんという鈍い音ともくもくとした白煙とともにメフィストの両手に紺色と薄い灰色の浴衣が現れた。
「!」
何とも非現実的なマジックだがメフィストならそれを現実のものとしてやってのけるから性質が悪い。そんな思いとは関係なく浴衣を持っていない反対の手を持ち上げて爪の長い人差し指を突き立てる。
「明日、お祭りがあるんですよ」
「お祭り…?」
「ここら一帯である夏祭りです。きみたちは知りませんでしたか? 一応、学園祭とは別に地域の皆さんと共に夜店を出したり花火を打ち上げたり、神輿を出して盛り上がる日本文化の一つです」
「いえ、知識としては知っています」
知識としては。
幼いころは宗派が違えども近所にある神社のささやかなお祭りに何度か足を運んだことがある。もちろん、獅郎と燐と三人一緒にだ。父の手に掴まりながら余りの人の多さに目を回した自分と、獅郎に買って貰った林檎飴を頬張る燐。夜空に浮かんだ提灯のオレンジ色の光をそれでも忘れたことはなかった。
「土曜日で塾もないし兄弟水入らずで遊びに行ってはどうですか?」
「はぁ…」
「だから浴衣はプレゼントです」
どうぞ。ずい、と押し付けられる。いつの間にか雪男の両手に二枚の浴衣が帯つきで乗っていた。
一体何を考えているのかこの人は。といよいよメフィストが分からなくなってきた雪男だ。元々が理解不能だが最近は更に拍車がかかっている気がしてならない。
うんざりとしたように眠る燐を見下ろしたが、おそらく祭りと聞けばこの兄なら喜んで行くと言い出すに決まっている。
「雪男と離れて…か」
考えたこともなかった。
きしり、と椅子を鳴らして傾けると床から踵が浮いた。出された課題を広げながらも頭を過るのは塾で言われた言葉ばかりでちっとも集中できない。
かちかちとシャープペンシルを押して芯を出しては引っ込め、出しては引っ込めしてノートに文字が書かれることはなさそうだ。
ころりとペンをノートの上に転がして、頭の後ろで腕を組んで僅かに背筋を伸ばしてみる。
ふっと隣を見ても雪男はまだ帰宅してはおらず、部屋は静謐としている。こんな風に改めて雪男の事を考えたことなどなかったから可笑しな感じがする。辛いことや苦しいことがあっても弟を守るのだとそう思ってきた燐の唯一の心の支えが雪男だった。
たった一人の血の繋がり。
獅郎もそれを大事にしろと言っていた。燐の後ろに隠れていた雪男も今やエクソシストとして自分より遥か先を歩いている。
「離れ離れとか…想像つかねぇや」
もしも、悪魔としての能力が覚醒しなければ。
もしも、あの時、サタンにゲヘナへと連れて行かれていたらいったいどうなっていたのだろうか。自分は悪魔になって、雪男と戦ったり、しえみや勝呂、志摩がいる大事な世界を壊そうとしていたのだろうか。そしていまだ、そうできる能力が自分に眠っているとしたら…。
「……っ」
想像がリアルに脳裏を過り思わず、ぶるりと体を震わせた。
そんなことない。
絶対に、そんなことはしない。
「俺は、俺だ」
こつんと机に突っ伏して薬学の数式や調合方法の文字の羅列を目で追いながら、睫毛を伏せた。
「兄さん?」
ただいま、と一応ノックをして部屋に入った雪男は電気が点いているにも関わらず静かな室内に違和感を覚えて首を捻った。
「……」
見えるのは机に突っ伏した燐の背中で、瞼を閉じて大きな溜息を一つついた。
すぅすぅと規則正しい呼吸音。
静かに首を回している扇風機を横目に燐の顔を覗き込む。
「兄さん、眠るならベッドで寝ろよ」
「ん…」
肩にそっと触れても燐は目を覚ます気配もなく、小さく眉を寄せただけだ。
「まったく…」
それでもまだ出された課題を片付けようとした姿勢だけは褒めるべきか、内心複雑だ。食堂に回ったらまだ食事にも手を付けていない様子で自分を待ってくれていたのだと分かる。食事は一人より皆で。それが修道院でのモットーだった。
今、燐の寝顔は穏やかでそれだけが唯一、雪男をほっとさせる。能天気そうに見えて、時折夢を見ているのかうなされている燐を知っている雪男だ。
きっと獅郎の夢でも見ているのかもしれない。
「兄さん」
兄を、燐を、唯一の繋がりである兄弟をこの手で守るとエクソシストになり獅郎の墓前で誓った。すべての敵から守るのだと。
手を、伸ばしてそっと前髪に触れた。目にかかる程の長い前髪を指で掬い上げるようにして梳き顔を近づける。
「兄さん」
「んー…」
名前を呼ばれて反応はするが起きる気は全くないのか瞼は閉じられたままだ。
「はぁ」
思わずため息が声に出て雪男は肩を竦めると燐を自分の方に引っ張り体を傾ける。自然の重力のまま胸に落ちてくる体を抱きとめて一度ぎゅうと抱きしめる。
(兄さん……燐…)
膝裏に手を差し込み、足を踏ん張って抱き上げるとその体は簡単に持ち上がった。
「っしょと…」
ベッドを見れば一応片づけられているようで、起こさないように足を向けた。器用に片手で燐を支えながら、もう片方の手でブランケットを捲る。ゆっくりと下ろそうとすると、ふいに雪男のコートを引っ張る何かに気が付いた。
「……?」
燐だ。
雪男の襟を掴み「うー」と小さく唸っている。
「兄さん?」
「…きお…」
寝言だろうか。それとも寝ぼけているのかほんの少しだけ唇を動かして口籠るように名前を呼んだ燐にぎゅっと胸をわし掴まれる。
驚いて心臓が大きく打った。
日頃もこれくらい可愛げがあるといいのに。思わずそう憎まれ口を叩きそうになるほど堪らない気持ちになる。
「いるよ」
ゆっくりとベッドに下ろして唇を唇に押し付けた。躊躇いはなくごく自然に合わせられたそれは心地よく、思わず強く重ね合わせる。
「ゆ、きお…」
僅かに離すとぼんやりと薄く燐の瞼が開いていた。
瞬間、どきりと心臓が強く打ったが平静を装って小さく笑う。
「なに?」
「おかえ、り」
「…ただいま」
髪を撫でて瞼をそっと掌で覆う。我慢できずにもう一度口づけて直ぐに離した。その間も衿を握った燐の手は離されることなく握りしめられ雪男は苦笑した。
そっと手を握り指を離すと、力なく解けた指がぱたりと落ちる。
寝ぼけていてよかった。
「……」
軽く息をついたあと、床についていた膝を立たせ振り返らずに背後の気配に声をかけた。
「フェレス卿、悪趣味ですよ」
「覗き見なんてしてませんよ?」
「覗き見なんて言ってません」
「……」
くるりと振り返ると、メフィストフェレスが浴衣姿で立っている。
「なんですか、その恰好は」
「浴衣ですよ、知らないんですか?」
「浴衣は知ってます」
なんでその恰好で、この部屋に突っ立っているのか聞きたいんだよ、と言葉には出さずにこりと笑顔を作った。
「別にアレですよ? 男同士、双子の兄弟、悪魔とエクソシスト、教師と生徒、そんな禁断の関係を乗り越えて育んでいる愛を確かめにきたわけじゃありませんよ?」
「……そこまで聞いてないです」
「この恰好は貴方たちにも日頃のご褒美をあげようと思って」
「ご褒美?」
メフィストがくれるものなど碌なものがあった試がない。思わず警戒するとぼわんという鈍い音ともくもくとした白煙とともにメフィストの両手に紺色と薄い灰色の浴衣が現れた。
「!」
何とも非現実的なマジックだがメフィストならそれを現実のものとしてやってのけるから性質が悪い。そんな思いとは関係なく浴衣を持っていない反対の手を持ち上げて爪の長い人差し指を突き立てる。
「明日、お祭りがあるんですよ」
「お祭り…?」
「ここら一帯である夏祭りです。きみたちは知りませんでしたか? 一応、学園祭とは別に地域の皆さんと共に夜店を出したり花火を打ち上げたり、神輿を出して盛り上がる日本文化の一つです」
「いえ、知識としては知っています」
知識としては。
幼いころは宗派が違えども近所にある神社のささやかなお祭りに何度か足を運んだことがある。もちろん、獅郎と燐と三人一緒にだ。父の手に掴まりながら余りの人の多さに目を回した自分と、獅郎に買って貰った林檎飴を頬張る燐。夜空に浮かんだ提灯のオレンジ色の光をそれでも忘れたことはなかった。
「土曜日で塾もないし兄弟水入らずで遊びに行ってはどうですか?」
「はぁ…」
「だから浴衣はプレゼントです」
どうぞ。ずい、と押し付けられる。いつの間にか雪男の両手に二枚の浴衣が帯つきで乗っていた。
一体何を考えているのかこの人は。といよいよメフィストが分からなくなってきた雪男だ。元々が理解不能だが最近は更に拍車がかかっている気がしてならない。
うんざりとしたように眠る燐を見下ろしたが、おそらく祭りと聞けばこの兄なら喜んで行くと言い出すに決まっている。
作品名:C80青エク(雪燐サンプル)願い 作家名:ひわ子