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Good bye to you

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酷く冷えた空気が肌に触れる。

あまりの冷たさにどこにいるのだろうと閉じたままだった瞼を開いてみる。
辺りは真っ暗で何も見えない。
光が当たらないところで瞳を閉じている時の状態と似ている。
いつの間にか下ろしていた腰をゆっくりと、あげてみる。
黒一面の景色は見渡しても何も変わらなかった。

ただ、一人、人が増えた事を除いては。


(あれは…ワトソンか?)


遠く見える人影は間違いなく自分の助手だった。
どうやら、彼も立ち止まったまま周囲を見渡しているようだ。
どうしてワトソンがここに?
不思議に思いつつホームズは彼方にいる男を見ていた。

途中、闇色の空間の中からもう一人、誰かが現れた。
艶のある金色の髪を靡かせながら、女性は手を振ったまま小走りでワトソンのもとへと駆け寄ってゆく。
ワトソンも彼女の方へと振り向く。
走っている時、顔がちらりと見えて直後、心臓が跳び上がりそうになった。
金髪の女性はワトソンの婚約相手――メアリー・モースタンだった。
メアリーはワトソンと腕を組み、肩口に頭を預け、並んで歩き始めた。
2人の進む速度はゆっくりな筈なのにどんどん遠ざかって行くように感じる。
鼓動の動きが早まる。全身から汗が噴き出しそうになる。
落ち着け。こんなの、らしくない。
小さくなってゆく背中を追い掛けようと足を踏み出す。
だが、一度地面に着いたきりでそれ以上は歩みを進める事はなかった――いや、できなかったと言った方が正しいだろう。

得体のしれない恐怖が自分を雁字搦めにしている。ホームズは思った。
何を?何が、この衝動を押さえつけて、束縛しているのだろう。
全身の筋肉が強張り、声も途切れ途切れに発するのがやっとの状態で出したいように出せない。
うまく回らない脳で原因を考えてみる。
隣で歩いている婚約者の女性のせいか? 違う。
それとは別に胸の辺りが重苦しく、まるでこの暗がりな世界に似ていて――。
恐怖の底にある塊を取り除けずにいる間にも
ワトソンは彼方へと、闇の向こう側へと姿を消して行ってしまった。




ドカッ!!




背中の辺りに何か強く打たれたような痛みが走った。
振り向くと目の前には大きく見える足と眉間に皺を深く寄せながら溜息を吐く見慣れた顔があった。
周りには先程の黒く塗りつぶされた世界はなく、代りに自分の部屋になっていた。
テーブルの上には実験の最中によく使うフラスコや試験管。
あちらこちらに散漫している服の数々。
開けっ放しの窓に外へと逃げていく空気に微かに入り混じっている刻み煙草と埃の匂い。
今、下に敷かれている虎の敷物。
これらがいつもの日常を物語っていた。
暗闇の前に起きた出来事を思い出してみる。
どうやら実験をしている最中に出来た薬を試しにグラッドストーンに飲ませてみようとしたが
近くに見当たらなかった為、自分自身の体で試そうと口に流し込んだところ
薬の効果だったのかそのまま眠りについてしまいその後、ワトソンが起こしに来てくれたらしい。
少々荒々しいやり方ではあるが。
半身をゆっくりと起き上がらせてから蹴られた箇所を擦りながら顰め面をしてみせる。

「っ…いたたたた…随分と乱暴だなぁ。もう少し優しく起こしてくれたっていいじゃないか」
「何度も声を掛けたり、体を揺すったりした。だが君は起きなかった。
仕方なく一番手っ取り早い方法でやったまでだよ」

持っている杖でホームズの寝間着の裾を軽く突きながらワトソンは冷淡な眼差しで見下ろしてくる。
青々とした瞳は冷たいが同時に美しくもあった。
埃ひとつない茶色のコートにその下にはアイロンでしっかりかけられたのであろうベスト。
普段履いている革靴も新品同様に見えた。
往診に行くのだろうか? にしてはいつにも増して身形がきっちりとし過ぎている気がする。
一体どこへ行くのだろう?

「下ではとっくにハドソン夫人が朝食の用意をしてくれている。
スープもあるんだ。冷めない内に食べたらどうなんだ?」

ふわぁ、とホームズがひと欠伸するとワトソンはもう一度溜息を吐き
それから背を向け、ドアノブに手を掛けた。

「あぁ、そうそう」

何か言い忘れたらしく掛けていた手を一旦止め、次いで一言付け加えながら顔だけを此方に向かせた。
そして、




「今日からメアリーと一緒に暮らす事になるから、ここを出て行くよ」




起き抜けで聞こえてくる何もかもが鈍く、耳栓をしたのかの様に聞こえる中
その言葉だけがはっきりと鼓膜の奥を伝ってきた。
壁に掛けてあるカレンダーに目を遣る。
とある数字の下に覚えのある書き留めが。


前にも何度も何度も似た様な事を耳が痛くなるほど聞いたが
主に口論をしている時で、血が上っている状態で口走っていた為
本気ではないだろうと聞き流していたつもりだったが――1ヶ月ぐらい前だっただろうか。
今でも鮮明に覚えている。
ハドソン夫人が作ってくれた夕食を二人で食べている最中の事だった。

『1ヶ月後、新居に移ってメアリーと暮らす』

唐突な言葉に思わず動かしていたフォークとナイフを止めてじっ、とワトソンを見つめた。

『その冗談はいい加減よしたらどうなんだ。
聞き飽きたし気分も悪くなるよ、ワトソン君――』
『私が今、冗談を言っている様に見えるか? 私は本気だよ。ホームズ』

その時ホームズは理解した。
あぁ、今度は本当に、本当に彼がここを去って行ってしまうんだな。
それから食欲がなくなり、食べ物には手をつけずに
残したままキッチンへと運んで行った事も覚えている。


あれから大分経って、すっかり忘れていたが――そうか、もうそんな日になっていたのか。


ホームズにとってメアリー・モースタンという人物は正直、あまり快く受け入れられる相手ではなかった。
推理小説を愛読しているだけのこと、観察力の鋭さは確かに認める。
だが、それでも、もしかしたら、だからこそ、彼女に対する警戒心が揺らぐ事はなかった。
それはワトソンとの結婚、同居が決まった事によって更に強まっていった。
だいたい結婚するのにどうして一緒に住む必要なんかあるのだろう。
自分もついて行くと言えばワトソンからは「やめてくれ」と拒まれるし。
視線をカレンダーからワトソンに戻す。
改まった服装が彼女の為だと思うとホームズは急に憂鬱な気分になった。
目線を虎皮へと落とす。長年冒険を共にしてきた相棒と別れる現実からの逃避の表れなのだろう。
分かっている。分かっていたから受けたショックはそれほど大きくはなかった。
代わりに彼がここに居るのがもう最後になるんだなぁという半ば諦めに近い感情が
ぼんやりと脳裏に浮かび上がった。
ただただ、窓越しに見えるロンドンにしては嫌なほどに晴々としている
今日の澄み渡っている空みたいな空虚な気持ち。…全く、皮肉だ。

「あぁ…そうだったね」

聞きとれるのがやっとな声量で呟いた後、ドアの取っ手から手が離される音が聞こえた。
ワトソンの方へと顔を上げる。
額の中央に位置する皺は相変わらずだがどこか雰囲気が違っている気がした。
同じ皺でも眉は若干『八』の字になっていたり
どちらかと言えば表情も憂えとか、悲しみを取りまいている。
作品名:Good bye to you 作家名:なずな