Good bye to you
だが不思議な事にその顔を見ている内に自分でも訳の分からない喜びが胸をくすぐり
少し楽になり、幾らか役者の様に笑顔を装える余裕ができた。とびっきりにっこりとした笑顔を。
「そりゃ、君と今まで様々な事件に繰り出せた事はこのうえなく最高だったさ」
両手で伸びをしてから立ち上がり、実験器具が散らかりっ放しのテーブルの
すぐ横にある窓の縁に手を置く。
「けれども…考えてみれば君にも君の人生というものがあって
いずれこうなる時が訪れてくるのかもしれない、と頭の片隅では思っていたのかもしれない」
置いたままの手でゆっくりと縁の部分を撫でる。
端っこから隅まで指先の腹でなぞる様にして行き来していく。
「きっと一緒にいた時間が長過ぎたんだよ。だから離れるのが辛く感じるんだ」
真ん中に差し掛かった辺りで往復していた指を止め、でも、と言葉を続ける。
「でも、彼女と生涯を共にすると本当に心に決めているのだとしたら、
それで君が幸せになれるのだとしたら、その選択も悪くはないだろう」
「ホームズ……」
柔らかく、沈みも含まれている声音でワトソンが自分の名を呼ぶ。
普段の彼なら絶対出さない声色に一瞬、心がぐらつく。
やめろ。
やめてくれ。
最後の最後にそんな態度ででるだなんてあまりにも卑怯過ぎるじゃないか。
「ホームズ…私は君をまともな人間だと思った事は一度たりともないが今日は本当におかしいぞ。
いつもの君なら皮肉な言葉の一つでも飛ばす筈だ。それがどうしたんだ、熱でもあるんじゃ、」
「なに、僕なら心配いらないよ。事件はクラーキーとでもやっていけるさ」
ゆらゆらしそうになる声を必死に抑えながらワトソンの元へと歩みよる。
目の前で立ち止まり、彼の両手を包み込む様にして取る。
瞼を閉じ、それを自らの唇でそっと口付けてみる。
「いってらっしゃい、ワトソン。彼女を大切にするんだぞ。
それからたまにはこっちに顔を出してくれよ。1人になるのは寂しいからね」
「Good by」と小声で呟きながら、両手に軽くキスをしてから目を開け、顔を上げる。
グリーンブルーの瞳は先程の冷やかさとは打って変わって代わりに緩やかな情が染み込んでいた。
「ありがとう…ホームズ」
同じくらい温かい声が耳の中に入り込んでくる。
腹の底でじわっと小さな火がついたかの様に疼く。
「じゃあ、行ってくるよ」
ドアがそっと閉まっていくのをホームズは暫く、ぼんやりと眺めていた。
そうだ。
本来彼にとってはこの非日常的な世界よりも安息の日々を送っていた方が合っているのかもしれない。
ただ、ほんのちょっとの間、迷い込んでしまっただけなのだ。
途中、背後から物音がして、振り返ると置きっ放しにしていたブランケットがもぞもぞと動いていた。
中からグラッドストーンがひょこっと出てきた。
寝ている時に開いていたドアの隙間から入ってきたのだろう。
グラッドストーンはのそのそと歩きながら、たるんでいる首を左右にぶるぶると振ると
ホームズの方へと見上げた。
ホームズも乾いた笑いを洩らしながらグラッドストーンに目を向ける。
「全く…僕も連れて行ってくれれば良かったのに…酷いと思わないかい、グラッドストーン。ん?」
おどけた口調で言いながら静かに床に伏している老犬の頭を撫でる。
気持ち良さそうに目を細めているのが分かる。
いつもなら存在自体すら憎たらしいと思うのが今では自分でも驚くぐらい穏やかに接せている。
「離れて行ってしまったんだぞ。君のご主人様が」
離れて行った――自分で口にしておきながら悲しくなる。
そうだ。彼は、ワトソンはもうここには『帰って』は来ないんだ。
「…離れて行ってしまったんだな」
目頭が熱くなる。
込み上げてきた温い粒はいくら拭っても止まらず、それどころかどんどん溢れていく。
目元を覆い、視界がぼやけている中、くぅん、とグラッドストーンの寂しげな泣き声が聞こえた。
思えばワトソンの言った通り、今日の自分は本当に変だ。
意味もなく作り笑いをしたり、勝手に感傷的になったりと、どうかしている。
推理をしている最中とは違う意味で表面上、酷く冷静なのに矛盾して、胸中では酷く動揺している。
まるで、さっき見た夢の中の自分みたいに。
だが、同時に気付いた。
あの夢での、恐れの原因が、答えが。
そう、君が彼女の元へと行ってしまうのが嫌なのではない。
君が僕から離れていくことが恐いんだ。
END
作品名:Good bye to you 作家名:なずな