あたたかな涙
以前よりはもっと前向きに、自分に出来る精一杯をと、思えるようになったつもりではあるのだが、それでも色々と上手くいかないときや、もう何もかも嫌だと感じてしまうときはある。そうしてそんなときは元々の性格が顔を覗かせて、中々上手く気持ちの切り替えが出来なくなってしまう。こうなるともう、頭が痛くなるまで、気が済むまで泣いてしまわないといけない。我ながらしち面倒くさい性格をしているとは思うが仕方ない。――仕方ない、のだが。
奥歯を強く噛みしめて、すすり泣きの声が零れそうになるのを必死に堪える。それでも、駄目だ、と思ったときには視界が滲んでいて、咄嗟に顔を伏せた。涙がぱたぱたと膝の上に落ちて、服の生地を鈍く染める。こんなみっともないところは誰にも見られたくない。……誰にも、いや、相手がこの人なら、尚更だ。目線を落とした先、自分ともうひとりの靴が見えている。
今日は朝から何となくついていなかった上に、仕事も全く上手くいかず、心身共に疲れきっていた。けれどそれは殆どが自分の責任で、誰に何を言う訳にもいかないことだった。これからもっと、更に頑張ろうと思って、気持ちを奮い立たせ、どうにか進んでいくしかないことだった。そう、頭では分かっていたのだ。
それでも、トレーニングルームを出て、ふとソファに腰を下ろしたら、気が抜けてしまったのか、涙が止まらなくなってしまった。こんなところで、と思っても、自分の感情を置き去りに溢れ始めた涙は更に酷くなるばかりで、結局僕は顔を両手で覆って、声だけは必死に噛み殺しながら、ぼろぼろと泣き続けるしかなかった。
そんなときに通り掛かったのが彼だった。割に遅い時間だったから、皆帰ったかなと思っていたのだけれど、彼はまだ残っていたらしい。こちらは顔を伏せているから気付かなかったが、彼はすぐに気付いた。そうして、どうしたんだい、と気遣わしげに声を掛けて、僕の肩に手を乗せた。
僕は酷くびっくりして、反射で顔を跳ね上げたけれど、すぐに自分が今どんなにぐしゃぐしゃな顔をしているかに気付いて俯いた。見られたくない、見て欲しくない。放っておいて下さい、と呟いた声は掠れて小さく、自分でも分かる程に情けなかった。
彼はやさしいから、やはりというか何というか、放っておいてくれる訳がなかった。名前を呼んで、ためらいがちに僕の肩を少しだけ撫でる。大きなその手はあたたかで、強張った体をじんわりと解いていった。そのことが嬉しくて、でも、だからこそ申し訳ないと思う。彼のように誰からも必要とされる人が、こんな自分を気に掛けてくれる。そんなのはきっとよくないことなのだと思う。役に立てない僕なんかより、きっともっと彼に相応しいものはあるはずなのだ。こんなちっぽけな僕なんかじゃなくて、もっとよいものが、彼には似合う。
イワンくん、と呼ぶ声は、彼にしては珍しく、何かに戸惑うかのように小さく弱々しげだった。そこまで心配させてしまったことにまた罪悪感が募る。手の甲で頬を拭って、どうにか笑顔を作った。そうして顔を上げ、ごめんなさい、と謝ろうと口を開いたところで、酷く辛そうな顔をした彼に気付く。
どうして、と問う間もなく、椅子に座る僕の前に跪いた彼に肩を引き寄せられる。え、と声を上げ、目の前の体を押し返そうとしたが、元より力の差が大きいのは明らかで、結局そのままになってしまった。がっしりとした肩に頭をこつんと付け、自身の背に回る大きな手の温みを意識する。
未だに涙は止まらない。彼に抱きしめられたことで、元より大きく揺れていた感情の行き場を失くし、宙ぶらりんになってしまった気がした。このままではよくないと思い、泣きやもうと、早く離れようと思うのに、何ひとつ上手くいかない。体を縮み込ませ、すっぽりと抱きしめられた状態で肩を震わせる。彼の服が濡れてしまうとは思ったが、どうしようもなかった。
――ああ、本当に情けないし、惨めだ。彼のように、他のヒーローたちのようになりたいと思って、それでも上手くいかないと悲しくなって、自分の無力さが嫌になって泣いてしまう、それだけで充分、自分で自分が居た堪れないのに。
すみません、と、ようよう呟いた声は酷く震えていたし、涙のせいでほぼ聞き取れないような状態だったけれど、彼は違わず聞いてくれたようだった。僕を抱きしめる力を更に強めて、もう一度、イワンくん、とやさしく言う。そんな声、を、出されたら、もっと弱く、縋りついてしまいそうになる。駄目だ、と反射的に思って、首を振った。
「キース、さん、……離して下さい、」
「え?」
「ごめんなさい」
今度はきっぱりと、言えた。すると、それまできつく僕を抱きしめていた彼の力が緩んだのが分かって、少し強く目の前の体を押し戻す。うつむいたまま、しゃくり上げる声を抑えて、大丈夫ですから、と続けて囁く。早く、早く彼から離れて、こんな姿は隠してしまわないと、とそれだけを考えていた。泣きたくなんてない、泣いている姿を見せたくなんてない。
けれど、彼はそんな思いなど知らないとでも言うかのように、僕の腕を掴んで、距離をとろうとするのを拒んだ。その上、真正面から顔を覗き込まれてしまう。逃げ場がない、と分かったが、それでも出来る範囲で顔を、せめて目線だけでも逸らそうとしていると、そんな動きさえ妨げられて、ついには大きな両手で頬を包まれてしまった。
「……あ、の」
「うん」
「見ないでくださ……」
僕の顔を覗き込んで微笑むキースさんに、しゃくり上げる途中でようよう声を掛ける。真正面から見つめられるのは恥ずかしくて堪らない。けれどキースさんの手が離れていく気配はなく、それどころか柔らかに指先が動いて、目元から頬や顎の辺りまで垂れた涙を追っては拭い取る。
しばらくそんなことを続けられる内に、僕の嗚咽は徐々に落ち着いて、一時期のように酷くしゃくり上げることはなくなった。まだ涙は溢れるけれど、その勢いは弱まっている。キースさんもそれに気付いたのか、一度頬から手を離すと、今度は僕の頭を数回優しく撫でた。
「目が真っ赤だ」諭すように言われて思わず大きく瞬く。もう一度頬に戻ってきた指の腹で目尻を軽く触られる。触れられた側の目を伏せると、そのまま瞼に何か柔らかな感触がある。えっ、と声を上げる間もなく、今度は鼻先に。至近距離で目が合ったキースさんは困ったように眉を寄せる。
「離すことも、見ないでいることも、どちらも叶えられなくて、君には悪いことをしたね」
許してくれるかい?
そうして、こんなことを言う。そんなの、と首を左右に振った。悪いことというなら、元々は彼の前で泣いてしまった自分が悪い。そう伝えて謝ろうと顔を上げると、真正面からキースさんと目が合った。思わず顎を引こうとしたけれど、両頬をすっぽりと包まれたままでは、そんな簡単なことすらも出来なかった。
奥歯を強く噛みしめて、すすり泣きの声が零れそうになるのを必死に堪える。それでも、駄目だ、と思ったときには視界が滲んでいて、咄嗟に顔を伏せた。涙がぱたぱたと膝の上に落ちて、服の生地を鈍く染める。こんなみっともないところは誰にも見られたくない。……誰にも、いや、相手がこの人なら、尚更だ。目線を落とした先、自分ともうひとりの靴が見えている。
今日は朝から何となくついていなかった上に、仕事も全く上手くいかず、心身共に疲れきっていた。けれどそれは殆どが自分の責任で、誰に何を言う訳にもいかないことだった。これからもっと、更に頑張ろうと思って、気持ちを奮い立たせ、どうにか進んでいくしかないことだった。そう、頭では分かっていたのだ。
それでも、トレーニングルームを出て、ふとソファに腰を下ろしたら、気が抜けてしまったのか、涙が止まらなくなってしまった。こんなところで、と思っても、自分の感情を置き去りに溢れ始めた涙は更に酷くなるばかりで、結局僕は顔を両手で覆って、声だけは必死に噛み殺しながら、ぼろぼろと泣き続けるしかなかった。
そんなときに通り掛かったのが彼だった。割に遅い時間だったから、皆帰ったかなと思っていたのだけれど、彼はまだ残っていたらしい。こちらは顔を伏せているから気付かなかったが、彼はすぐに気付いた。そうして、どうしたんだい、と気遣わしげに声を掛けて、僕の肩に手を乗せた。
僕は酷くびっくりして、反射で顔を跳ね上げたけれど、すぐに自分が今どんなにぐしゃぐしゃな顔をしているかに気付いて俯いた。見られたくない、見て欲しくない。放っておいて下さい、と呟いた声は掠れて小さく、自分でも分かる程に情けなかった。
彼はやさしいから、やはりというか何というか、放っておいてくれる訳がなかった。名前を呼んで、ためらいがちに僕の肩を少しだけ撫でる。大きなその手はあたたかで、強張った体をじんわりと解いていった。そのことが嬉しくて、でも、だからこそ申し訳ないと思う。彼のように誰からも必要とされる人が、こんな自分を気に掛けてくれる。そんなのはきっとよくないことなのだと思う。役に立てない僕なんかより、きっともっと彼に相応しいものはあるはずなのだ。こんなちっぽけな僕なんかじゃなくて、もっとよいものが、彼には似合う。
イワンくん、と呼ぶ声は、彼にしては珍しく、何かに戸惑うかのように小さく弱々しげだった。そこまで心配させてしまったことにまた罪悪感が募る。手の甲で頬を拭って、どうにか笑顔を作った。そうして顔を上げ、ごめんなさい、と謝ろうと口を開いたところで、酷く辛そうな顔をした彼に気付く。
どうして、と問う間もなく、椅子に座る僕の前に跪いた彼に肩を引き寄せられる。え、と声を上げ、目の前の体を押し返そうとしたが、元より力の差が大きいのは明らかで、結局そのままになってしまった。がっしりとした肩に頭をこつんと付け、自身の背に回る大きな手の温みを意識する。
未だに涙は止まらない。彼に抱きしめられたことで、元より大きく揺れていた感情の行き場を失くし、宙ぶらりんになってしまった気がした。このままではよくないと思い、泣きやもうと、早く離れようと思うのに、何ひとつ上手くいかない。体を縮み込ませ、すっぽりと抱きしめられた状態で肩を震わせる。彼の服が濡れてしまうとは思ったが、どうしようもなかった。
――ああ、本当に情けないし、惨めだ。彼のように、他のヒーローたちのようになりたいと思って、それでも上手くいかないと悲しくなって、自分の無力さが嫌になって泣いてしまう、それだけで充分、自分で自分が居た堪れないのに。
すみません、と、ようよう呟いた声は酷く震えていたし、涙のせいでほぼ聞き取れないような状態だったけれど、彼は違わず聞いてくれたようだった。僕を抱きしめる力を更に強めて、もう一度、イワンくん、とやさしく言う。そんな声、を、出されたら、もっと弱く、縋りついてしまいそうになる。駄目だ、と反射的に思って、首を振った。
「キース、さん、……離して下さい、」
「え?」
「ごめんなさい」
今度はきっぱりと、言えた。すると、それまできつく僕を抱きしめていた彼の力が緩んだのが分かって、少し強く目の前の体を押し戻す。うつむいたまま、しゃくり上げる声を抑えて、大丈夫ですから、と続けて囁く。早く、早く彼から離れて、こんな姿は隠してしまわないと、とそれだけを考えていた。泣きたくなんてない、泣いている姿を見せたくなんてない。
けれど、彼はそんな思いなど知らないとでも言うかのように、僕の腕を掴んで、距離をとろうとするのを拒んだ。その上、真正面から顔を覗き込まれてしまう。逃げ場がない、と分かったが、それでも出来る範囲で顔を、せめて目線だけでも逸らそうとしていると、そんな動きさえ妨げられて、ついには大きな両手で頬を包まれてしまった。
「……あ、の」
「うん」
「見ないでくださ……」
僕の顔を覗き込んで微笑むキースさんに、しゃくり上げる途中でようよう声を掛ける。真正面から見つめられるのは恥ずかしくて堪らない。けれどキースさんの手が離れていく気配はなく、それどころか柔らかに指先が動いて、目元から頬や顎の辺りまで垂れた涙を追っては拭い取る。
しばらくそんなことを続けられる内に、僕の嗚咽は徐々に落ち着いて、一時期のように酷くしゃくり上げることはなくなった。まだ涙は溢れるけれど、その勢いは弱まっている。キースさんもそれに気付いたのか、一度頬から手を離すと、今度は僕の頭を数回優しく撫でた。
「目が真っ赤だ」諭すように言われて思わず大きく瞬く。もう一度頬に戻ってきた指の腹で目尻を軽く触られる。触れられた側の目を伏せると、そのまま瞼に何か柔らかな感触がある。えっ、と声を上げる間もなく、今度は鼻先に。至近距離で目が合ったキースさんは困ったように眉を寄せる。
「離すことも、見ないでいることも、どちらも叶えられなくて、君には悪いことをしたね」
許してくれるかい?
そうして、こんなことを言う。そんなの、と首を左右に振った。悪いことというなら、元々は彼の前で泣いてしまった自分が悪い。そう伝えて謝ろうと顔を上げると、真正面からキースさんと目が合った。思わず顎を引こうとしたけれど、両頬をすっぽりと包まれたままでは、そんな簡単なことすらも出来なかった。