あたたかな涙
こつんと額同士を合わせたキースさんは、イワンくん、と、何だかとてもあたたかな気配を纏う声で僕を呼ぶ。二度、三度、呼ばれた後でそろりと顔を動かした。頬が熱い。きっと可笑しなくらい赤くなっているのだろうと思った。それでもキースさんはからかったりしなかった。僕の頬を指の背でそろそろと撫でてにっこり笑うと、大きく頷いてみせる。
「やっと、私を見てくれた」
「……?」
「イワンくんが泣いている間、ずっとどうしようと思っていたんだ。上手く言葉も掛けられなかったしね」
「えっ、」
「あげく、君が嫌だと言ったのに気が回らないで、怒らせてしまったかな、と」
「キースさ、ん」
咄嗟に手を伸ばして、彼の言葉を遮る。不思議そうに目を瞬かせる彼に、違うんです、と思わず強い声を出していた。
そんなの、違う。僕はただ、彼にあんな情けない姿を見られたくなくて、それだけで、優しい手も声も、自分が貰う訳にはいかないと思って、……怖くなった、だけで。本当は嬉しくて、でもそんなの駄目だと思う自分もいて、訳が分からなくなって、逃げ出そうとしただけ。
僕の手の下でキースさんが何事か言うのに気付いて、はっと手を離す。それから、どうしようかと思ったが、思いきって自分の頬を包んでいる大きな手に、自分のそれを重ねた。そうして真っ直ぐにキースさんを見つめて、声を出す。
そんなことないです、と囁いた声は小さかったけれど、彼は間違いなく聞いてくれたらしい。頷きが返ってきたのを確かめてから、考え考え、言葉を続ける。
「僕、泣いてばかりで……、そういう自分が嫌なんです」
「……」
「だから、……そんな情けないところ、見せたくなかった」
見ないでと言ったのもそのせいで、でも、あなたは優しかったから、嬉しくて、だけど同じくらい怖くもなった、と、拙い言葉を幾つも重ねる。そんな僕を、キースさんは本当に近くでじっと見つめている。瞬きの音すら聞こえてしまいそうな距離だった。
「……え、と」一通り言葉を出し尽くしてしまうと、途端にその近さが恥ずかしくなる。どうしよう、と頭の中は混乱でいっぱいになってしまい、落ち着きなく視線をさ迷わせる。重ねたままの手もじんわりと熱くて、触れ合っていることをいやがうえにも思い知らせてきた。
けれど、僕のそんな動揺とは反対に、キースさんは瞳を輝かせ、満面の笑みを浮かべていた。そうして、酷く嬉しそうな声で僕を呼ぶと、ぱっとその手を広げて、僕の体を抱きしめた。驚いて声を上げても、腕の力は弱まらない。体格差のせいで半ば押し潰されるような状態になり、そっと浅い息を吐く。
僕を強く抱きしめたまま、キースさんはありがとうと数回繰り返した。何で僕がお礼を言われるのだろうと思って少し首を傾げる。それに気付いた訳ではないだろうけれど、丁度のタイミングで、欝陶しいと感じられたのでなくてよかった、とキースさんが呟く。
「少しでも力になれたらと思っていても、それがお節介であったなら何の意味もないからね」
「そんな、」
「うん、だから、君がそれを気にしている訳でないのならよかった。――ああ、それと、」
「……?」
僕の背から肩へと手を動かして、キースさんがゆっくりと体を離す。両肩に乗せられた大きな手の温み。真正面から僕の目を見つめる瞳が細まって、彼は緩やかに微笑んだ。
「私は君が泣くのを、情けないとは思わないよ。それどころか、素直で真っ直ぐで、素晴らしいことだと思う」
「え……?」
「だって君は、自分の弱さを見つめているだろう。弱さを知って、これでは駄目だと自らを正すだろう。そういうことを素直に出来る人はね、あまり多くないんだよ」
だから、君は素敵だ、と、キースさんが朗らかに言う。そうして、驚いて固まった僕の頬を指の背で少し撫でると、それとは反対の頬に軽く唇を触れさせた。
柔らかな感覚は一瞬で、けれど鮮やかな感覚を僕に与えるには充分だった。キースさんに触れられたところが熱を持っているような気がして思わず手で触れる。するとその手ごと両頬が包み込まれて、ぐいと仰向かされたら、今度は唇同士が触れ合った。目を見張った、そのすぐ近くで、キースさんが僕の名前を呼ぶ。
「イワンくん、君はとても、魅力的だよ」
ああ、どうして。どうしてこの人は、こうやって、何でもないような顔をして、いとも簡単に僕を救ってしまうのだろう。どうして、酷く情けない僕を大切に扱ってくれるんだろう。こんなに嬉しくなることがあるだなんて。こんなに幸せな気持ちになれるだなんて。一度静めた涙がまた溢れそうで、両肩は支えられたままだったが出来る限りでうつむく。そうして、首を強く左右に振り、浮き立つ気持ちを必死に押し潰す。
けれど、キースさんはそんな僕の戸惑いも何もかも全て包み込むように、ゆっくりと腕を僕の体へと回した。泣かせるつもりはなかったんだが、と困りきった囁きが耳元へ落ちてくる。それでも、彼は離れていかなかった。背中には、腕には、彼のあたたかな感触が絶えずある。
大きな手が僕の強張った体を解していく。優しい指の動きを追いながら涙が滲んだ目を伏せる。ああこれが、身にあまる程の喜びをくれる人の手、――幸福でも人は泣くのだと、僕に教えてくれた人の手だ。
(110711/空折)